第2話:……人を、斬りとうございます



◆◆◆◆



「勝負あり! そこまで!」

「くっ……見事!」


 道場に声が響く。道場破りを常とする巨漢は、木刀を振り上げたままの姿勢で固まっていた。それもそのはず。彼と対峙……いや、地を這うような姿勢で道場の床に伏せているのは志度光悦。その右手が鞭のように伸ばされ、ぴたりと道場破りの喉元に木刀を突きつけていた。


「……勝負あり。拙者の勝ちか」


 死んだ魚のような目に青白い肌と総髪。幽鬼の如き姿の志度光悦は、道場破りに突きつけた木刀を引くと静かに呟いた。道場破りは一礼して去っていく。


「江戸にも未だ狼の巣があるとは……快なり」


 それを見送ることもなく、光悦はふらりと立ち上がり、道場の奥へと消えていった。道場破りの後を追う他の門下生の騒ぎが、少しずつ遠ざかっていく。



◆◆◆◆



「光悦、よくやってくれた。あの道場破り、先日は北神一燈流のところで門下生を三人同時に相手取った強者よ」


 外刀流免許皆伝、白髪白髭の長谷川正忠(まさただ)は、台所でフナをさばきつつそう言った。彼は六十半ばにして、江戸でも随一の剣術使いである。


「……お師匠様」

「なんだ?」

「……いえ、なんでもありません」


 光悦は死人のように再び黙する。


「昨夜も、亡者相手に稽古をしてきたのか?」

「……はい」


 平然と答える光悦に、正忠はため息をついた。


「まったくお前という奴は。何度儂が岡っ引きに呼ばれて奉行所に引き出されたことか。墓場で痩せた男が抜き身の刀を抜いてぼんやり立っている、と町人の間でもっぱらの噂だぞ。稽古ならば儂の門下生とやればよかろうに」

「……亡者ならば、遠慮なく斬れますゆえ」

「やれやれ」


 正座したままぼそりと言う光悦の言葉に、正忠は再びため息をつくしかなかった。この男、志度光悦は生まれつき病弱であった。幼いころから何度も大病を患い、満足に立つこともできないほど身体が弱っていた時期もあった。しかしそれでも、彼は剣の道を諦めなかったのだ。


 誉も恥も知らず、ただ戦場で生き延びることのみを追求する覇道の剣術、外刀流。そんな流派に入門した彼は、血反吐を吐いて修行に励んだ。そして上り詰めたものの、彼の身体には致命的な欠陥があった。それは死病である。肺を患っている彼は、激しい鍛錬によってしばしば呼吸困難に陥り、道場の床に倒れ伏して気を失う。


 しかし、その度に光悦は黄泉路に迷った死者のように刀を握り、鬼気迫る面持ちで立ち上がるのだった。外刀流からすれば「我が流派の鑑なり」と誉めるべきであるが、同時にこの太平の世にあっては忌むべき存在でもあった。亡者を斬るどころから亡者同然の男が刀を振るっている姿など、御前試合で披露することなどできないのも当然だ。


「光悦、お前はもう十分やった。そろそろ嫁を貰い、身を固める気はないのか? それとも何か他にやりたいことがあるなら手を貸すぞ?」


 正忠は、包丁を器用に動かしながらそう尋ねた。


「……ます」

「うむ?」


 正忠が問うと、光悦はその生気のない目にわずかの妄執をのぞかせつつ言った。


「……人を、斬りとうございます」


 ぴくり、と光悦の指が動いた。まるで死体の上で蛆虫が這うような動きだ。人を斬る。斬り殺す。殺める。その体験を剣客として熱望するのは理解できる。けれども、光悦のそれはあまりにも濁りきった欲望だった。


「光悦。やはりお主は病んでおる。まあよい。あの道場破りを退けたことは誉めねばなるまい」

「……ありがとうございます」


 あくまでも礼儀正しく深々と頭を下げる光悦を見て、正忠は小さく嘆息した。


(つくづく、時代を間違えて生まれた男よ。戦乱の世ならばあるいは立身できたかもしれぬ。だが……思えば外刀流とは、こういった者を救うためにあるのかもしれぬ)


 やがてフナの煮つけが出来上がり、それを皆に正忠はふるまった。静かに光悦も箸をつけるのだった。



◆◆◆◆



「あっはっは! いやあ愉快愉快! 北神一燈流さえ退けた道場破りが、お前に敗れるとはなあ!」

「……もったいないお言葉です。石動(いするぎ)殿」


 夜更け。眠らない町吉原遊郭。あってはならないものたちのいるこの世界では、遊郭はもはや一つの異界となり、あらゆる人間、人間以外のあらゆる欲望、性癖を満たす究極の歓楽街となっていた。


 そこを闊歩する外刀流の門下生。巨漢の石動有馬。田舎出身の河村勘兵衛(かんべえ)。女好きの蜂須賀甚六(じんろく)。そして志度光悦。


「へ、へへへ、さすが吉原だ。美人がいっぱいだぜ」


 勘兵衛は早速目移りしている。あちこちの朱塗りの格子の向こうでは客待ちをする遊女たちが、三味線や琴をつまびきながら艶やかな笑みを浮かべている。いずれも美しい女ばかりだ。


「焦るなよ勘兵衛。ここ吉原じゃあなあ、馴染みにならなきゃいい女には手ぇ出させねえんだ」


 女遊びにかけては剣よりもはるかにうまく、百戦錬磨の甚六がわざと遊女たちの前を知らんぷりして通り過ぎる。


「分かってらぁ!さっさと行こうぜ! 俺ぁ早く酒を酌で飲みたいんだよ」

「おい、あんまり急ぐんじゃねぇ。迷っても知らんぞ」


 そう言いつつ、甚六もどこか落ち着かない様子で辺りを見ている。


「……甚六殿。いかがなされた?」

「おう光悦か。俺ぁこのところ白梅っていう太夫とねんごろでなあ」

「……白梅、ですか」


 白梅は、吉原でも五指に入る美女である。


「ああ。最近、お前さんは岡っ引きに呼ばれてばっかりだからなあ。たまにゃこういう息抜きも必要だろうよ」

「……墓場の亡者を斬っていただけなのに、白州でお叱りを頂戴するばかりです」

「亡者なら遠慮なく斬れるって言ってたが、仏さん斬ってりゃ罰も当たるぜ……」


 呆れたように言う甚六だったが、その目は笑ってはいなかった。


「ところで光悦、お前さんの目当ては何だい?」

「……拙者ですか?」


 光悦は少し考えてから、首を左右に振った。


「……今のところ、特には」

「そうかい。俺が行くところは一見さんお断りのところだから、悪ぃがつれていけねえな。堪忍してくれ」

「……構いませぬ」


 そう言うと、石動がすかさず光悦の肩を持った。


「では光悦と勘兵衛は俺があずかろう。うむうむ、素人らしく、身の丈に合った遊びをせねばな。わっはっは」


 皆に「塗り壁」とあだ名される相撲取りのような巨漢は、外見に合った豪快な笑い方をするのだった。この兄弟子は、光悦の隣に立つとその幅も厚みも彼の倍はある。暴れ牛の角を掴んでねじ伏せたという武勇伝があるが、誰一人疑う者はいないだろう。およそ対照的な石動と光悦であるが、同じ流派を学ぶ者としてその関係は極めて良好だった。



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