第3話 出会い

「へぇ、タカユキ君って言うんだ。どんな字書くの?」

「……親孝行の孝に幸せだけど」

「なんか素敵だねー。ちなみにアタシは葉っぱに空の月で葉月だよ」


 いいっしょ、と葉月――連城は屈託なく笑う。ちらりと見える八重歯は相変わらず魅力的だ。化粧っけは薄いものの、高校生としては平均以上に整えられた身だしなみ。それでも、全体的な雰囲気はどこかあどけない。

 合わせて、肩口で切りそろえられたショートヘアが揺れた。10年後とは違い、まだその髪の色はおとなしめ。

 その姿にずきりと胸が痛む。心臓が一瞬だけ大きく跳ねた。


 そんなことよく知ってるよ——心の中で返す。飽きるほど見たし、時には書いたこすらあった。なんだったら、この会話自体2回目だ。

 これが俺たちにとっての初めての会話。うわコミュ強だ、というのが第一印象。向こうは、地味で大人しそうと思ったらしい。

 お互い、この後長い付き合いになるなんて微塵も予感していなかった。俺は特に取り柄のない平凡な奴で、葉月は行動力があって周りからも人気な根っからの陽キャ。まさに月とスッポン。改めて考えれば、恋人になったのは本当に不思議だ。


 だが、ワーストレベルの終わり方を迎えてしまった。


 最新の記憶が鮮明に蘇る。

 チャラそうな男に後ろから激しくつかれて、葉月はヨガり嬌声を上げる。続いて、愛の言葉を囁き合い躊躇なく唇を重ね合う。上気して妖艶なその表情は、今目の前にある顔からはとても想像できなくて――

 

「ちょっ!? どうしたの、孝幸君!? 具合でも悪いの?」


 胃の奥がひどく落ち着かない。しまいには、何かが逆流してくるような激しい勢いを感じた。

 咄嗟に口元に手を当てる。踏ん張って、必死に抑え込む。喉の奥に焼けるような痺れが走り、強い酸を感じてそれがまた違った気持ち悪さを与えてきた。


 一つ大きく唾を呑む。苦痛が和らぐことは少しもない。息苦しさに、浅い呼吸を繰り返してしまう。


「いや、別に平気だ……」

「絶対そんなわけないでしょ! 保健室、一緒に行く? 場所どこかいまいちわかんないけど」


 当事者以上に、連城は大慌てだった。

 心配そうにこちらの顔を覗き込んできたと思えば、何かの冊子をキビキビした手つきで捲っていく。強い焦りがその表情から伝わってくる。


 その姿にひどく違和感を覚えてしまう。葉月は、こんなに健気なやつだったっけ――頭に最低な感想が過った。


 ムカつきと苦闘しながら、ぼんやりと真ん前のクラスメイトを見やる。


 天真爛漫という言葉がこれ以上ないくらいにハマる。元気いっぱいで、人当たりがよくて、どこまでも真っ直ぐで。比喩ではなく、本当にまだ穢れを知らない、キラキラした純粋な女の子。


 今日これまで会った人たちの中で、一番変化が激しいのは連城だ。いや、これからを含めても絶対そうだ。強い確信がある。

 16歳の連城葉月と、26歳の連城葉月には単に10年という時間以上に大きな隔たりがあった。

 眩しく輝いている――端的に言い表すとそうなる。見た目がということではなく、中身が。大人になるって悲しいことだ、というのは月並みで陳腐だけど今ならよくわかってしまう。


 不意に、連城の動きがピタリと止まる。


「……ええと、その、あんまり見つめられるとちょっと恥ずかしいかなぁ」

「悪い、ちょっとぼーっとしてた」


 その顔はほのかに赤く、あからさまに逸らされた。

 そんな反応ひとつとっても初々しい。よく知る葉月とのギャップに、また少し心は悲鳴を上げる。あれだけ汚い姿を見せつけられた後に、綺麗な全盛期を目の当たりにさせられるなんてとんだ拷問だ。


 しばらく気まずそうに髪を弄ったりして動揺していた連城だったが、やがて恐る恐るといった感じにこちらに視線を合わせてきた。そのまま下の方から上目遣いに視線を固定する。大きな瞳はかすかに潤み、そこには真っ直ぐな光だけあって――


「……なんだよ?」

「ねぇ、ほんとに平気? これから入学式だよ。大丈夫? 校長先生の長話中倒れたりしない?」

「椅子があるから余計な心配だ」

「あー、そうなんだ。よく知ってるね」

「まあな」


 素っ気なく言って、俺は席を立った。少し身体がよろめいて、反射的に机の端を掴む。

 それで連城の顔に不安が復活した。しまった、と思わず渋面になってしまう。


「全然大丈夫そうじゃないね……保健室行くの?」

「いいや、水飲んでくる」

「アタシ、ついて――」

「そこまで迷惑かけられないから」


 押しのけるように、慮る言葉を遮った。 頼むから一人にしてくれ。誰のせいでこんなことになっていると思うんだ。でもこれはなんて筋違いな怒りだろう――


 まだ何か言いたげだったが、連城はそのまま黙ってくれた。代わりに、いってらっしゃーい、とわざとらしい笑顔でヒラヒラ手を振ってくる。


 そうだ。葉月はこういう奴だった。初対面の俺に対してこんなにも心配してくれて、細かな気配りまでしてくれた。根の優しさを好きになった。それは間違いない。

 でも今は、ただ苦しいだけ。今の連城と切り離して考えるべきなのに、感情の面で割り切ることができていない。

 いっそのこと、思いっきり吐き出してしまえばいいのか。『この浮気女! よくも裏切りやがって』いや、無理だ。ただの頭の可笑しい奴だし、何よりもきっと気分は晴れないだろう。


 胸にあるのが純粋な怒りだけだったらどんなに楽だったことか――結局はそれに尽きる。このモヤモヤを正しいことで晴らす――恋人にぶつけることは永遠にできないんだ。そのことに今初めて気が付いた。

 それはあまりにも――やめよう。これ以上考えてたって仕方ない。すっかり気持ち悪さは増していた。


 おぼつかない足取りで廊下を歩いていく。1年生の各教室からはだいぶ賑やかさが漏れている。眩い希望に満ちていた。当たり前だ。今日から高校生活が始まるんだから。

 果たして、俺は上手くやっていけるのだろうか。ここに来て違った方向の不安が先鋭化してきた。高校生活のやり直しって、案外しんどい……?

 すっかり連城とのやり取りにやられていた。前途多難だ。どうしたらいいんだろう、あいつとの関係……。


 水飲み場はどこまでもがらんとしていた。ひんやりとした空気が先ほどからの感傷を煽り立てる。

 蛇口を上に向けて栓を捻ると、透明な液体が不格好なアーチを描いた。

 こんな風にして水を飲むのもずいぶん久しぶりだ。よく冷えたまとまりが込み上がった不快感を押し戻してくれる。


 顔を放し、水の流れを意味もなく眺める。ぼたぼたと、台に水がぶつかる音がリズミカルに響く。

 それは衝動だ。気が付けば、もう少し栓を捻って、勢いの増した水の中に顔を突っ込んでいた――


 ある程度の強度を持って、水がぶつかってくる。まず感じたのは季節外れの冷たさ。遅れて押し返すような刺激が続く。仕上げに、口だけでなく目や鼻にも侵入してきてちょっと痛い。


「――っ、はぁ。何してるんだろ、俺」


 他人事のように呟く。いわゆる、むしゃくしゃしてやったという行為だが、反省も後悔もない。むしろちょっとスッキリしてる。

 寝起きの頭をシャキっとさせるように、うだうだ悩む自分に別れを告げたかったのだ。全てが飲み込めたわけではないけど、それでも一定の効果はあった。


 とりあえず残る問題は、この俺がハンカチ、もしくは拭くものを持っているか、だが。今この瞬間にも顔中から水滴が元気よく落ち続けている。


「よかったら使いますか?」


 突然後ろから声がした。笛の音のように澄んでいて、どこか甘さのある耳心地のいい女子の声。

 驚いて、身体がビクッとなってしまった。不意に声を掛けられたという驚きと、どこから見られていたのだろうという恥ずかしさ。

 一つ間をおいて振り返ると、清楚な雰囲気のとても綺麗な女の子が立っていた。こちらに向かって、遠慮がちにハンカチを差し出してくれている。


 わざわざ思い出すまでもなく、その鮮烈な姿はよく記憶に残っていた。

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