第3話:妓楼に来て、女の柔肌に触れないで帰るなんて無粋ではないですか



◆◆◆◆



 光悦が「……ここに致します」と言って石動と勘兵衛と別れて入ったのは、一見さんでも喜んで歓迎してくれる小さな廓だった。


「いらっしゃいませ、お侍様」


 愛想よく光悦を出迎えたのは、一人の禿だった。年の頃は十二歳くらいだろう。おかっぱに切りそろえた黒髪に、朱の着物。市松人形に似たあどけない容貌だが、まるで物怖じする様子がない。


「……ここは何という?」

「はい、『荘子楼』と申します。どうぞごゆるりと……と言いたいのですが、あいにく見ての通りうちは小さな廓でして、今お客様のお相手ができる遊び女はおりません」

「……そうか。では、帰るとするか」


 元より遊女に関心のない光悦は、きびすを返そうとした。吉原に来たのは兄弟子たちとの付き合いの一環でしかない。


 しかし、光悦の痩せた手を躊躇なく禿の少女は掴んだ。つくづく、剣客だろうと男だろうと、肺病を病んだ人間であろうと、この禿はまったく恐がる様子がない。


「まあまあ、そう言わずにお座りくださいまし。お茶くらいお出ししますゆえ」


 少女は光悦の手を引き、座敷へと案内した。河の流れに逆らわない笹舟のように、光悦は彼女に従う。


 やがて、湯気の立つ茶と皿に乗った菓子が運ばれてきた。


「お侍様、女子と男女の戯れ事に来たようには見えませんが、当たりですか?」


 平然と禿は光悦の向かいに座った。禿の癖に、一丁前に花魁のように光悦の相手をするつもりらしい。じろりと光悦は片目で禿を見る。


「……女を抱くよりも、刀を振るう方が拙者の性分に合っている」


 幽鬼のよう、と形容される光悦だが、それは彼のやつれた容貌故だ。生気のない肌の色合いに、淀んでいるのに奇妙な熱を秘めた瞳。乾いた頭髪と痩せた体つきを見れば、色男と思う女性はいないだろう。しかし、それらは彼の業病故だ。無理な相談だが、もし彼が肺病から完治すれば、涼やかで剽悍とした好男子になることだろう。不可能なことだが。


「まあ恐ろしい。見せていただけますか?」


 怖気を振るうことを光悦が口にしても、やはり禿はひるまない。年齢のわりに肝が据わっている。わずかに、光悦の乾いた唇が笑みの形になった。


「……承知」


 次の瞬間、白刃が閃いた。胡乱な雰囲気で座布団に座っていた光悦。だが、いつ抜いたのか全く分からない速さで刀が抜かれていた。


 神速の、それも体勢を崩した状態での居合だ。市井の者が連想する、向き合って礼をして構えるような剣術とはあまりにも異なる。実戦向けの、虚実を混ぜた外道の剣だ。ぬるり、と刀が引かれると、ポトリと落ちたものがいる。


「……蛾だ」


 光悦が刀を納めるのと同時に、畳の上には真っ二つに斬られた蛾が横たわった。


「あらあら、さすがはお侍様」

「……つまらぬものを見せた」


 わずかに手で鞘を撫でてから、光悦は再び座布団の上に座り直す。


「いえいえ。では、私も一つ芸をお目にかけましょうか」


 そう言うと、禿はそばに立てかけてあった三味線を取った。


「……ほう、もう弾けるのか」

「姐さんたちにみっちり仕込まれましたから」


 三味線の音色が、座敷に響く。


「……見事だ」

「ありがとうございます。では、今度は歌の方を」


 そう言うと、禿はすうっと息を吸い込み、朗々と歌い出した。子守歌だ。年端もいかない子供が故郷を思って忍び泣くという内容の歌を、禿は三味線を鳴らしつつ歌い終えてほほ笑んだ。


「……悲しい歌だな」

「物心つく前に遊郭に売られた子の歌ですからね。遊女はみな、似たような境遇ばかりです」

「……お前もか?」

「そんなようなものです。でも私は、こうして三味線を弾いているのが好きですから」

「……そうか。お主ならば、よい弾き手になれそうだ」

「まあ、お侍様ったら世辞が上手」


 袖で口元を隠して禿はくすくすと笑う。


「……世辞ではない。剣客たるもの、耳は鍛える。善き音と悪き音の区別はつくつもりだ」


 五識を研ぎ澄ますのが剣客の常である。自然と楽の音の善し悪しもある程度は分かる。禿の三味線と歌は、少女のそれにしては洗練されていた。不思議と、光悦はこの禿との時間に心地よさを見出していた。元より彼は病弱の身。狂ったような剣の中でしか、生を実感できないはずだ。剣とは無関係なこの禿との時間は、なぜか落ち着くのだった。


「お侍様。お気に召されたようですのでご一献いかがですか?」


 そう言うと、禿は徳利と猪口を持ってきた。


「……いや、拙者は酒は飲まぬのだ」


 禁酒を課しているわけではないが、光悦は酒はあまり飲まない。酔って剣の腕が落ちるのは論外であるし、そもそも体が弱いので酔っても不快感の方が勝る。


「まあまあ、そう仰らずに」


 光悦が断っても、するりと禿は光悦の隣に座る。やはり将来の遊女だ。商売に長けている。


「……そうか。では、たまには頂戴しよう」


 あまり断り続けるのも無粋と思い、光悦は酌をしてもらい猪口を傾ける。


「……良い酒だな」

「酔うだけが酒ではありませんよ。味や香り、のど越しも楽しんでこそお酒ですから」


 座敷に招かれ酒席を共にする。これでは普通の花魁と変わらないな、と光悦は苦笑した。


「……まるでお主は一丁前の花魁だな。客と戯れ、酒を注ぎ、軽妙な話術で翻弄する。ここはよい妓楼だ」

「ふふ、では花魁らしく、姐さん方に習った手練手管もお見せしましょうか?」


 禿は光悦の手を取り、自分の方へと導く。


「……おい」

「お侍様は私のような童女に興味はないですか?」

「……いくつだ?」


 あまりにも禿が平然としているので、思わず光悦は問う。


「ネズミが一周するほど」

「……まだ幼いな」


 要するに十二歳ということだ。


「それがよいとおっしゃる殿方もいらっしゃいますよ。……どうですか? お侍様」

「……どうとは?」

「男衆に触れられたことのない私の体ですよ」


 禿はゆっくりと光悦の膝の上に乗ってきた。


「……そこまでしろとは言っていない」


 光悦は顔色一つ変えずに、禿の肩を片手で押して制する。男女の睦み合いは光悦の関心外だ。我が身の業病に対処するのと、その死に物狂いの中に剣の妙技を見いだすのに精一杯で、光悦の身の回りに女っ気というものは今の今まで全くなかった。


「妓楼に来て、女の柔肌に触れないで帰るなんて無粋ではないですか」

「……確かに、その通りだ」


 禿はそっと、光悦の唇を奪った。


「……んっ」


 光悦は瞼を閉じずに、どろりとした目のまま禿の顔をじっと見る。まるで思い人にするかのように、禿は目を閉じて愛しげに光悦に唇を重ねる。


「……お主は、本当に禿なのか?」

「さあ?」


 そう言うと、禿はまた口づけをする。


「……お主の年で一夜妻になれるとは思えぬな」


 ならばなぜここに禿はいるのか。姉分の遊女に、今のうちに慣れておけと放り出されたのか。


「ええ。だから私はいまだに生娘のまま。無理やり花を散らそうとする野暮天な殿方もおられないので、それなりに幸せです」



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