-犬と狼の間-⑥

「秋の日は釣瓶つるべ落とし」とはよく言うが、冬の日の短さとは比べるべくもない。軒や電線で切り取られた空はすっかり藍一色となった。乾っ風に散らされるうね雲も、じきに夜闇に消えるだろう。


 古い街灯の白い光が降り注ぐ。チカチカと忙しない人工の明かりは、異形の巣には場違いすぎる。むしろ視界の最上部に宿る星の方が、この暗がりには相応ふさわしい。


 青年の言葉を借りるなら、「幽霊の時間」がやって来たのだ。


「グガアアッ! ギャフッ!?」


「ときにそちらさん、貴女は『言語の恣意性しいせい』という言葉を知っていますか?」


「ググッ!? ゲヒャッ!?」


「先の説明通り、『昼と夜の中間に位置する時間帯』を日本では『黄昏時』、フランスでは『犬と狼の間』と呼びます。どちらも同じ概念を指すのに、発音は全く異なるのです」


「キャウン!? キャイン!?」


 途切れない明朗な語り口。それは会話とも呼べない一方的なもので、哀れな「怪異」は鳴き声、もとい泣き声で返すしかない。悪獣の狩り場は青年の独演会場と化していた。


「振り返らない」と約束した以上、彼の勇姿を見届けるわけにはいかない。だが、肉が弾けるような打撃音と、独特のステップ音が考察の材料になる。


 星影の下でファイティングポーズをとる、引き締まった肉体の持ち主。洗練された技で敵を翻弄する勇士のシルエットが、無意識的に頭に浮かぶ。


 とは言え、これは単なる妄想でしかない。そもそも私はまだ、青年と真正面から向き合ってもいない。


背後で奮闘している彼は、一体どんな容姿をしているのだろう。着ている服は? 背の高さは? 顔も名前も知らないが、きっと彼のは――


「『ありがとう』でも『Thank you』でも、感謝の気持ちに変わりはない! 言葉は絶対的なものにあらず! これが『言語の恣意性』です」


「ガッ!? ガフッ!? ヘッ、ヘッ、ヘッ……」


 ――いや、それはあり得ない。「一つ目の異人」は言っていた。「お前の『救世主』となる男は、とにかく話が下手くそなヤツだ」と。


「ここでより簡単な例を紹介しましょう。

 日本における怖いものの代名詞は、『地震、雷、火事、親父』。人の手に負えない災害が三つ並ぶ中、トリを飾るのが『親父』というのが、何ともユーモラスですよね。

 しかし、ヨーロッパではこうもいきません。洒落しゃれっ気のある日本版と違って、こちらは真に恐ろしいものの三段構え! すなわち――」


 この堂々たる語りっぷりを前にして、青年を話し下手と評する者はいないだろう。


「グルル……」


「――おやおや、どうかしましたか? あんなに積極的だったのに、急に大人しくなってしまって」


 度重たびかさなる取っ組み合いの末に、とうとう力を使い果たしたのか。「怪異」が凶暴な態度を引っ込め、未練がましく喉を鳴らす。


 勝敗は決した。これ以上は余計な手出しをせず、黙って見逃してやれば――


「ちょっと待ってくださいよ! ここからが本番なのに!」

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