第2話




 分かっていたことだけれど、紡のお願い通りにはならなかった。


 彼女の家に行っても彼女がいないことは日常茶飯事だったし、着信は全く繋がらない。


 むしろ、ある時から家に行ってもいないことが増えた気がした。

 それ自体は会いたいと思うがゆえの気のせいかもしれない。でも、そう思った。


 最近では帰ってくるのも夜中の二時なんかが多くて、つむぎが家に来ている時に、彼女が他の子を家に連れ込んでいないことだけが、紡にとっての心の支えだった。


 その日の夜中。香水と煙草に混じって微かに甘いお酒の匂いのする彼女が帰ってきた。


 薄く化粧をしているのか、いつも以上に彼女は綺麗だった。

 紡と初めて会った時と同じ顔。柔和で裏表がなさそうで、距離感が近い。


 部屋に紡を見つけて「ただいまー」と目を細める彼女は、時間帯のせいか眠そうで、ほんのりと顔が赤くて。けれどそれがなぜかを直接聞く勇気は紡にはない。

 それが、紡の胸をちくりと刺した。


 紡は部屋の電気を付けると、彼女に「おかえり」とだけ短く言った。

 それから、半ば強引に彼女をベッド上に押し倒した。


 静かな部屋にどさりと音が響いて、布団から彼女の匂いがした。柑橘かんきつ系の香水と、煙草の匂いが染みついている。最初に嗅いだ時は嫌だったはずなのに、今では安心する。

 知らないうちに洗脳でもされているみたいだった。

 それならそれで、別によかった。


「……今日はそういうこと、したい気分なの?」


 彼女が紡を受け入れるように背中に手を回そうとしてくる。

「…………」その腕を手で押さえて、紡は黙り込む。


 白いシアーシャツ越しに彼女の肌が透ける。紡と違って傷一つ見当たらない白くきめ細やかな肌。重いものなんて持てなさそうなふにっとした二の腕に指を沈めると、あれと似た感触がして、ちょうどいい反発が紡の脳をびりびりと刺激した。


「……他の子のところに、行かないでください」


 素っ気なく言ったつもりが声が震えていて、紡は自分で驚いた。


 一瞬、戸惑とまどったように彼女が瞬きをする。

 重いと思われただろうか。実際そうだ。


「……今日は、行ってないよ。お仕事の付き合いで飲んでただけ」

「今日はじゃなくて。……だったらせめて、連絡ください。電話でも、メールでも」


 もうこの家には帰ってこないのかと思った。彼女の家なのだから、そんなはずはないのだけれど、彼女は他の子の家に上がり込むのをきっと躊躇ちゅうちょしないタイプだ。


 だから、どうしても不安になってしまう。

 紡は彼女の胸に顔をうずめて、じわりとにじんでくる涙を堪えた。


 こんなことをして嫌われてしまうだろうかと、想像するだけで視界がぼやける。


「ごめんね。寂しい思い、させちゃったね」

 そう言ってまた、彼女ははぐらかす。何の答えにもなっていない。


「…………」


「んー、じゃあ、紡ちゃんがしてほしいこと、何でも一つしてあげる」

「……言葉なんて、いらないです」


 ぎゅっと、つむぎの手に余計な力が入る。

 慰められないとそれはそれで不機嫌になるくせに。


「うん」彼女が指先でトントンと紡の頭を叩いてきて、紡は彼女の腕から手を離した。

 見れば、彼女の二の腕は少し赤くなっていた。


「……ごめんなさい。嫌いにならない、で」


 ぽたり、とベッドシーツに染みができる。ぽたぽたと染みが大きくなっていく。

 なんで、と紡は唇をむ。止まらない。


 視界がふやけていく。洟をすすって、弁解の言葉を頭のどこかに探す。


「ならないよ」


 彼女は優しい声で微笑んで、「紡ちゃんは泣き虫だね」とどこか嬉しそうに言った。嗚咽おえつを吞み込みながら紡がうなずくと、「誉め言葉だよ?」と彼女は紡の睫毛にキスをした。


 温かく、なまめかしく動く彼女の舌が涙を拭うのを、紡は断腸だんちょうの思いで受け入れていた。




 その日を境に、紡は行動を変え始めた。


 元々休みがちだった高校にとうとう行かなくなり、代わりに彼女の家に向かうようになった。朝なら仕事帰りで寝ている彼女が家にいることも多かった。


 それに、一度会ってしまえば、別れるときまでは一緒にいられる。すがる思いで発信した電話を無視されるのは紡じゃなくて、他の子になる。そこに罪悪感を覚えないかと言われれば嘘になるけれど、それを言うなら電話に出ない彼女が悪い。そう責任転嫁した。


 毎日会いにいくのを彼女が嫌がったら、その時点でやめておこうかと思っていたけれど、彼女は嫌がるどころかつむぎに構ってくれることが増えた。


 今日の朝も、寝起きの彼女は部屋に入ってきた紡を見て、白い歯を見せて笑った。


 胸元が広めの白いブラウス。下は寝苦しかったのかショーツしか穿いていない。ベッドの脇に視線をやれば、生地がひっくり返ったレギンスが脱ぎ捨てられていた。


「紡ちゃん、今日も来てくれたんだ」


「少し早めの夏休みです」

 通学鞄を足元に置いてベッドの縁に腰掛け、紡はうそぶく。


 紡は制服姿だった。さすがに補導されたくはないので薄手のパーカーは羽織はおっていたが。


「ふた月くらい早い気がするけどなあ。単位、大丈夫?」


「……落としたら、もう一年はこの部屋に来てもいいですか?」


 背中からベッドに倒れ込み、天井を見る。いつもの通り、常夜灯だけが点いている。


 彼女は部屋を真っ暗にすると眠れないらしい。だから、停電が起きたとき用だったり、予備だったり、予備の予備だったりの間接照明を部屋に置いてあるのだという。


 ふと、紡は思う。


 ──メインの照明を彼女とすると、あの常夜灯はきっと、私だ。

 彼女の一番側にいるようで、一番暗い。必要とされているようで、いつでも替えがきく。


「落とさなくても来てもいいよ。いつでもどうぞ」


 そう言ってノールックで彼女が紡の方へ手を伸ばす。頭を撫でようとしたのだろうけど、撫でられているのはまぶたの辺りだ。でも、彼女に触れられているだけで紡は安心してしまう。


 彼女といると紡は感情の制御がきかなくなる。安堵あんども嫉妬も寂しさも、一人の時は感じなかったのに。人間関係ってこういうものなんだろうかと、ふと思う。


 安堵の代価として、不安がある。不安は嫉妬と寂しさから生まれて、つむぎを暗い湖の底へと引きずり込もうとする。そこに彼女が手を差し伸べることで、今の関係は成り立っている。


 今の関係性を示すのにてきした言葉は、恋じゃなくて、多分、依存なのだと思う。

 けれど、彼女と一緒にいられるのであればそれでいい。


 顔を撫でる手が止まって、紡が彼女の方に視線をやると、彼女と目が合った。


 じっと見つめられたまま、時間が止まったような気がした。

 と、そこで。ぐう、と彼女のお腹がかわいらしい音で空腹を訴えてくる。


「……お腹、空いてるんですか?」思わず苦笑しながら紡が問うと、彼女はうなずいた。捨てられた子犬のような、縋り付くような目だった。


 手料理を所望しょもうされた日から、紡は料理の練習をちょっとずつしている。


「なにか作りますね。……と言ってもまだ、レシピがないとできないですけど」


 勢いをつけてベッドから立ち上がり、紡はんーっ……と伸びをする。

 それから鞄に手を伸ばすとスマホを取り出し、検索画面を開く。


「うん。楽しみに待ってる」

 ベッドの上で頬杖をつきながら、彼女が嬉しそうに言う。


「……来てくれないんですか?」


 面倒なことを言っている自覚は紡にもあった。


 だが、彼女は「しょうがないなあ」とまなじりを下げて、ベッドの縁まで寝返りを打つと、足から絨毯の上に降り立った。そのまま紡のすぐ後ろまで歩いてきて、首に両腕を回してくる。


「……そこまでしなくてもいいですけど」

「んーん、あたしがしたいの」


「…………」


 いつもこうなので、つい、わがままを言ってしまうのをやめられなかった。


 RPGのパーティみたいに一列に並んでキッチンへと向かう。


「一応聞きますけど、何が食べたいとかありますか? レシピがあるものに限りますけど」


 レシピがあっても難しいのはまだできない。それに、材料が足りないものも。

 つむぎが冷蔵庫の中を検めていると、彼女は虚空を見上げながら言う。


「んー。手料理感があるもの、がいいかも」

「…………」


 難しいことを言われて、紡は頭を悩ませる。


 手料理っぽいもの。優しい味付けとか、そんなのだろうか。実のところ、両親の手料理なんてほとんど食べたことがない紡からすれば、単なる想像の味でしかない。

 とどのつまり、よく分からない。


「じゃあ、野菜炒めがいいかな。キャベツまだ残ってたし」


 前に作ったものと同じリクエスト。確かに失敗こそしないと思うけれど。


「……それはそれで料理の上達が分からないから不満が残ります」


 冷蔵庫の下段からキャベツ四分の一玉を取り出して、食洗器から包丁を手に取る。まな板にキャベツを置いて、ざくりと包丁を入れる。冷蔵庫に長期間保存されていたからか、水分が抜けたキャベツは少しふにゃっとしていて、味気がなさそうだ。


「紡ちゃんが作ってくれるならなんでもいいよ」

「それも料理の腕に期待されてないみたいでなんか嫌です」


「期待してるよ」

 ついでみたいに言葉がえられる。


 どうしてこんなにすらすらと相手の欲しがる言葉が出てくるのだろう、と思う。

 言い慣れているのか、元々の性格か。多分、前者だ。

 なんてことをいつの間にか考えている自分自身に、紡は苛立いらだちを募らせる。彼女と一緒にいるはずなのに気分が曇る。


「あ」


 手を動かしながら考え事をしていたからだろう。


 すとん、と下ろされた包丁が人さし指の先を掠った。切り傷がじわりと赤い線を引いたかと思うと、そこから真っ赤な血が噴き出てくる。


「あー、切っちゃったか。痛いよね。大丈夫?」


 びっくりして動けないでいた紡の手を取り上げ、彼女があやすように聞いてくる。


「ごめんなさい、キャベツ……」

「キャベツはいいから。洗ったら食べられるし」


 彼女が本当に心配そうな顔をするものだから、つむぎは居た堪れない気持ちになる。さっきまで彼女に対して暗い気持ちを抱いていたことが負い目になって、取り乱してしまう。


「ほんとに、大丈夫です。浅いし、これくらいならつばでも付けとけば……」


 と、紡が言った途端、彼女が前屈みになって紡の人さし指を咥えた。


「な、な、な」さっきとは別の理由で紡は取り乱す。羞恥しゅうちから頬が赤く染まる。


「……何、やってるんですか」


「んー……っ。つばつけたらいいって言うから、あたしのでもいいかなって」


 彼女が指をくわえたまま喋る。傷がじんじんと痛むのと同時にちょっとくすぐったい。

 それよりも、指を咥え込んだ彼女の姿がどこか官能的に見えて、紡は目をらしてしまう。しかも、口の中で傷を舐められるのが気持ちよくて、拒否できない。


 体感では三十分くらい、そうしていたような気がする。絶対に気のせいだ。多分、長くても十分くらいだろう。彼女が「疲れちゃった」と言って口を離した。


 血は既に止まっていて、彼女が持ってきてくれたばんそうこうを貼った。

 それから、野菜は彼女が切った。料理はてんでダメと彼女が豪語していた通り、包丁の使い方はとても危なっかしくて、指を切り落とすんじゃないかとひやひやした。


 見兼ねて「……私にやらせてください」と紡が手を伸ばすと、「怪我しちゃうからダメ」と窘められた。怪我をしそうな手つきなのは彼女の方なのに。


 味付けは相変わらず塩コショウ。切った野菜と牛肉を炒めて、お皿に盛りつけた。


 お皿を部屋に持って行って、二人して絨毯の上に直に座り、一口食べた彼女が言った。


「うん、美味しいよ。手作り感あって」


 それってつまり、お店で食べる定食とかと比べて微妙、ってことじゃないかと思ったけど、紡は口にはしなかった。代わりにお肉を一切れお箸でつまんで口に運んだ。

 その作為的な沈黙に気付いたのか、彼女がフォローを入れてくる。


「ほんとに美味しいよ。紡ちゃんが作ってくれて、一緒に食べてくれてるから」


「誰かと一緒に食べると美味しく感じるタイプですか?」


「紡ちゃんは違う?」


「……どうでしょうか」


 なんとなく分からなくはないけど、劇的な味の変化は感じない。自分で作った料理はあまり美味しく感じないから、それと相殺してよく分からなくなっているのかもしれない。


 それから、しばらく無言が続いた。お互いにお箸を伸ばして野菜やらお肉やらを運搬する。

 野菜炒めの最後のキャベツを食べきって、彼女はお皿の上にお箸を置いた。


「あたし、一人って苦手なんだー。淋しいし、ご飯もお酒も美味しく感じないし」


 そう告げる彼女の顔の中で目だけが笑っていなかった。


 彼女が一人でいることが嫌いなのは、着信の多さや距離感の近さからよく分かる。


「でも、私の前ではお酒、飲まないですよね」


「だって、紡ちゃんまだ未成年でしょ? そそのかすみたいでダメかなって」


「……その未成年に手は出すのに、そこは気にするんですか?」


 時々揚げ足取りみたいに意地の悪いことを言ってしまうのは、彼女への関心の表れだ。小学生の男子が好きな女子に意地悪をするのとよく似ている、というか同じだと思う。

 こっちを向いて欲しい、構って欲しいと願うがゆえについ何でも口にしたくなる。それを上手く伝えることができないから、紡にとっても好ましくない形で外に出てしまう。


「それとこれとは話が別なの。お酒は身体に悪いから」


 子供扱いをするように彼女が紡の頭を撫でてくる。

 その手を両手で捕まえて、胸元に持っていく。


 この間されたことの意趣返しでもあったけれど、やっぱり心臓が高鳴るのは紡の方だった。

「……紡ちゃん?」彼女は驚いた顔をして、首を傾げた。


「じゃあ、悪いことは、したらダメだと思いますか?」


「ううん」彼女は即答した。でも、と続けて。

「してもいい悪いことと、したらダメな悪いこと。それを決めるのはあたしだから。……紡ちゃんも、そうでしょ? 自分の中の線引きくらい自分で引きたい。誰かの決めた通りに生きなきゃなんて、あたしはやだなぁ」


 天井を見上げながら、いいことを言っているようで、彼女の手は紡の胸をふにふにといじっていた。確かに持って行ったのは紡の方だけれど、手つきがよくないというか。


「……法律とかは、守った方がいいものだと思いますけど」

 苦し紛れに紡はそんなことを言ってみる。


「それはそうかも」


 一本取られたという風に彼女が目を細める。


「それにしても、なんでそんなこと聞くの? お酒、一緒に飲みたかった?」


「……別に、ただの好奇心です」


 本当にそうだろうか、と紡は頭の中で自問する。

 実際は、彼女の悪いことに対する線引きが知りたかったんじゃないか。未成年飲酒と未成年略取の善し悪しの境がどこにあるのか、教えて欲しかったわけじゃないんだろうか。


「……大人になったら、一緒に飲もっか」


 暗い微笑みで誤魔化すように告げられた言葉は、彼女にしては珍しく、明らかに嘘だと分かるような言い方だった。なぜだか、問い詰める気にはならなかった。


 ただ、不安くらいは消してもらっても罰は当たらないだろうと、そう思った。


「……じゃあ、お酒で酔えるようになるまでは」


 紡は捕まえたままの彼女の手を引っ張りベッドへと連れて行った。

 彼女は一切抵抗することなく、むしろ乗り気ですらあるみたいに、紡の隣に横になった。


 その肩を抱き寄せて、紡は彼女の体温を全身で感じる。相変わらず体温の高い彼女の身体に心まで溶かされてしまいそうになる。彼女が抱きしめ返してくる。


 それでまた、脳の善し悪しをはかる部分が麻痺まひする感覚に陥っていく。


「珍しいね。紡ちゃんからなんて」

「…………」


 紡の首筋の皮膚が薄い場所に彼女がキスをする。歯が当たるような口づけ。

 彼女の体温に、おぼれていく。


「そういえば、なんだけど」ふと、つむぎを抱き枕のように抱きしめながら、彼女が言った。


「なんですか?」


 腕の中で紡が聞き返すと、彼女は一瞬後悔したみたいな表情を作った。でも、一度喉元まで出かかった言葉を別のものにすり替えるなんてことは、彼女はしなかった。


「……紡ちゃんは、いつでも修復できるものを大事にし続けられると思う?」


「…………。それは、私との関係のことですか?」


 その一言だけで紡が不安定になっているのを察したのか、彼女はあわてて付け加える。


「例えばの話、だよ。紡ちゃんのことは、大事にしたいと思ってるから。紡ちゃんは違うの?」

「違わない……けど。時々、分からなくなるんです」


「分からなくなる?」


「私にとって大事なものがなんなのか、です」


「あたしじゃなくて?」


「……それ以外にも、前は色々あったはずなのに」


 全部、忘れてしまった。


 頭の中に大事なものを書き留めておくノートがあるとする。今まではそこに、大切にしたいものを丁寧に書き連ねていた。でも、そこに大量のインクを零したみたいに、不確かで境界さえも曖昧な存在が、今まで大切にしてきたものを塗り潰すように侵食しんしょくしてきた。


 今も深く絡められた手から、何かが流れ込んできているみたいな気がする。間近で感じる吐息があったかくて、頬に触れる彼女の髪がくすぐったくて、彼女の存在を知覚する。


「……さっき。大事にしたいって言ってたの、嘘ですよね」


 紡が目を伏せて聞くと、彼女は紡を安心させるように背中を撫でてきた。


「ほんとだよ」


 見かけ上の優しさに付け込まれる。分かっていながら、紡は許容してしまう。


 例えその存在が、その言葉が、嘘で塗り固められたものだとしても。




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