第2話 そういう人だから
もう新池町には帰れないに違いない。
そう思っていた僕は集会所の外で自動販売機を探しているうちに新池町に戻っていることに気がついた。集会所のあった場所は、集会所どころか公園も無くなっていた。
古池1.2町なんて夢だったのかも知れない。
通常の仕事をしながら、人面犬さんと半魚人さんのことを考える。あれも、僕の疲れた頭が生み出した愉快な想像だったのだろうと思うと、少し寂しくなった。
ところが、数日後の仕事帰りのことである。
寂しいと思ったのも束の間、魚屋の前で喧嘩をしている二人に遭遇し、おや、と思った。向こうは向こうでおや、という顔をして、喧嘩は一時休戦となった。
「カレイとシャケ、どっちを食べるかって話でもめてたんだよね」
と半魚人さんは身体をぴちぴちさせながら堂々と言った。それは共食いにならないのだろうか。
「カレイが割引きだから、カレイがいいんだけど」
「日本人ならシャケに決まってる」
人面犬さんが吠えた。人面犬に国籍はあるのだろうか。
「えふ、シャケを食え。時代はシャケだ」
「シャケもいいけど、もっと家計のことを考えて欲しいよねぇ」
二人の反応は不可解なものだった。もっと、驚くとか、罵るとか、無視するとか、ともかく強い対応をされるんじゃ、と僕は身構えたのだ。不可抗力とはいえ挨拶もせずいなくなったし、それから何日も経っているのに、こんな風に当たり前に受け入れられるとは、それはそれで意味がわからなくなってくる。
いや、嬉しい。嬉しいことは嬉しいのだ。
「ご飯、一緒に食べない?」
半魚人さんの誘いに、僕は勢いよく頷いた。
僕はシャケもカレイも選ばず、夕食はししゃもに決定した。人面犬さんは「ハァ?」と言い、半魚人さんは「まあまあせっかく再会できたことだからここはえふ君のチョイスに乗っかろう、あーカレイカレイ」と恨み言のように言った。僕はどちらの味方にもならなければ悲しくなる人が出ないと踏んだのだが、誰のためにもならない選択だったことが明らかとなった。思えば、得意ではないのに持って回った気遣いを発揮しようとして失敗することは僕の人生にはひんぱんにあった。直すこともままならない、悪癖なのだと思う。
それでも、二人とご飯を食べられることを、僕は喜んでいる。台所に立つ半魚人さんは僕にもほどよく仕事を振ってくれててきぱきと夕飯が出来上がった。一人暮らしをしていると茹でた麺のみで腹だけ膨らますことも多く、こうやっていかにも栄養がありそうな見た目の食事を摂れることはありがたいの一言に尽きる。いただきますと手を合わせるのだって、随分久しぶりだった。
「お前もしかして、新池町にいたのか?」と、ししゃもの焦げた皮を唇に貼り付けた人面犬さんが言った。
ここついてますよ、と前置きし、僕は「そうなんです」と答えた。
「どうやって帰ったのか、どうやってまたここに来られたのかもわかりません」
「はは、すごいすごい」と半魚人さんが言った。「もうなんでもアリだね。俺だって、半魚人なのにししゃもを食べているし、美味しいし」
自分がししゃもを食べる絵面がほぼ共食いになっていることについて、半魚人さんは自覚的だった。僕はその決定的な瞬間だけは見たらいけない、そんな気がしてさっきから微妙に目を逸らしてしまっている。
「こっちにいる間は、この集会所に来てね。またこの前みたいに急にいなくなったら、そういうことなんだなぁ、って思うし」
「どうも……」
寛容なのかあまり他人に興味がないのか、半魚人さんはそのように言った。
「誰が用意したのか知らんけど、ここ、寝袋とかもあるからな」と人面犬さんが捕捉してくれる。
ともあれこんな謎の世界で拠り所があるのはありがたいことだ。人面犬や半魚人をすんなり拠り所にするあたり、僕はもともと拠り所の少ない人間だったのかも知れないと思う。誰と比べたわけでもないので、実際のところはわからない。
子持ちししゃもは歯応えが良く、穏やかな時間が流れた。
「二人はどうして人面犬と半魚人なんですか?」
お腹いっぱいになった僕は、何気なくそんなことを聞いた。
「じゃあえふ君はどうして人間なの?」
半魚人さんに笑いながら聞き返されて、僕は一瞬たじろぐ。
「たまたまです」
思ったままに答えると、半魚人さんは「オレもたまたまだよ」と笑った。
「人間と魚、両方好きだし楽しくやっているよ」
半魚人さんが腕を曲げると、むき、と力こぶが現れた。ふと、この人が子供、ないし小魚だった頃を見てみたいと思った。
一方、人面犬さんは難しい顔をして「俺は……」と語り始めた。
「俺はな、えふ。自分がイケメンすぎることに悩んでこの姿になったんだ」
これって笑うところかな、と迷って笑わなかった。というのも、人面犬であることに目がいってまったく気づいていなかったのだが、よく確認すれば確かに、人面犬さんの人面の部分は鼻筋が通った色白の美しい男だったからだ。
「俺はあまりにモテ過ぎた。一人の人間がモテて良い限度を超えていた。色々あって疲れた結果、今に至る」
聞きたいところが全部端折られているが、どうやらただの自慢ではないように聞こえるのは実際、人面犬さんが心から疲れ切った顔をしていたからだ。
「モテたことなんかないからよくわからないんだけどさ」と半魚人さんが言った。僕をモテたことなんか無い側だと自然に仮定して、間違いなく共感を得られると踏んだからこその発言だ。確かに僕はモテないが、それを瞬時に見抜かれるほど分かりやすいのかと思うと、じわじわと悲しみが押し寄せてくる。
「よう、大丈夫か、えふ。モテるかどうかなんて大したことじゃねえ。えふ、ししゃもを食え。俺の分も食え。カルシウムを摂れ。話はそれからだ」
かくして僕は少し余分にししゃもをもらった。デザートにカットパイナップルもいただいて、お口さっぱりである。
食事の後は手持ち花火が待っていた。
「えふ君とできたらいいなと思って」と半魚人さんは照れていた。一歩間違えば焼き魚になってしまうリスクを顧みずに、用意していてくれたのだ。
花火なんていつ以来だろうか。
集会所前の公園で、僕らは花火に火をつけた。火薬の匂いがなんとも懐かしい。人面犬さんは体の構造上花火を持てないため、「えふ、次はこれだ」と僕にやらせてそれを眺めるスタイルだ。
「綺麗ですねぇ」
と、素直な反応が漏れる。
「そうだねえ」
間延びした声で半魚人さんが言った。彼の方からなんども食欲をそそるいい匂いがするが、気のせいだろう。
「あのねえふ君」
半魚人さんは思い出したように言った。
「自分の居場所はどっちだと思う?」
古池1.2町か、新池町か、という意味のようだった。唐突な質問に僕はわからないな、と思う。家があるのは新池町で、今は古池1.2町にいる。このまま古池1.2町を出られなければ、古池1.2町の人となるだろう。
「自分で決めることなんですかね」
半分疑問系のような調子で僕は言った。人面犬さんが咥えて来た新しい花火に火をつけると、僕の周りがまた明るくなる。
ここが自分の居場所だと、みんなはどうやって決めているのだろう。考えてみれば僕には、居場所という居場所がない。借りている家は人のものだし、職場の机は職場のものだ。居場所という言葉はしっくりこない。学校で、昼休みに席を立ったとき、明るくて話好きの女の子が自分の席に座っているのを教室の外から見て、その後どこに行ったんだっけ。
「もしかしたらえふ君は、そういう人だから行ったり来たりしてるんじゃないかなぁと思ったの」
「そういう人?」
「うまく言えないんだけど……なんか、君ってふわふわしている感じがするんだよね」
ふわふわしている、のか、僕は。
当たっているような、それでもまだ何かがずれているような、不思議な感じがした。我が道を行くタイプではないが流されるにしても上手くは流されていない、そんなところだろうか。
「えふ君」
半魚人さんは、新しい花火に手をつける前に言った。
「ここが君の居場所になるかどうかはわからないけれど、えふ君専用のお茶碗とお箸と寝袋、ちゃんと置いておくからね」
「えっ、旅館ですか」
ありがとうございますというつもりが勢いそう返すと、半魚人さんは「そうだねぇ、綺麗じゃないけどご飯は出るし。あ、あとコップと歯ブラシもあるよ」と付け足した。
その時。
「あちち!」
悲鳴が聞こえたので僕はうっかり人面犬さんに花火の火を当ててしまったのではないかと思い、「ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」と彼に近づいた。
しかし、「は? どうかしたか?」と人面犬さんは何が起きたのか分からなそうにしている。
はて、では今何が起きたのかと思ったら、半魚人さんがスマホのライトを使って辺りを照らした。
そこに。
「熱かった」と話す、裸のおじさんが立っていた。
「わっ」僕は悲鳴をあげて飛び退った。
「なんですか!?」
半魚人さんが知っているのか? と思いながらも僕は助けを求めるように半魚人さんを見てしまう。
「こんばんは」
半魚人さんは普通に挨拶をした。
「や、どうも。すみませんねいきなり。楽しそうだったものだから、つい近づいてしまいまして、こう、ちょっと火を浴びてしまったわけですな」
おじさんは小さな声で笑った。素肌に火が触れたのなら、痛かったろう。いやいや、その前になぜこの人は裸なんだ。
「えふ君、こちら砂場のおじさん。砂場のおじさん、こちらえふ君。最近この辺に来るようになったんだ」
「えふさんとおっしゃるんですね。どうもどうも、私は砂場のおじさんと申しまして。そこの砂場におりますので……」と、おじさんは公園の砂場を指差す。「どうぞよろしくお願いします」
おじさんは衣服を纏っていないことを除けば穏やかで紳士的に見えた。穏やかで紳士的だからこそ、このような奇行に走るのだろうか。よく見れば砂場のおじさんというだけあって体のあちこちに砂が付着していた。そしてどういう理屈かわからないが、局部の周辺には常にひと塊の砂が浮かんでいて、それが上手く目隠しの役割を果たしているのだった。どういう理屈なんだ。
「砂場のおじさんは昼間は働いてて、夜になると砂場に来るんだよ」と、半魚人さんが説明してくれる。
「恥ずかしながら私、人が遊んだあとの砂場の砂の中で寝るのが大好きだということに気づきまして。とりわけここの砂は肌触りといい香りといい完璧ですし、深さも私にぴったりなんです」
おじさんが早口で補足した。
「はぁ……」
わざわざ不便なところで、不便な恰好で過ごすことに悦びを覚えるというのだ。それは変態ということだろうか。
「変態とお思いでしょうが」僕は頭の中を覗かれたのかと思った。「その誹りは受けましょう。通常は迷惑をかけないように静かに生きてるんです」
「そうなんですね」僕は肯定も否定もせず、事実だけを受け止める。しかしながら、人に迷惑をかけていないならいいのか。迷惑になるとしたらこの場の誰に対して? と、疑問が頭の中を駆け巡っていた。そもそも、僕が何かを言える立場にあるのだろうか?
砂場のおじさんは俯いて、もじもじした。眼鏡の奥の目は、今はよく見えない。
「知り合いだし、楽しそうだったので、つい……。いやどうも、驚かせてしまってすみません。私は土に還ります」
おじさんは一方的に、やや不穏なことを言った。何も還らせるつもりはなかったので、僕は申し訳ない気持ちになる。
「まあまあ、せっかくなので、一つやっていきませんか」
僕よりも先に半魚人さんがおじさんを呼び止め、せっかくなので線香花火で競走をすることになった。
ぼんやりした灯りの中に、人面犬と半魚人と全裸男性が、浮かび上がる。僕はもう少し、ここにいられたらいいなと思った。
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