蜘蛛

近藤一

蜘蛛

 結婚して五十周年を迎える私の旦那は二年前から蜘蛛を飼っている。 


 どこで買ったのか知らないが近所の大塚さんの家の金魚水槽などよりも余程大きいガラスケースをテーブルの上に置き、その中に蜘蛛を放っていた。


 最初の頃は部屋の掃除に来たついでで覗くと、つぶらな瞳を持つ小さな蜘蛛を確認する事が出来た。


 どうやら糸を出すタイプだったらしく、今ではガラスケースの中身は糸で満たされて覗き見る事すら出来ない。


 それなのに、何が楽しいのか旦那はじっとガラスケースを眺めている。


蜘蛛は待ち伏せして獲物を喰らうらしい。

滅多に物音ひとつ立てないが、それでも時折する不快な音が私の背筋を震わせた。


「ねえ、それやめてください」


 と思わず文句を言う。少し寂しそうに旦那の背中は静かに丸まっているだけだった。


 いつもこうだ。旦那とは業務連絡的な、淡々とした会話しか最近はしていない。


 本当にこれで夫婦と呼べるのだろうか。


 仲睦まじい娘夫婦を見ていると羨ましく感じる。


 私達にもあのくらい仲が良かった時期があったのだろうか。きっとあったのだろうが、私にはもう思い出せなかった。


「あなた、あなた!」


 旦那は何も答えない。


 餌用に飼育しているマウスのケージを開き、丸々と太った一匹を掴み上げた。


 本能的に自分がこれから餌にされると理解できるのだろう、マウスは悲鳴を上げて抵抗するが旦那は笑みを浮かべて、その抵抗している様を眺めていた。


 やがて固いマメだらけの手でマウスの頭を撫でると、蜘蛛を飼育しているガラスケースを開いて放り投げた。


 マウスはしばらくの間、とてとてとガラスケージの中を走っていたのだろう。音で分かったが、しかし一分もしない内にマウスの悲鳴と同時にガラスケースが大きく揺れた。


 みぎゃあ、みぎゃあ。とマウスが叫ぶ。


 これが断末魔の叫び、というやつだろうか。


 私はどうしても慣れなかった。


 旦那は頭がおかしくなってしまったのだ。


 今まで目を逸らしてきた現実を直視して、私はそう確信した。


 110に連絡しようと携帯電話を取り出した時、手を滑らしてしまった。


 乾いた音が鳴り、旦那の首がぎゅるんと私の方に振り返った。


「ひっ」


 首が百八十度回転したのでは無いだろうか。目をこすってみると、旦那は首と一緒に身体もこちらを向いていた。


 良かった。目の錯覚だった。いや、よくはない。


 旦那のぎょろりと動く目を見ているとぞわぞわと背筋に悪寒が走った。


 あの目は、違う。かつての旦那の温もりに溢れた優しい眼差しを感じない。


 人間を見る目じゃないんだ。


 そう。それはまるで、餌用のマウスを見る様な……。


「はは、すまなかったな」


 途端、旦那はにこりと微笑んだ。


「お前には寂しい思いをさせた」


 しわくちゃな笑顔が、若いころの旦那の笑顔と重なった。


 その言葉に感極まり私は頬から大粒の涙を流していた。


「おいおい、どうして泣くんだい」

「だって、あなたが……。嬉しくて……」

「……すまなかったなぁ」


 ぽんっと私の頭に分厚い掌が乗せられた。


 長年、金槌と鋸しか持ってこなかった職人の手だ。私はこの掌が好きだった。


 きっと私はマウスに嫉妬していたんだろう。


 この優しい掌に頭を撫でて貰えるマウスに嫉妬していた。


 けれど、本当は違うという事に気付いた。


 旦那に優しい目を向けて貰えるのは私だけ。


 その優越感が今までの嫉妬など、どこかに吹っ飛ばしてしまった。


「これからは一緒だ」

「はい、はい……」


 旦那は私の頭を撫でて、優しく微笑んだ。


 嗚呼。私の旦那様が戻って来た。


 今日はお赤飯を焚かなくちゃ。







 

 翌日、旦那は一人で自室に籠っていた。


 ガラスケージの中に餌を放り込み、自身の妻が作ってくれた赤飯を口に放り込む。


「旨い。旨いぞ。流石は私の妻だ」


 昨日は寂しそうに丸まっていた背中は楽しそうに揺れていた。

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蜘蛛 近藤一 @kurokage10

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