第3話 知られたからには
「犬ってスイカ食べられるんでしたっけ」
集会所の、日のささないところの床に寝そべっている人面犬さんに訊ねると、「俺が知るわけねえだろ、犬に訊けよ」と言われてしまう。
「これ、貰い物なんですけど」
あのあと僕は、新池町と古池1.2町を行き来している。新池でたまたまスイカをもらって、せっかくなので人面犬さんたちと食べたい、と思っていたところ、その気持ちに応えるかのように古池への道が開いたようだった。
大玉のスイカを目の前にどんと置くと、人面犬さんは横たわったまま「でか」と言った。
僕の訪問を察するなり麦茶を取りに行っていた半魚人さんが戻ってきて、「わあ、大きなスイカ」とはしゃいだ声を上げる。
「貰い物なんです。一人じゃでかすぎるんで、よかったら」
「嬉しい。今シーズン初スイカかも」
半魚人さんは腰を落としてさっそくスイカを持ち上げようとする。
「ここで食べてもいいんですけど」
「ん?」
半魚人さんは、腰を落としたまま僕の方を向いた。
「近くに海、ありますか?」
「わあ」
半魚人さんは、ますます嬉しそうだ。
かくして僕らは海に来た。
「広い。すいている」僕の大したことのない感想が、波音にさらわれて消えた。
幸い天気もよく、そよ風が気持ちいい日だった。人面犬さんはそっけないように振舞いながらも、しっぽの動きで興奮しているのがわかる。
「そう、ここはすいているからね」
海を選ぶ基準はいろいろあるが、僕らはとりわけ人が少ないことを重要視する集団であることが明らかとなった。些細な価値観の一致が心地いい。
見渡すと、小さな掘っ立て小屋が目に入った。あれはまさか、海の家ではないだろうか。焼きそばは、売ってもらえるのだろうか。
「半魚人さん、あれって」
「ああ。あれはね、海の家だよ」
「焼きそばありますかね」
「焼きそば、あるよ。確か」
僕はすっかりうれしくなって、海の家の方に駆けていった。半魚人さんもついてくる。
と、小屋の中から人が出てきた。小麦色に日焼けした背の高い女性だ。どうやら知り合いだったようで、半魚人さんは「あ」と反応した。
「根岸さん」
根岸さんと呼ばれた女性は振り向くと、こちらに駆け寄ってきた。そして何を思ったか、半魚人さんの腹部に強い蹴りを入れた。砂浜に崩れ落ち、ピチピチと悶える半魚人さん。突然見せつけられた暴力に、僕は何の反応もできないでいる。
「え、えふ君」絞り出すように、半魚人さんは言った。「お腹から、何か出てないか見て……ちょっと、自分で確認する勇気がないや……」
僕は慌ててお腹を確認した。幸い、内臓が溢れているといったようなことはない。「何も出てないように見えます」僕は曖昧な返事をした。
「遅えんだよ、タコヤロー」
根岸さんは苦しむ半魚人さんに向かって吐き捨てる。魚だけどタコなんですか? というくだらない質問が喉まで出かかったが、僕は必死に飲み込んだ。
後からやって来て事情を知らない人面犬さんが、根岸さんに「すみません、焼きそば一つ」と普通に注文した。「忙しい。散れ」と断られてしまう。かわいそうに、人面犬さんの尻尾はすっかり垂れてしまった。
「根岸さん、あの……オレ、何かしたかな」
絞り出すように、半魚人さんは訊ねた。
「何かしたかなじゃねえよ。いつまで来ねえんだよ。こっちはずっと開業して待ってんだよ。オラッ焼きそば食え」
あろうことか根岸さんはデニム地のハーフパンツのポケットに直接焼きそばを入れていて、それをごそっと取り出したかと思うと半魚人さんに投げつけた。「500円な」
「去年は400円じゃなかっ」「いろいろ高くなったから値上げしたんだよ。魚臭えからもう喋んな」
人面犬さんは半魚人さんの周辺に散らばる焼きそばの臭いをクンクン嗅いでは食べ、嗅いでは食べしている。このまま妖怪絵巻にでも登場しそうな、異様な絵面であった。
半魚人さんはよいしょと立ち上がると、麺やキャベツを拾い始めた。
「そうか、ごめんね根岸さん。来るの、遅くなっちゃって」
「ごめんで済んだら警察が要るかよ」
警察に捕まるような行いをしているのはどう見ても根岸さんの方である。
でも、半魚人さんの謝罪を受けて、根岸さんの態度はどこか軟らかくなったような気がした。
海の家のテーブルにつき、焼きそば(ちゃんと焼いてもらった)を食べながら、半魚人さんが何気ない調子で「今年はいつから開けてたの?」と根岸さんに訊ねたので、僕は身構えた。
「ずっとだよ、ずっと」と、根岸さんはぶっきらぼうに答えると、自分の焼きそばをがつがつ食べる。半魚人さんに奢らせたのだ。
「そうかあ」半魚人さんは深々と頷いた。「それは大変だね」
「だから、毎年早く来いっつってんのによ」
根岸さんはぷりぷりと言った。
「春も秋も冬も、うまいもの作ってんだよ」
「え、海の家って夏しかやってないんじゃないんですか?」思わず口走ったあと、しまった、と思った。人の言葉に反射で返答する癖は将来に渡って得がないし、そもそも根岸さんは僕と話してないのに。
「何言ってんだ。つか誰だお前」
案の定、冷たく睨まれてしまった。
「彼はねえ、えふ君。最近こっちに来たばっかりなんだよ」ふふふ、と半魚人さんはどこか得意げに僕を紹介する。僕は気恥ずかしくなって、「す、すみません」と無意味に謝罪した。
「ふうん」
根岸さんは僕のことをじろじろ眺めて、「なんかつまんねえ奴だな」と言った。
「ちょっと、えふ君に失礼じゃない」半魚人さんは慌てたが、僕は「いえいえ、その通りですから」とほほ笑んだ。人面犬と半魚人と僕が並んでいたら、確かに僕が一番つまらない。人面犬や半魚人の方がありふれている世界だったらいざ知らず。
根岸さんはそれ以上僕に興味を示さず、薄切りのレモンが載った水を飲んでいる。すらりとした腕が曲がったり伸びたりするのが美しく、思わず見惚れてしまう。また睨まれたので、すぐに下を向かなければならなかったが。
と、ここで半魚人さんがトイレに立ってしまい、ほかにお客がいない店内で根岸さんと僕は二人きりになった。初対面の女性との間に流れる、重苦しい沈黙。頼みの焼きそばはもう一口分ほどしか残っておらず、ちびちび食べたのではかえって不審だ。人面犬さんが近くにいてくれればよかったのだが、彼はさっさと食事を終えて、ソースと青のりがついた口もそのままに嬉しそうに浜辺を走り回っている。
ここは無難に天気の話でもしようかなと口を開きかけた、その時。
「……あの」
根岸さんの口調は、先ほどとは打って変わって静かなものだった。
「えふ、っつったっけ。あんた、半魚人と仲良いんだね」
仲が良いのかなんなのか、一方的にお世話になっていることは確かである。僕はその通り、「はい。すごくお世話になってますよ」と伝えた。
「そうなんだ……いいな……」
根岸さんはうつむき加減になり、四肢をくねらせている。なるほど分かった。半魚人さんに対してこんなに苛立ちを覚えるのは初めてだ。それと同時に、少し残念な気持ちになった。せっかく素敵な女性と出会えたと思ったら、彼女は絶賛片思い中というわけである。本当にがっかりだ。しかし、おかげで急に気が楽になった。
「半魚人さんのどこがいいんですか?」
などと、若干距離を詰めすぎた感のある質問をしてしまう。根岸さんは驚いたようにこっちを見た。
「は!? 何が?」
「え、好きなんじゃないですか半魚人さんのこと」
「いやなんも言ってねえし……」
「言いました」それはもちろん、態度で、という意味だ。根岸さんは「そうかよ」と呟くと、恥ずかしそうに両手で顔を覆った。なんてわかりやすい人だろうか。楽しくなってきた。
「で、どこがいいんですか」
「言わねえよ! カス!」
僕は微笑んだ。照れながら怒られても全然怖くないのだ。
排泄を済ませた半魚人さんが、「なに? ケンカ?」と、とてもケンカを目撃したとは思えないのほほんとした雰囲気で会話に入ってきた。
「仲良くね」
半魚人さんは主に根岸さんに向かって言った。根岸さんは「うっせ」と、拗ねたようにそっぽを向いた。そして、「ていうか泳げよ。魚だろ」と悪態をつく。
「もうちょっと食休みしたいなあ」と渋る半魚人さんを、根岸さんは「いいから行けって」と半ば無理やり追い払う。
半魚人さんは何度かこちらを振り返りながら、海の方へ向かった。
しばらくして、根岸さんが言った。
「えふ。……知られたからには、お前には協力してもらう」
「ええ。もちろんそのつもりです」こんな面白い話、協力しない方がもったいない。根岸さんは僕があまりにあっさり承諾するものだから一瞬あっけにとられたようだったが、「そうかそうか、思ったより話がわかるじゃねえか」と強がりを言った。
「といっても僕、恋愛全く詳しくないですよ。女性と交際したこととかないですし」
「お前いくつだ?」
「二十七です」
「マジか」笑われるかと思ったが、根岸さんは結構深刻な表情になった。「お前も苦労してるんだな」そんな顔されるなら、笑われた方がマシだった。
「まして、半魚人との恋愛なんてさっぱりわかりませんね……」僕は半笑いで言った。
「そうか……だよな」根岸さんは依然深刻そうだったが、突然、よし! と掛け声を上げながら立ち上がったので、僕は驚いて椅子から落ちそうになった。
「ちょっとこっち来い」
「はい?」
根岸さんに招かれて付いていくと……店の奥に、棚があった。目隠しのようにかけられたカフェカーテンを彼女が引くと。
「わあ」僕は声をあげた。棚はすべて少女漫画で埋め尽くされていた。
「ま、家にはもっといっぱいあるけどな」根岸さんはどこか誇らしげに言った。「恋愛の教科書っつったら、これよ」
そうかなあ、と僕は思う。男性向けの恋愛ものは無いようだし、それ以前に漫画でいいのだろうか。
「協力者特権だ。いつでも読んでいいからな」
「あ、ありがとうございます」思いがけず、海の家が漫画喫茶になってしまった。僕は漫画が嫌いではない。試しに一冊手に取ってみる。学園一のモテ男と普通の美少女の恋物語だ。うん。面白い。
うっかり漫画の世界に入り込みかけた僕の様子に、根岸さんは手ごたえを感じたようだ。一冊の大学ノートを僕に手渡してくる。
「これは?」
「読めばわかる。ここじゃなくて、家で読め。絶対誰にも見つかるなよ」
同級生といかがわしい本のやり取りをする中学生のように根岸さんは言い、僕は期待に胸を膨らませる同級生のような気持ちで頷いた。
「おーい、えふ」
人面犬さんが、遠くで僕を呼んでいる。
「いつまで来ないんだ? スイカがぬるくなるぜ」人面犬さんは待ちきれないとばかりに吠えた。あんなに焼きそばを食べたくせに、もうお腹がすいてしまったようだ。
「はいはい……。っと」
僕は表に出る前に、根岸さんをスイカ割りに誘った。
「大きいスイカなので、ぜひ根岸さんも」
根岸さんはなにか考える風な顔つきになり、「おう」と言った。
「俺は誘導係と食べる係だ。三人で順番にチャレンジしてくれや」
と、身体機能の都合上棒が持てない人面犬さんが言った。
「では根岸さん、半魚人さん、僕の順で行きましょう」
このように提案したのは、どういうわけか根岸さんがすごくスイカ割りをやりたそうにしているし、半魚人さんは大人なので特に異は唱えまい、と思ってのことだ。案の定、半魚人さんはすんなり提案に乗ってくれた。
目隠しを装着し木の棒を携えた根岸さんの立ち姿は、なかなか迫力がある。
「根岸、右だぞ」
意気揚々と指示を出す人面犬さん。しかし、根岸さんは動こうとしない。
「どうしたんですかね」
と傍らの半魚人さんに言うと、半魚人さんは「さあ……」と不思議そうに言った。
「根岸さん、がんばって」
半魚人さんが応援した、その時。
「そこか!」
あろうことか根岸さんは、棒を振り上げながら半魚人さんの声がした方向に迫ってきた。
「ええっ」
幸い半魚人さんより数メートルほど離れたところに棒は振り下ろされたが、根岸さんは「チッ、外したか」と不穏なことを呟いた。様子がおかしいというか、間違いなく半魚人さんを狙っていた。
「何してんですか!?」
僕は遅ればせながら根岸さんの背後に回り、とりあえず目隠しを取ろうと試みる。しかし。
「おっと手が滑っちまった」
根岸さんが手を滑らせたため、左ほほを棒でしたたかに殴られてしまう。
「ぐほ」
僕が砂浜に倒れこんだ隙に、根岸さんは半魚人さんに向かって猛ダッシュした。
「半魚人さん逃げて! その人やばい」と、僕は見ればわかることを言った。
半魚人さんは言われるまでもないとばかり、素早い身のこなしで攻撃を躱し、ダッシュで逃げた。
「待てや!」
「いやだ!」
そうこうしているうちに、スイカそっちのけで追いかけっこが始まってしまった。海辺で追いかけっこなんて素敵なシチュエーションなのに、どうしてこんなロマンチックのかけらもないことになってしまったのか。大体目的はなんなのだ。無理心中ぐらいしか思いつかない。そして目隠しをしているはずの根岸さんがあんなに速く走れることが怖くて怖くて仕方がない。
「えふ君助けて」
「無理です、手負いなので」
実を言うと立ち上がれはする、くらいのダメージなのだが、僕はできるだけか弱く見えるように体を震えさせた。
いよいよ半魚人さんが追い詰められたかに思われた、その時である。
「おわー」
なんだか演技くさい叫び声をあげて、根岸さんは棒を取り落としたかと思うと、半魚人さんの方に倒れこんだ。そして半魚人さんに躱され、そのまま砂浜にダイブした。
「……お前らさ」
声のする方を振り向けば、人面犬さんがひどく沈痛な面持ちで俯いていた。
「なんでちゃんとスイカ割らねえんだよ」
人面犬さんは、なんだか泣きそうにも見えた。
「せっかく海まで来たのにさ。マジ意味わかんねえ」
半魚人さんは根岸さんの様子を気にしながらも、誰も自分の掛け声を聞かないのですっかりふてくされてしまったらしい人面犬さんをフォローしようと、「大丈夫、今度はちゃんとやるよ。ごめんね」と優しく言う。しかし、人面犬さんは「もういい。お前らなんかと遊んでも楽しくない」と面倒なことを言って、とぼとぼ浜辺を歩き始めた。
根岸さんは砂浜から立ち上がったかと思うと、急に勢いを失い、体の砂を払いもせず、ゾンビのように海の家に戻って行った。
僕は根岸さんを追い、後には半魚人さんとスイカが残された。
「根岸さん!」
根岸さんは答えない。
「さっきのは一体」
「……うるせー、ほっといてくれ」
根岸さんは疲れた声で言った。
「僕は協力者なんですから、そのくらい聞かせてくださいよ」
がんばって追いすがると、根岸さんはなんとか聞き取れるぐらいの声量で、「なんか事故っぽく半魚人に抱き着いて、いい感じにしようと……」とゴニョゴニョ言った。僕はあちゃー、と思った。さっきの様子では幼い頃に故郷の村を焼かれた女性がようやく見つけた犯人に復讐をしようとしているようにしか見えなかったからだ。根岸さんはとうとうぽろぽろと泣き出した。
「お疲れさまでした。スイカ食べましょう。水分摂りましょう」
根岸さんは震えながらうなずいた。もう恋愛に不器用とかそういう問題じゃなかった。面白がっている場合ではないことをはっきりと自覚した。どちらかというと、恋愛成就に協力するより半魚人さんの護衛が優先される気がする。
半魚人さんが切ってくれたスイカはまあまあおいしかったし、根岸さんはものすごい量を食べていた。人面犬さんは最初嫌な顔をしていたが、スイカがおいしいので元気になった。
海を眺めていると小さな悩みなどどうでもよくなるというが、実際のところ、僕に関して言えば、悩みは一つも洗われそうにない。ただ、来るとなんとなく嬉しくなるのは確かなことだった。
家に帰ってから僕は、根岸さんから借りたノートを読んだ。半魚人の青年ととある小国の姫のバトルアクションロマンス小説であった。つまり、根岸さん自身が登場人物であり作者なのだ。あの海の家の本棚には置かれていなかったが、根岸さんはたぶんヤンキー漫画も好んで読んでいる。そういう作風だった。
僕は微笑んだ。半魚人さんを連れて、また海に行かなくてはなるまい。
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