-犬と狼の間-④

「『Entre chien et loup(犬と狼の間)』。フランス語で『黄昏時』を表すことわざさ。夜を間近に控えた薄暗闇の中では、目の前にいる獣が犬なのか、それとも狼なのか、パッと判別するのは難しい。

 一方は有益な人類の友! もう一方は有害な人類の敵! どれだけシルエットが似通っていようと、その本質は大きく異なる。考えるだにゾッとするね。

 日本の『黄昏時』もまた、これとほぼ同じ概念を内包している。『たそがれ』の語源は『誰そ彼』。こちらに近付いてくる人影が誰なのか見分けられないという意味だ。

 もし相手が親しい人間であったなら、これは何の心配も要らない。たとえ不審者に遭遇したとしても、対処の仕様はある。大声で助けを呼ぶとか、交番へ駆け込むとかね。ただ一つ厄介なのは――と行き会った場合だ。

 真夜中を幽霊の時間とすると、夕まぐれは妖怪の時間! これは日本民俗学の開祖である柳田國男やなぎたくにおの論説でね。反論を唱える学者も多いわけだが、そこら辺は割愛しよう。

 とにかく俺が言いたいのは、こんな時間に外出するのは自殺行為だってことだ! 西浪市でイブニングウォークを楽しめる人種なんて二種類しかいない。

 人間に化けた怪異か、怪異すら恐れない曲者くせものか。

 俺は当然後者なわけだが、果たして君はだろうね。お嬢さん?」


 その青年はとにかくお喋りだった。こちらがろくに返事をせずとも、構わず口を動かし続けるのだ。


 長ったらしい口上のほとんどは前置きで、主題も飛び飛び。おまけにびっくりする程早口だから、話についていくのも一苦労である。


 それでも抑揚のある語調は耳心地が良く、爽やかな声質にも好感が持てる。何より命の恩人に対して、「鬱陶しいから黙っていろ」などと生意気は言えない。


「しかし何だね、ギリギリ間に合って良かった、良かった! こうして俺が駆けつけていなけりゃ、今頃君はすってんころりん。に襲われるのも時間の問題だっただろうね」


 そうだ、彼の言葉は正しい。追跡者に襲撃されたあの時、私は心の底から死を覚悟した。此岸しがんの景色を拝む機会など、もう二度とやってこないと思っていた。


 だが、どれだけ経っても身体に変調は現れない。冷たい地面に激突する感覚も、尖った牙でかじられる痛みも、一向に訪れる気配がない。うずくのは攻撃を受けた腰だけだ。


 予想外の事態に混乱する最中、馴れ馴れしく話しかけてくる者が一人。見渡す限り無人だったはずの街道に、その男は烈風を伴って現れた。


 隣り合わせの闖入者ちんにゅうしゃが何をやってのけたのか、視界を閉ざしていた私には分からない。それでもズドンという鈍重な音と、「キャイン、キャイン」という情けない悲鳴からおおよその察しは付く。彼が「怪異」に一太刀浴びせてやったのだと。

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