刀花幽明譚~とある肺病を病んだ剣客と吉原の少女のつかず離れずの話
高田正人
第1話:花見はお嫌いですか? 光悦様
◆◆◆◆
黄泉の国から逃げ帰ったイザナミは、黄泉平坂に千引の岩を置いて生者と死者の境を定めた。我々の世界ではこの岩はしっかりと置かれ、現世と異界は隔てられている。しかし、この世界ではごくわずかに隙間があったらしい。幕末の江戸。この世界の日ノ本では、現世に時折あってはならないものが迷い込み、時に益をもたらし、時に害をなす。
日ノ本の男児たるもの、人のみならず異界のものもまた斬る覚悟が必要だった。そんな剣客が闊歩する幕末の江戸。外刀(げとう)流の看板を掲げる道場に一人の若き剣客がいた。仕置きや暗殺、多対一、深手を負った時の体捌きなど、およそ優美や流麗とはかけ離れた剣を教える外刀流。それを学ぶ青年の名は――志度光悦(しど こうえつ)。
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桜が咲いている。満開を過ぎた、やがて散ることを見る者に予感させる花盛りの後の桜が。うららかな春の日の午前中。花筏のできた川の土手は、花見を楽しむ江戸の町人たちでにぎわっていた。川を船頭が舟歌を歌いつつ、竿で舟を進めていく。太平な江戸の一コマだ。天下太平の徳川の世が続き、人々の顔や服装にも余裕が感じられる。
一本の老いた桜の木の下に、一人の剣客が腰かけていた。まだ若い青年と言ってもいい年頃だろう。しかし、一目見て病身と分かる外見だ。脂気のない伸ばしただけの長髪。張りのない肌。痩せた手足。肺を患っているのだろう。呼吸は不規則で浅い。やや頬のこけた陰鬱な顔つき。ただ双眼だけが、濁った中に熾火のような熱を揺らめかせている。
腰には飾り気のない鞘に収められた大小の刀。まるで彼の体の一部のようにそれは馴染んでいる。剣客の名は志度光悦。江戸でも有名な外刀流の門下生である。
「花見はお嫌いですか? 光悦様」
鈴を振るような可憐な声がした。
「どうしましょう。お団子は用意しておりません。今から近くの屋台で買ってきましょうか?」
じろり、と光悦は声がした方を見た。巻いたむしろを背に背負い、手に風呂敷に包まれた重箱を重そうに持つ、一人の少女がいた。吉原で遊女の身の回りの世話をしつつ、自分もやがて遊女となる禿(かむろ)と呼ばれる少女だ。年齢は十代の初めほど。年齢相応の小さくてきゃしゃな体を朱色の着物に包み、髪は切りそろえたおかっぱだ。
「……藤」
光悦は禿の名を呼ぶ。小さな人形のようなその姿は、庇護欲をそそる可愛らしさだ。ゆらり、と光悦は白煙のように立ち上がると、手を伸ばして風呂敷を代わりに持った。
「ふふ、目ざとい方ですこと。おなごはそういう細かい気づかいのできる殿方に弱いのです。覚えておいてくださいね」
くすくすと嬉しそうに藤は笑う。
およそ少女らしくない振る舞いと言葉遣いだ。肝が据わっている、という言葉では片づけられないほど落ち着き払っている。
「……なぜ、ここにいる?」
光悦は尋ねた。吉原の太夫も、桜の盛りには目立つところで花見としゃれこむらしい。行き交う人々は花を愛でつつ彼女たちの艶姿に目を奪われることだろう。廓のいい宣伝だ。
「まあ、よいではないですか。そんなに詮索しないでくださいませ」
しかし、周りを見回しても太夫らしき人物もいなければ、妓楼の関係者と思しき人影もいない。当の藤は、さっさと桜の木の下にむしろを敷き始めた。
「……拙者と一緒にいてはお主まで笑いものになるぞ」
胡乱な剣客が童女を侍らして花見とは、口さがない町人のいい噂の種だ。
「あら、私は別に構いませんよ」
「……拙者が嫌なのだ」
「なら、気にしなければよろしいではないですか。人の噂も七十五日と昔から申しますよ」
無言になった光悦の前に藤は座ると、光悦の手から風呂敷を受け取り、持ってきた重箱を広げた。
「……もし足抜けならば、今のうちに止めておけ」
光悦は眉を寄せる。
遊女が廓から逃げ出すことを足抜けという。連れ戻されればひどく折檻されるらしい。もっとも藤は禿だ。まだ遊女ではない。しかし、たとえそうであっても逃げ出せば探し回され、連れ戻されて仕置きされるだろう。
「違います。もう、光悦様に粋を求めは致しませんが、あんまり無粋では私も困ってしまいます」
藤は不満そうに頬を膨らませる。
「……すまぬ」
「冗談です」
ころりと表情を変えて、藤は笑った。万華鏡のような少女だ。一瞬一瞬で表情がころころと変わる。しかし同時に、それは乱反射する光の作り出す幻像であるかのように危うい。どこかひどく脆く、儚く、危険な香りがする。まさに将来の太夫が約束されたかのような禿だ。恐らく何人もの男を手玉に取ることだろう。
「昼餉にいたしましょう。まだ日は高いのでお酒はありませんが、お茶を淹れますよ」
自分の横をぽんぽんと叩く藤を見て、光悦は当惑した。まるで押しかけ女房だ。いや、おそらく廓では金さえ積めば、そういう状況を演じることだってできるのだろう。今目の前にいるのが年端も行かない童女でなければ、吉原の客引きの一環かと勘違いしそうだ。
「……お主を買った覚えはない」
仕方なく光悦はそう言う。禿を買うなどもとより正気の沙汰ではない。数寄者でもしないことだ。青田買いにもほどがある。しかし藤は当然のような顔で頷く。
「はい。私も今日は光悦様にお買い上げしていただくつもりはありません」
「……では、なぜ」
「本日は、朗報をお伝えに参上いたしました」
「……なに?」
わずかに藤が居住まいを正したので、光悦は興味を惹かれて腰を下ろす。
「先日、朝起きましたら着物にわずかに血が付いておりました。女陰(ほと)からでした」
「……そうか」
何と言っていいのか分からず、光悦は目をそらした。これまで身近に異性の姿がなかった光悦には、女性の体の都合はほとんど知ることのない事柄だった。
「姐さん方に聞きましたら、これがおなごの月のものの始まりだとか。晴れて私も女の仲間入りでございます」
つまり藤は初潮を迎えたということになる。
「……めでたいことだな」
光悦は言葉を濁しながら相槌を打つ。めでたい、とは言ったものの、それは藤の遊女としての生の始まりでもあるのだろう。
これが何を意味しているのか、藤とて知らないわけではあるまい。華やかな吉原は同時に苦海でもある。あたかも剣に生き、剣に溺れ、剣に死ぬ剣客と同じように、女を武器として男を客として迎え入れる遊女。それが藤の将来であり、初潮によってその道が開けた。やがてはこの童女も一人前の太夫として、吉原の顔となることだろう。
「……女の仲間入りというが、まだ始まったばかりであろう。お主はまだ幼い」
藤の口調からは、彼女の感情は読み取れない。姐さんと慕う太夫たちに近づけたと喜んでいるのか、それともこれからを思って気が重いのか。ただ、朗報と言ったのは事実だ。
「ですが、嬉しいお知らせでしたので、光悦様にお伝えに参りました」
居住まいをわずかに正し、藤は自分の腹に手を当てる。
「もう少しだけお待ち下さい、光悦様。光悦様のお望み通り、あと少し成長いたしましたら、その時は――」
帯越しにそっと腹部を撫でつつ、藤はほほ笑む。年齢にはあまりにも不相応な艶やかな笑みで。
「光悦様のお子を身ごもることも、やぶさかではありません」
◆◆◆◆
志度光悦は目を開けた。
「……やはり、夢か」
空気さえも凍ったような真冬。辺りは薄暗い。夜が明けて間もないのか。五体は重く、指一本さえ動かすのが億劫だ。息を吸い、吐く。それだけで重労働だ。
「……未練がましきこと、この上なし」
自分に言い聞かせるように光悦は呟く。従容として死に趣くことなく、未だに自分は生に縋り付いている。
自分には春はもう来ない。間違いなくもうじき自分は死ぬ。生涯共にあった肺病に、とうとう自分は負けた。ずっと背に感じていた死神に、そろそろ追いつかれるようだ。それが悲しくもあり、虚しくもあり、けれども安堵もしていた。光悦は目を閉じる。彼の意識は過去をさかのぼっていく。あの藤という風変わりな禿と出会う、少し前の日々へと。
◆◆◆◆
(注:本編完結済みです)
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