第4話 初対面

 藍星凜々華あいぼしりりかはとてもありふれた言い方になるが、この学園のアイドルだった。その称号に見合う以上のルックスを持ち合わせ、全校生徒からの人気も高かった。


 さらに――


「見てユッキー! これりーちゃんだよ」


 たぶん3年のときのいつかの休み時間。

 教室に飛び込んできた葉月が、意気揚々と俺の机の上に雑誌を広げてきた。いわゆる『てぃーんえいじゃー女子』が好む、俺には縁のないファッション雑誌。

 渋々覗き込むと、一面にとても美人な子が載っていた。オシャレな衣装に身を包んで、ばっちりとポーズをキメている。


「誰それ……って、藍星さんか」


 あまり学校事情に詳しくない俺でも、その顔には覚えがあった。それくらいに、彼女の存在は噂になっていたのだ。

 もっとも、俺が認識できていたのは同じクラスだったからでもある。それこそ、1年生のときに。


「うっわー、めっちゃ興味なさげー……同じ学校にいるんだよ! もっと感動しなよ。すごくない?」

「はいはい、すごいねー」

「むっ、何その反応。というか、男の子はみんな、リーちゃんのことが好きなんじゃないの!」


 そんなバカげたことをから言われて、どう思ったかは今の俺はもう覚えていない。


 重要なのは、そういうモデルをやるくらいの存在だったということ。聞くところによれば、そのまま芸能界入りしたとか。これまた、葉月からの情報。だいたい高校のときのクラスメイトの情報は、こいつか親友から貰っていた。


 目の前にいるのはそんな存在だ。

 さすがにちょっと気後れしてしまう。今にして思えば、後にも先にもこの子より綺麗な子に会ったことはなかった。


 大きくて丸い目、ツンと上を向いた鼻、ふっくらとした唇、ハリのある頬。パーツの配列も文句のつけようがない。どうやらメイクはしていないみたいだ。それでも、その美しさはズバ抜けている。そういう感覚に疎い俺にもよくわかる。

 身長は、葉月より少し高いみたいだから160中盤くらいか。手足は細く長くスラッとしなやかに。

 よく手入れされた黒髪が胸の辺りまで真っ直ぐに伸びている。流れを追いかけると、ブレザータイプの制服越しにもわかる2つの膨らみに辿り着く。


「遠慮しないでください……それとも、余計なお世話でしたか?」


 小さく首を傾げる藍星。くりっとした黒い瞳は吸い込まれそうな魅力があった。……あ、泣きぼくろがあるんだ、とちょっと逃避的思考にふける。


「いや、助かりはするんだけど……いいのか」

「逆に訊きますけど、そのままでも大丈夫ですか?」


 にっこりと微笑むと、藍星は自分の顔を指さした。そこには少しだけ赤みが差している。

 肌は透き通るように白く新雪を思わせる。スベスベとしながら、確かな弾力もありそうだ。

 特別な手入れがいらないのはこの年頃の特権よ――というのは、誰かからの受け売りだ。


 これだけですでに、彼女との交流は過去最長だ。1周目において、俺と藍星は単なるクラスメイトにしか過ぎなかった。会話も、あったとしたら業務用のものくらい。

 それが今、こうして真正面から向き合っている。しかもハンカチまで貸してくれるという。突然、水道に頭を突っ込むなどという奇行も目撃されたが。


 あまり見ているのも気が引けて、そっと視線を彼女の手元に移した。

 纏う雰囲気にピッタリ似合う白いハンカチは、お手本のように綺麗に折りたたまれている。

 なんだろう、あまりにも神秘的なワンシーン。この子が天使……いや、女神に見えてきた。


 彼女の問いに一言で答えるなら、大丈夫ではないになるだろう。

 今も水は絶え間なく滴っている。そろそろ学生服の襟首が心配だ。いや、もう手遅れかも。顎の近くから、よく湿り気が伝わってきていた。


「ありがたく、使わせてもらおうかな」

「それがいいと思います。風邪でも引いたら大変ですよ」

「それもそうだな。ありがとう」


 手を伸ばす。合わせて、向こうからも伸びてくる。白い正方形が段々と迫ってくる。

 サラリとした手触りを感じた。間髪入れずに、指先にちょっとひんやりした感触を覚えた。


「――あっ」


 恥ずかしさに満ちた小さな呟きが耳に届く。

 ハンカチをしっかり握ったときには、相手の手は身体の後ろに引っ込んでいた。もう片方までしっかりと。どうやら交差させているようだ。

 藍星の顔は真っ赤だった。先ほど雪のように思った白さはもうどこにもない。目に見えて、照れ臭そうに身を捩っている。


「ごめん」

「い、いえ、私の方こそ……」


 唇を噛むようにして、学園のアイドルは俯いた。長いまつ毛が何度も上下を繰り返している。


 なぜだか、身体に熱が籠ってきた。女子とちょっと指が触れ合うなんてよくあることだ。今更いちいち動揺するほど純情じゃない……と思っていたのに。

 たぶん、目の前の初心な反応にしてやられたのだろう。あまりにも新鮮で、どこまでも外見とのギャップがあった。


 失礼な話だが、もっと男慣れしている子だと思っていた。男子連中はしょっちゅう彼女の噂話をして、数多くが血気盛んに挑戦していった。

 ただ、これは未来の話だ。現時点では、学園のアイドルはまだ存在していない。目の前にいるのは、ほんの15歳の女の子。

 ……いやいやいや、これだけ綺麗なんだ。彼氏ができたことないとも思えないけど。この場でそれを確認できるほど強心臓じゃない。ていうか、立派なセクハラだ。そういうことが気がかりなお年頃なのだ、俺は。


「あっ! 私ちょっと急いでいるので、これで失礼しますねっ」


 わざとらしく声を上げたと思うと、藍星はとても丁寧にお辞儀をした。くるりと身を翻して、慌てたように急ぎ足で去っていく。俺たちの教室とは違う方向に。背筋は真っ直ぐに伸び、長い黒髪は軽やかに宙を踊っていた。

 そんな姿さえ、とても洗練されているように見えた。生まれ持っての人の目を引く資質。そりゃ、学園のアイドルとして君臨するわけだ。


 ポツンと取り残され、とりあえずハンカチとにらめっこを開始する。 この期に及んで逡巡してしまう。あの藍星のハンカチで、顔とか頭を無造作に拭く。これって、犯罪的行為ではないだろうか。

 シルクのそれはとても手触りが滑らかだ。先ほど空中を舞っていた黒髪も、同じような感触なのだろうか。なんて思うのは、自分でも少しヤバイと思う。


 悩んだ挙句、若干の罪悪感と共に、真新しい制服の裾でポンポンと顔を叩く。粗方水分を取り終わった後で、仕上げになるべく触れる面積が少なく済むようにハンカチを使う。

 いや、これはこれでなんか……もういいや。ハンカチはふんわりと柔らかく、ほのかに甘い香りがした。


 行きとは真逆のちょっと前向きな気分で教室に戻る。藍星のことが原因じゃない。あの水行のおかげだ。


「あ、孝幸君、おかえりー」

「……ああ」


 席に座ると、律義にも連城はこちらに身体を向けてきた。そのまま周りの奴と駄弁ってる方が楽しいだろうに。

 チクリと、心が痛む。このままだと、いつか穴だらけになってもおかしくはなさそうだ。


「どう、気分は?」

「ちょっとはマシになったかな」

「ふむふむ」そう言って、無遠慮に連城がこちらの顔を眺めてくる。「たしかに。さっきよりは顔色いいかも? あと、なんか濡れてない?」

「気のせいだ」

 ややのけ反るようにして、ぶっきらぼうに言葉を返した。

「ホントかな~」


 声を上げて楽しそうに笑う連城。見え隠れする八重歯に、とても無邪気な印象を受ける。

 その笑顔にバツの悪さを覚えて、ちらりと左の方に顔を向けた。大きな窓の向こうにあるのは、入学式に相応しくない殺風景な風景。ステレオタイプな桜色はどこを探しても見つけられないだろう。


 ふと、無造作に制服のポケットに手を突っ込む。滑らかな感触と、微かな湿り気に行き当たった。

 1周目にはなかった存在に、僅かばかりの期待が芽生える。周りの新入生たちが、これからの学生生活に胸躍らせるように――

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