暗く深く、沈む
往雪
第1話
────。
子供の頃に見たことがある、
見上げれば、すぐそばに彼女の顔がある。
ずっと触れたくて、でも近付けば
彼女は驚くわけでも痛みにもがき苦しむでもなく、ただ
ゆったりと進む時間の中、彼女の口が動く。
激しい耳鳴りの中で、どうにか耳を
「……じゃ、遊びじゃないって言って欲しい?
耳元で、
その声を聞けば、魔法をかけられたように全身に力が入らなくなる。
ナイフは彼女の身体から引き抜かれた
カーテンの
徐々に、彼女の脈が弱まっていって。息が途切れて。
ふっと、見えない糸が切れたように、彼女は腕の中で
長い
やがて感覚も、境界すら
底のない
♢
常夜灯が点いている。でも、夜じゃない。
肌着姿でいたためかやや肌寒く、寝ている間に蹴っ飛ばしていたタオルケットを足先で
「──大丈夫?」
目線だけを動かして、すぐ隣にいる声の主を視認する。
真っ白なベッドの上に
彼女は左腕を自分の身体の下に
自由な方の右腕は伸ばされて、紡の頬を指の腹で
「泣いてたけど。……嫌な夢でも見た?」
紡は滑らかな感触のベッドシーツを指先で寄せ、少し立った部分を別の指でなぞる。
まだ全身を支配する
ゆめ、夢。さっきまで覚えていたはずなのに、彼女の顔を見た瞬間、忘れてしまった。
思い出す気力もなく、紡は取り敢えず涙を誤魔化すように
「今、何時?」
「十一時」
紡からは死角の壁掛け時計を見ながら彼女は答える。
「学校行く? それとも、まだ寝る?」
「……ううん」
質問に
「重い……」
「……重くない、です」
「どうしたの? ちょっと不機嫌?」と彼女が下敷きになりながら聞く。
「……やっぱり人に触れるのって、緊張して」
意識がぼぅっとする。
慣れない部屋で目覚めたからだろうか。その割には、自室よりも安心する部屋だけど。
唯一クリーム色の壁紙を除いて、暗い色の家具で統一された広い部屋。
部屋のスペースの四分の一を占めている巨大なダブルベッド。いくつあるのか数えるのも
一人暮らしというものに
「それならあたしだって、緊張してるよ」
紡の手が持っていかれ、彼女の胸の少し上あたりに
首筋をすーっと撫でられたような、ぞわぞわする感覚に
紡の手を握り込む手は体温が高くて、手の形がはっきりと分かる。細い指の小さな手だ。
今の彼女は衣服らしいものを何も身に着けていない。だから、紡の手のひらが彼女の肌に触れる感触も直に脳に届く。気を抜けば脳が
確かに
「その緊張は、未成年に手を出したことに対するものですか?」
照れ隠しのように紡は
手を彼女の顔に持っていくと、彼女は猫のようにその手にすり寄ってきた。
手の甲が彼女の触れた個所からじわりと
事実、今の関係性は犯罪なんだろうけど。
紡の気分次第で彼女の人生ごと終わらせられる、ただ
ファインダーから覗き込めば綺麗なものにも見えてしまうけれど、実際には綺麗とは程遠い。
「どうかな。多分、そうじゃないと思うけど」
彼女は言葉を
ベッドから降りると足裏がふわりとした
ベッドシーツのさらさらとした感触も好きだけれど、紡の好みとしては毛の長い絨毯の方だった。
あとでここにダイブしたら彼女に引かれるだろうか、なんてことを考える。
ふわふわを堪能するようにすり足で歩き、廊下へと繋がる扉へ向かう。
「ご飯は食べる?」
背後から彼女の声が追いかけてくる。
「あとで」
「もしかして、なにか作れたりしない? それなら買い物行ってからがいい」
彼女は
少しでも練習しとけばよかった、なんて
「……作れないけど、買い物は一緒に行きます」
「ふふ。わかった」
彼女が
「今からお風呂? なら、一緒に入ってもいい?」
そんなお願いに、ドアノブに手を掛けたまま立ち竦む。勿論、困るけれど、そう思ったところで紡は彼女のお願いを断れない。多分、出会った時からだ。
せめてもの抵抗として紡は何も言わなかった。
ドアを開け放したまま部屋を出る。
その沈黙を是と捉えたのか、
身体を洗うだけじゃ済まないんだろうな、と思う。貧相な胸を見下ろして、わざわざ自信をなくす。
頭の片隅で渦を巻いている独占欲が後押しして、後ろ手に彼女の手を
彼女のスマホにはよく着信が来る。
「アラームだよ」と彼女はよく言うけれど、絶対に違う自信がある。
けれど、紡の前で電話を取ることはない。きっと紡が不機嫌になるのを知っているからだ。
今も着信音が鳴り続けている。
「……出なくていいんですか?」
買い物かごを受け取りながら、聞いてみる。かごの中に入っているのはチューハイの缶と割いて食べるチーズ、あとは菓子パンが二つと、カップラーメンが四つ。
とても彼女を構成する成分とは思えない。紡の前でだけ食事の水準を
それくらい彼女の肌は透き通っていて、染み一つない。
「いいよ。紡ちゃんとの時間の方が大切だから」
そう言って彼女は顔を近づけてくる。
それにしても、と紡は気をそらすように話題を変える。
「野菜コーナーなんて見て、何か買うんですか?」
「もし買ったら、紡ちゃんの手料理が食べられないかなって」
言いながら、キャベツ半玉を両手で持ち上げる彼女の目は真剣そのものだった。
ほら、とこちらにキャベツを寄越してくるので、紡はかごでそれを受け取る。
「……野菜炒めくらいなら、なんとかなるかも」
ならないかもしれない。でも、彼女が喜んでくれるならなんでもいい。
無表情を装って人参をかごに入れる紡の横顔に、彼女が声を掛けてくる。
「紡ちゃん、料理で一番重要なのって何か知ってる?」
「目分量」
「そこは愛情とかじゃないんだ」
彼女が少し残念そうにふむ、と
「もしくは時間、でしょうか。炒める時間とか、
愛情なんて不確かなものを入れても、食べるときには抜けきっているかもしれない。それに、そんな万能調味料で料理が美味しくなるなら苦労はしない。
つまり、紡がどれだけ彼女のためを思って料理をしても、できるのはきっと誰が作ったのかも分からない量産型野菜炒めだ。
味付けも塩コショウ以外は失敗しそうで使いたくないし。
なんて考えながら店内を歩いていると、また着信が鳴った。
彼女のポケットからだった。
「出てもいいですよ」
嘘だった。
着信が鳴り続けるのも嫌だけど、出たら出たできっと紡は不機嫌になる。
それを見抜いているのかいないのか、彼女はポケットに手を突っ込むこともしない。代わりに紡の手をいわゆる恋人繋ぎで捕まえてきて、ぎゅっと力を込めた。
「やきもち? かわいい」
愛おしむような視線が向けられていることに、どうしてだろうか。居心地が悪くなる。
きっと電話の向こう側にいる相手のことを考えていたからだ。
私だったら、と置き換えて紡は考える。彼女が電話に出ることは
着信が途絶えた。
今、電話をかけてきた人も、同じように不安を感じているのだろうか。
一抹の思いを握り潰すように彼女の手を強く握り返す。
だからといって。
──この視線が別の相手に向けられている時があるなんて、考えたくもない。
「……
「紡ちゃんって分かりやすいから」
牛肉のパックをかごに入れる、彼女の横顔は口元が
「……分かりやすい、なんてこと」
多分それは彼女の目がいいのであって、紡が特別顔に出るわけじゃないと思う。少なくとも、彼女以外、例えば母親なんかには、そんなこと言われたことは一度もない。
その心の奥を
「ありゃ、怒らせちゃった? ごめんね」
「怒ってないです」
ふい、と彼女から目を逸らしながら
本当に怒ってはいない。でも、少し意地悪をするくらいきっと許される。
「……んーと。紡ちゃん、もしかして優しくされたい?」
「はい」
素直に
と、繋がれていた手が解かれ、名残惜しさに紡の手が後を着いていく。
けれど、その手が紡の頭を優しく撫でてきたことで、紡は手を元の位置に戻した。
指先で髪を梳き、手のひらで頭を撫で回す。紡は感覚を総動員させてそれを
「………………」
紡と彼女の関係が始まったのは大体ひと月前だ。
家出をして夜の街を歩いているところで、散歩をしていた彼女にお持ち帰りされた。
その日のことははっきりと覚えている。家に泊めて貰って、同じベッドで眠りについただけで何もせずに、名前すら聞かずに次の日の朝別れた。
というか、名前は未だに聞けてないし、今更聞き出そうという気もあまりない。
今まで教えてくれてないということは、そういうことだろうし。聞いたところで本名を教えてくれるのかどうか分からないから、それなら意味がない。
じゃあそれ以降、なぜ関係が続いているかというと、家出をするたびに彼女に会うからだ。
彼女は一人の時はよく街を歩いているようで、二度目に出会ったときは昼間だった。
出会った時から思っていたけれど、彼女は街を歩けば十人中十人が足を止めるような美人で、服も目立つわけではないもののかわいいものを着ていた。
街の喫茶店で彼女はブラックコーヒーを、紡はレモンティーを飲んで。そこで紡は彼女から家の合鍵を渡された。「いつでも来ていいよ」という砂糖を二つ入れた紅茶以上に甘美な響きに、紡はこくりと
紡が考え事に
「そろそろ、機嫌直してくれた?」
気付けば頭の上に乗った手はもう動いていなくて、彼女が
紡は数秒、考え込んだのちに告げる。
「もっと会ってくれる日を増やしてくれるなら、直る……かも」
「かも、なんだ」
彼女がふふっと吹き出しながら眦を下げる。
「紡ちゃんって、意外とわがままだよね」
「わがままだと嫌いになりますか?」
しおらしく肩を
「ううん、その方が素直で好き」
かわいくてしょうがないといった風に、彼女は紡の頭を撫でてくる。部屋では彼女の方が若干背が低いけれど、外に出ると並ぶようになる。彼女は結構な厚底の靴をよく履くからだ。
多分、五センチくらい身長の伸びた彼女の顔が、紡の顔と同じ高さにある。
紡はふいと顔を背ける。
「……そうですか」
「さては、照れてる?」
「……はい」
どう返したものか迷った挙句、普通に答えてしまった。
彼女はちょっと意外そうな顔をする。
「素直な方が好き、って言ったので」
紡がぼそりと呟くと、彼女は温和な笑みを浮かべて紡の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「かわいいなあ、紡ちゃんは」
紡はされるがままに、折角セットした髪がぼさぼさになるのを
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