古池1.2町

岩倉曰

第1話 なんのことはない

 仕事に遅刻した。それよりももっと大きな問題は、ここがどこだか分からないことだ。職場があるはずの更地を後にした。

 このうえ人面犬を見てしまったとあれば、僕はもう死ぬに違いないと決め込んだのも、別におかしなことではないだろう。

 人面犬は公園のベンチに座っている僕を少し離れたところから見ていて、僕が悲鳴を上げて立ち上がると、走って公園を出て行った。

 不思議なこともあるものだ。

 ともかく僕は死ぬのだから、死ぬ前には好きなことをした方が良い。27歳。短い人生だった。そう思ったら急に蕎麦が食べたくなってきた。

「蕎麦、蕎麦」

 死ぬと決まった割に、気持ちに変化はない。蕎麦のテーマ、作詞作曲僕。うふふ。

 などと考えながら歩いていると、唐突に蕎麦屋が現れた。唐突といっても、並大抵の唐突さではない。地面からせり上がってきたとか、ヘリから縄梯子を伝って降りてきたとか、そんな事情でもなければここに蕎麦屋は無い、というところに蕎麦屋はあった。辺りは霞がかっていて、ぼんやりとしていた。

 蕎麦屋はとても空いていて、出汁と油のにおいがした。さっぱりと、冷たい蕎麦が食べたい。

 カウンターに座ると、左隣に魚がいた。

「やあ」

 魚は僕に気がつくと、軽く右手を上げた。胴体は魚なのだが、筋肉質な腕と脚が生えているという、変わった姿をしていた。胴体の部分は湿っていて、作り物には見えない。つまりなんなんだ、これは。

「お化けですか?」

 僕は冷静を装って、率直に訊ねてみた。

「お化けではないですよ」と、彼は言った。「オレは半魚人。ここはお蕎麦も美味しいけれど、実はカレーが絶品だよ」

 半魚人さんはそう言うと、もりそばミニカレーセットというのを注文して、「オレの奢り」と言った。妙なことになってしまった。あまり怪しい人と関わり合いになるのはよしたいところだが、注文が済んでしまった後では逃げづらい。やがて、ふっと意識が遠のいたような気がした。次の瞬間には、カウンターにもりそばミニカレーセットが届いていた。

 僕は一応いただきますを言い、蕎麦を食べ始めた。すこしぬるいけど、歯応えがあって美味しい。カレーも、ハードルが上がっていたために感動するほどではなかったが、確かに美味しい。

 感動するほどでもないくらいが、未練が残らなくて良いのかも知らなかった。こんな哺乳類だか魚類だか曖昧な存在に出会ってしまったのだから、いよいよ死が近い。

「ここで会ったのも何かの縁だし、どう、このあとお茶でも」

「はあ」

 死ぬ前に蕎麦も食べられたことだし、半魚人にナンパされてひと休みするのもあり、なのだろうか。


 半魚人さんについて行くと、さっきまでいた公園に来た。

 また人面犬がいるのかな、と僕はびくびくしていた。ムキムキの半魚人と歩いているくせに、人面犬を怖がる意味が我ながら分からない。

 公園の奥の集会所らしいこぢんまりとした建物に、半魚人さんは僕を招いた。おしゃれなカフェを紹介される気まんまんだったので、少し意外だ。まあいい。集会所の普通のお茶でも。その分、これまでを振り返ったり、家族のことを思い出すのに集中したい。

 色褪せた畳の上に簡易な組み立て式の座卓があり、半魚人さんは積み重なった座布団を三枚持ってくると座卓の周りに並べた。

「どうぞどうぞ」

 座布団は平たく潰れていて、お世辞にも座り心地が良いとは言えなかった。

「どうも」

 出されたお茶はちょっと良い香りのするハーブティー。なんとなくちぐはぐな印象を受ける。半魚人さんの趣味なのだろうか。

 誰かが引き戸を叩く音がして、半魚人さんはせっかく座ったのにすぐ立たなければならなかった。扉が開くのを待ちきれないと言うように隙間から滑り込んできたのは先ほどの人面犬、座布団をずらす勢いで座ったかと思うと「半魚人、コーラくれ」と偉そうに言った。僕は引きはしたが、もう悲鳴を上げなかった。

「おん? なんだ、お前。じろじろ見てんじゃねえ」

「こんにちは。お邪魔してます」

 僕は平静を装いながら、客人らしく挨拶をした。

「こらこら。威嚇しないの」

 半魚人さんが銀の皿にコーラを入れて持ってくると、人面犬は嬉しそうに尻尾を振りながら、コーラを飲み始めた。

「この人こんな感じだけど、実際噛んだりはしないし、結構寂しがりやなところもあるから仲良くしてあげてね」

 半魚人さんがフォローするように言った。

「噛むわけねえだろ。寂しがりやでもねえし」

「あの、触っても?」

 せっかくなので触らせてもらおうとすると、「犬扱いするなっ」と怒られた。が、「ちょっとだけだぞ」と許してくれた。普通の、温かい、犬の手触りだった。口調とは裏腹に、人面犬さんも気分良さそうにしていた。

「死ぬ前に犬を触れて嬉しいです」

 右手を見つめながら、僕はしみじみと言った。すると、人面犬さんが驚いたように飛び上がった。

「死ぬ? 何かの病気だったのか。いや、別に言わなくていいからな。なんかすまん」

 人面犬さんは何が正解かわからないというような、苦しそうな顔をした。僕は申し訳なくなって、

「いえ、病気とかそういうのではなく」

「早まるな。悲しむだろ、周りが」

「いえ、自殺するつもりもないのですが」

 じゃあどういう意味なんだ、と人面犬さんが言うので、一日に人面犬と半魚人を見たら死期が近いと思うものなのだ、と我ながら訳のわからない説明をした。

「それは失礼だなぁ。死神じゃないんだから」と、半魚人さんは笑う。口にはしないまでも、珍しさでいったら死神を見たのと同等じゃないだろうかと僕は思った。

「ともかく、オレたちに会ったことが原因で死にはしないから」

「心配して損したぜ」と人面犬さんは言った。「ともかく、良かったな。もっと撫でていいぞ」

「そうですか。では」

 と、僕自身は別にそこまで望んでいるわけでもないが、人面犬さんが撫でて欲しそうなので、撫でる。その前に、半魚人さんが一瞬、撫でてやって、という目をしたような気もしたのだ。

 さて。

 ついゆっくりしてしまったが、死なないということはこれからも僕の日常は続くということだ。遅刻を謝ったり、働いてお金を稼いだり、稼いだお金で冷たいお蕎麦を食べたりしなければならない。そしてそれ以前に、職場に辿り着かなければならない。

「あの、これ」と座卓の上にスマホを置くと、半魚人さんは身を乗り出した。「このビルに行きたいんですけど」

 半魚人さんは地図アプリの画面を見ながら、「ここにビルなんてあった?」と僕に訊いてくる。

「昨日までここで働いてたので……」

「なんか幻覚でも見えてんじゃねえのか」と人面犬さんは笑った。人面犬さんこそ、僕の幻覚なのかも知れないのに。

「新池町……新池?」半魚人さんは、「古池じゃなく?」と奇妙なことを言った。そして、「こことすごく似てるけど、違う場所みたい」と結論づけた。

「ここは新池町でしょう?」僕は怖くなってきた。

「いや、古池だ」人面犬さんが割って入る。「古池1.2町」

「なんですか? その、バージョンアップした? みたいな町名」

「バージョンアップ? 何のことだ。昔からそうだぞ」

 嘘をついている口調ではない。それに、そんな嘘をつく意味もなければついた側が恥ずかしくなるような、ちょっと微妙なセンスだ。

「道を間違えたのかなぁ」僕の呟きに、「そうかもねぇ。道を間違えるのはよくあることだから」と半魚人さんが少しずれたことを言う。

「新池町への行き方……なんて、分かりませんかね」

「行き方もなにも、この辺にはそんな町ないぜ」

 人面犬さんの反応に、僕はますます混乱した。この場合、どこに相談すればいいのだろう。交番? 市役所?

「どのくらい時間がかかるか分からないけれど、そのうち、何かの拍子に戻れるんじゃないかな」

 半魚人さんは何の解決にもならないことを言った。

「困ったなぁ。仕事だってあるのに」

「まあまあ。怒られそうになったら、オレたちも一緒に行ってあげるから」

「それは自分でなんとかするので大丈夫です」

 協力もなにも、半魚人や人面犬が出て行ったら大騒ぎになってしまう。

「あれ? ということは、家にも帰れないんですかね」

「どうかなぁ。今はまだ帰れないかも知れないね」

 僕は慌てて外に出た。

 ここが僕の生活している新池町ではないと主張する異形二人。何の変哲もない風景が急に不気味に思えてくる。

 なんとなく駅に向かって歩いてみると、いつも見ていたはずの小学校の表札やら郵便局の支店名やらが、「古池1.2町」と置き換わっていることに気がつく。

 こうした施設があるにも関わらず、人の気配がない。歩行者も車も見かけないのだ。早朝、まだ薄暗い時刻に、偶然用事があって外を歩いた時の感覚を僕は思い出す。どこか違う世界に迷い込んだような。いや、比喩ではなく、今実際に迷い込んでいるのだ。

 青い屋根の駅舎には堂々と、「古池1.2駅」と表示されていた。

 切符売り場のすぐ上に、路線図がある。新池という表記を僕は探した。しかし不思議なことが起こった。どう頑張っても、「古池1.2」以外の文字が読み取れないのである。まるで夢の中で本を読んでいる時のように、文字がそこに存在するのはわかっているのに、意味内容が入ってこない。何度も挑んでいるうちに脳が疲れて来たのか、だんだん眠くなってきた。

 ジュースを買って、ベンチに座る。

 どうしたらいいのか本当に分からない。

 とりあえず、家に帰りたい。家が、一番居心地のいい場所があることを確認して、安心したい。それと同時に、あるはずのところに家が無かったらどうしよう、という恐怖もある。

 仕事はどうでも良かった。いなければいなくても大丈夫な人こそが、ぼくの目指す理想の社会人で、実際僕はその通りに生きてきたのだから。

 じゃあ、家はどうだろう。

 家は、僕が帰らなかったらどうなるのだろう。

 僕はしばらく考えた。そして、別にどうにもならない。と思った。

「……あっ、野菜は腐るかも」

「野菜がどうしたって」

 しょうもない独り言に答えたのは、人面犬さんの声だった。

「心配になって様子見に来ちゃった」

 傍らには半魚人さんもいる。

「どう? なんとかなりそう?」

「いや、無理そうです」僕は言った。「どうしようかな。ちょっと、行くところがないかも知れない」

「なら集会所にいたらいいんじゃない?」

 半魚人さんはあっさりそう言った。

「いいんですか?」

 僕にしてみれば、願ってもない話だ。

「うん。快適とは言えないかもしれないけど」

「いえ、助かります」

「狭くなっちまうな」人面犬さんの尻尾がふりふりと揺れていたので、僕はほっとした。

「一泊百万円だぜ」ベタな冗談を、「人面犬さんも払ってないでしょ」と半魚人さんが嗜める。

「まあ、いつかは帰れると思うから……。居たいだけ居ていいからね、えふ君」

 半魚人さんが唐突に、僕のことをそう呼んだ。初めて呼ばれたのに、僕はなぜか、ずっと「えふ君」だったような気がした。「ありがとうございます」

「なんでえふなんだ?」むしろ、人面犬さんの方が気になったらしく、半魚人さんにそう訊ねた。

「えふって感じだから」半魚人さんは間髪入れずそう答えた。

「ふうん」人面犬さんは僕をじろじろ見た。「わからんでもない」

 なんのことはない、僕の通勤鞄にぶら下がっているアルファベットのキーホルダーが「F」だったのだが、この時は奇妙な状況に呑まれて思いつきもしなかった。

 このように、僕の古池1.2町での生活は始まったのである。

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