-犬と狼の間-⑤

 薄目で見る世界は何とも代わり映えしない。彼方かなたまで続く小道は茜色に照り付いたままだ。けれどもまぶたを全開にすれば嫌でも気付く。視点が普段よりちょっとだけ低くなっている、と。


 それもそのはず、私はつんのめった体勢のまま宙空で静止していたのだ。青年のたくましい腕に支えられて。人道的な曲者に受け止められて。


「……ぐるるるるっ……へっ、へっ、へっ……」


「おやおや、思いの外復帰が早い。参ったね、もう少し気合いを入れて蹴るべきだったかな。でも、必要以上に傷付けるのもねえ……」


 弱々しく威嚇する野獣。勝利に酔っていた頃の気高さは消え失せ、か細い息吹が哀愁を誘う。


 対して青年は平常運転。戦野でも饒舌さを忘れない姿勢は、いっそ腹立たしいまでに頼もしい。


「どうでしょう。ここいらで一度退いてくれませんかね、そちらさん? おおっと、そんなにいきり立たないで!

 いやね、気持ちは分かりますよ。いざ食事にありつこうってところで、獲物を横取りされたら腹も立つでしょう!

 俺は何も、貴女あなたの営みにケチを付けたいわけではありません。共食いは殺人や近親相姦と合わせて、人類三大禁忌の一つと見なされていますが、それはあくまで人間の価値基準に従えばこそ。そもそも種族が違えば倫理観も違うのが当たり前! 感情論で他者の信念を否定するなど、決してあってはならないのです。

 ただし、今回みたいなのは例外でしょう。だって、のはそちらさんなんですから!

 限り、ターゲットを捕食することはない。それが貴女の存在意義であるはずだ! まあ、地域によっては体当たりをしてくるとか、砂を撒き散らして妨害してくるとか、そういった話も残っているようですが。投擲とうてきの球に砂岩を用いたのも、その伝承由来ですかね。

 ……おや、随分と怪訝けげんな表情をしていらっしゃる。正体を見破られたのがそんなに意外でしたか? これでも怪異には詳しいんですよ。何せ俺の師匠は……いや、やっぱり止めておきましょう。プライベートな話題をベラベラと並べられても、そちらさんには面白くないでしょうから。

 とにかく俺が言いたいのは、ってことです! こうして抱きかかえているからには、貴女はこの子を襲えないはずなのです!

 だからこれ以上痛い目を見たくなければ、早急に立ち去ることをオススメしますよ。それともきっかけが必要ですか? そちらさんを追い払うについても、俺はよーく知っていますが」


「ぐるるるるっ! がうっ! がうっ!」


「……あくまでやる気ですか。それならば致し方なし。お嬢さん、腰が痛むだろうが少しだけ我慢しておくれ。ケリをつけ次第、手当てをしてあげるから」


 青年にそっと促され、私は慌てて姿勢を正す。まだ胴回りは痺れているが、辛抱できないほどではない。ゼリーのように不安定な足下を、かかとで力強く踏み固める。


 若干ふらつきつつも持ち直した私を見て、安心したのだろう。「怪異」に宣戦布告した命知らずが、ゆったりとした足取りで行進を始める。最後に不穏な指示を言い置いて。


「そうそう、お嬢さん。一つだけ約束しておくれ。この先どんな事態になろうと、君は今の身構えのまま、真っ直ぐ前だけを見ているんだ。

 間違ってもその場にしゃがみ込んだり、俺達の方に視線をやってはいけない。これを守ってくれないと、建前が通用しなくなってしまう。あちらさんに大義名分を与えたら、あとはもう喰われるだけ。

 お願いだ。君を助ける理由を奪わないでくれ」

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