第5話 帰り道
鐘の音が、ようやく初日の終わりを告げる。
メインイベントの入学式はあまりにも無感動だった。いや、何かを期待していたわけではないんだが。それでも、こんなにあっさりしたものだったかと少し拍子抜けしてしまった。
慣れと経験って恐ろしい。この年になると、こういう式典は長ったらしく飽き飽きするものへと成り代わる。当時からそう思っていたような気もするが、それでも少しくらいは緊張してあまり余裕はなかっただろう。
それが証拠に、1度目の入学式がどんなものだったのか。微塵も記憶に残っていない。だから、あのときは本当に驚いた。
「新入生代表、藍星凜々華」
それほどまでに優秀だったとは思いもよらなかった。頭いいやつとして記憶にある顔ぶれに、あの美人はいなかった。
ともかく、後は家に帰るだけ。欠伸を噛みしめながら支度を進める。といっても大した手間はない。頒布物をうまくパッキングする程度。
教室の雰囲気は意外と落ち着いていた。朝と比べれば盛り上がり具合は薄い。
それでもすでに友人やグループを作ったやつはいるわけで。例えば連城とかは、先ほど何人かの女子と一緒に楽しそうに教室を出て行った。
でも、そういうのは少数だ。
だから俺がこうして一人で帰るのも普通のこと。別に友達……話せる奴ができなかったとかでは——
どん。腰のあたりに軽い衝撃を感じた。見るとそこには、陽菜希がいた。ふくれっ面でこちらを見上げている。ちなみに、犯行に使われた凶器はスクールバッグらしい。
「ちょっと! さっそく置いてきますか?」
「ああ、悪い。てっきり友達と帰るもんとばかり」
「みんな方向が違ったの。……できなかったわけじゃないからね、友達」
「はいはい」
心外だと言わんばかりに、陽菜希は唇を尖らせて詰め寄ってくる。
テキトーな返事になってしまったのは認めるが、特に疑ったわけじゃない。陽菜希は物怖じしない性格で友達作りは上手い。
「孝幸、アンタ信じてないでしょ」
「いいや、まさか」
「むー、その反応ちょっとムカつく……! そういうそっちこそどうなのよ」
「いやぁ、俺は陽菜希と一緒に帰れて幸せダナー」
「こら、露骨に誤魔化すな! ったく、アンタってばホント」
はぁ、と盛大なため息と共に呆れられてしまった。腰に手を当ててやれやれと首を振るおまけ付きで。
だって仕方ないじゃないか。当てにしていた奴は、完全にタイミングを逸してしまった。予想以上に、連城と話過ぎたせいだ。
本来はあいさつ程度に留め、隣りの席の男と盛り上がるはずだったのに。なかなか女子と話せない、そういう典型的男子高生だったのだ……本来は。
「……ってか、冗談でもそういうのやめてよね」
「どうした? なんか言ったか?」
「なんでもない! ほら、さっさと帰るわよ!」
ぴしゃりと言って、肩を怒らせてスタスタと歩いていく陽菜希さん。終始ハイテンションだな、こいつは……。
まあ元気なのはいいことか、と幼馴染の数ある取り柄のひとつに感動しながらその背中を追いかけた。
まあ話し相手ができなかったおかげで、こいつと帰ることになったからいいとするか。せっかく関係を修復できたのだから。
行きと同じように、今度は入学式後特有の事柄を話しながら来た道を遡っていく。俺はなるべく相槌に徹することにした。何かしゃべるとすぐにボロが出かねない。
「そういやさ、明日だよね、お迎えテスト」
声のトーンがこれまでとは一段落ちた。
ふと横目で見ると、ちょっと小難しい顔をしている。
「だったっけ?」
「は、アンタ大丈夫? ただでさえ、あたしたちギリギリで入ったんだから、危機感持った方がいいって!」
信じられないものでも見るように、陽菜希は大きく目を見開いた。
御笠ヶ原は俺の内申からすると3つほどランクの高い学校だった。それでも、徒歩圏内にある中で一番レベルが高かったので仕方がなかったのだ。受かったのは割と奇跡に近いと、塾長が冗談めかして笑ってたっけ。そういうのはよく覚えてる。
陽菜希の方は内申は俺なんかより比べ物にならないほどよかった。だから御笠ヶ原にも余裕で合格……のはずが、合格発表の日は大泣きしてたな。自己採点、かなりやばかったと言ってたから。やはり、これもありありと思い出せる。
そういう事情だから、陽菜希の心配もごもっともなんだが。
「でも、明日だぞ。今更焦ってもどうにもならないだろ」
「それはそうなんだけど……逆に孝幸はなんでそこまで落ち着いてられるわけ。不安じゃないの? スタートダッシュで
「深刻に考え過ぎだって……だったらどうする? これからうちで一緒に勉強でもするか?」
「えっ……!? いや、あの、それは……」
ピタリと陽菜希は動きを止めた。激しく瞬きを繰り返したり、落ち着きなく手を動かしたりと、目に見えてパニクっていく。
そんなに変なことを言っただろうか。テストが不安なら勉強する、なんて当然のことだと思ったんだが。
「ごめん! あたし、今日は習い事あるからムリっ!」
やや声を裏返らせながら叫ぶと、幼馴染は逃げるように去っていった。相変わらず、素早いな。
そうか、今日は習い事の日なのか。確かに何かやってた気はするけど、こっちの方はよく思い出せなかった。
◆
夕飯を終えて、誰にも気づかれないように洗面所へと急ぐ。それにしても、久しぶりの母の料理はとても美味しかった。よく味わっていたら、盛大に家族から不審がられてしまったほどだ。
部屋着のポケットから、大切にしまっておいたハンカチを取り出す。相星から借りたそれを、さすがにそのまま返せる度胸はなかった。そもそもそんな隙すらなかった。気がついたら、あの子教室にいないんだもん。
洗面器に水を貯めながら、スマホで詳しい手順を確認する。これがほかの洗い物ならフィーリングで何とかするが、今回は万が一もあってはいけないわけで。
「なにしてるの、たかにぃ?」
「なんだろうな……って、
声のした方を振り返ると、小学6年生になったばかりの妹が扉の所に立っていた。全く気が付かなかった。音一つ立てないなんて、忍者かこいつは。
いやしかし、この時期の唯奈は本当に愛くるしい。まだ髪が長くて、それがまたなんとも似合っている。これが10年――いや、もう数年もすれば……。
あっけに取られていると、遠慮なく妹は近寄ってきた。興味津々に、こちらの手元を覗き込む。かわいい。
「ハンカチ洗ってたの? えー、でもそんなのうちにあったっけ?」
「母さんのやつ借りたのさ」
「へー、ママも意外とおしゃれなとこあるなぁ……今度、ゆいも借りよーっと」
「あ、違う。姉貴のだ、姉貴の」
「それならなっとくっ!」
にへら、っと可愛らしく笑って頷く唯奈。いやぁ、本当に可愛い。この後の成長のこともあって、なおさらそう思う。
しかし、発言内容は割と残酷だ。母さんが聞いたらどう思うか。まあでも俺も大概だな。唯奈の言葉に納得してしまったのだから。
「でもさ、なんでわざわざ手で洗ってるの?」
「無造作に洗濯機に突っ込みでもしたら、姉貴大噴火だろ」
「むぞうさ?」
「雑に、ってこと」
「なるほどー。えー、でも別に怒んないと思うけどなー」
そりゃまあ、姉貴は唯奈にはゲロ甘だからな。よほどがない限り何しても大丈夫だ。こいつにとっては、優しくて大好きなお姉ちゃんだろう。
俺の方も別に仲が悪いわけじゃない。10年後も月イチペースぐらいで会っていた。でも、容赦ないときは容赦ないのだ、あのお方。
「どしたの、2人とも。こんなところで」
噂をすれば影が差す、というのは大変的を射た言葉だと思う。ベストタイミングで、姉貴が扉から顔を突っ込んできた。
もちろん、その姿は若々しいまま。妹とは違って、この時期はまだ髪が長い。あとけば――素朴だ。
「タカにぃがサーねぇのハンカチ洗ってるんだよ。えらいでしょ」
「へ、どゆこと?」
妹の言葉に大きな疑問符を浮かべながら、姉貴も洗面所に入ってきた。一気に中が狭く感じる。中学時代バレー部だったくらいには背が高いのだ、姉貴は。
大好きなお姉ちゃんに、唯奈はハンカチの説明を付け加えた。ちょっとおぼろげな口調で。
しかし唯奈め、こんなベラベラ喋らなくてもいいのに。さすが子供。この無邪気さには目を見張る。かわいい。
「へ、お姉ちゃんそんな覚えないんだけど……そして見覚えもないだけど?」
「そうだっけ? 姉貴も歳だから忘れっぽくなった――」
「失礼な! まだ今年で18ですー。あなたの尊敬すべき先輩ですー」
「い、いたい、いたい。暴力反対! すみませんでした、
手を出すのが早すぎる……つねられた背中はまだ痛い。終始笑顔だったのが本当に恐ろしい。同系統の陽菜希でさえ、ここまでじゃない。
つい、28の姉貴を相手にしている気分で言葉が出てしまった。くれぐれも気を付けよう。このままのペースだと、背中が千切れる。
余計なことだが、姉貴が忘れっぽいのは本当の話。10年後は、しょっちゅう自分からもうとしかもと自虐していた。
「ま、あれでしょ。おおかたヒナから借りたんでしょ。それがバレたくなくて、お姉ちゃんの名前を出したってとこか」
「さすがサーねえ。あたまいいー」
「えへへ、もっと褒めて、ゆいなー」
妹のお世辞に、姉貴は盛大に顔をほころばせてる。そのまま背中を曲げると、頭を撫でてもらいだした。
うらや――ああ、なんて微笑ましい光景だろう。姉妹が一緒にいる光景を見るのは久しぶりだ。ハンカチの件がすごくどうでもよくなってくる。
こうしてタイムリープ1日目は緩やかに終わっていくのだった。
うん、なんか悪くないぞやり直し。ようやく気持ちが前を向いてきた。
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