第一章

-犬と狼の間-①

西浪市にしなみし」は恐ろしい町だ。閑散とした路地を走っていると、つくづくそう思う。


 ほんの数十分前まで中空に輝いていた太陽は、今や家々に遮られて見えない。名残なごりともいうべきだいだい色の光が、アスファルトを淡く照らし出している。それすら迫りくる夜闇に食い潰され、辺りは薄暗くなる一方だ。


「ハア、ハア、ハア……」


 荒い息遣いが背後から迫ってくる。昼間に駅を出立して以来、ずっと私を付け回してくる何者かが発しているのだ。最初はそこまで気にならなかったが、空が紅くなるにつれて気配は濃くなっていき、気付けば不穏な逃走劇に発展していた。


 耳障りなカチャカチャという音は、多分鋭い爪が地面を引っ掻く響きだろう。威厳のある足さばきにしても、人間のそれとは随分と異なる。


「ハア、ハア、ハア……ガルルルルッ!」


 何より私を脅かすのが、時折吐き出される乱暴な唸り声だ。犬のうめきにも似ているが、その猛々しさは桁違いである。振り返って確認する勇気などないが、追跡者の正体はおぞましい肉食獣に違いない。


 ところどころレトロな要素はあるものの、西浪市はそれなりに賑やかな場所だ。そうでなくとも、住宅街に猛獣が出現するという事態は異常極まりない。人里に降り慣れている熊とて、この時期は冬眠中だろう。


黄昏時たそがれどきの外出は絶対に避けろ。多かれ少なかれ、普通の町にも危うい側面はあるが、西浪市は別格だ。お前のような異形が生き残るには、奴らに目を付けられるより早く『海菜荘わだんそう』へ――」


「一つ目の異人」の忠告が頭をよぎる。結局日が高いうちに目的地へは到達できず、それでも呑気にあちこち彷徨さまよっていたらこのザマだ。


 もっとも、抽象的な指示を並べるばかりで、十分な情報を提供してくれなかった彼にも非はある。せめてアパートまでの経路を書いた地図でもあれば……


「ガウッ! ガウッ! ウウウウウッ!」


 おっと、いけない。責任転嫁をしている場合ではなかった。


 捕まればその時点で化物の餌食だ。いやはやまったく、「餌食」という単語を文字通りの意味で使う日が来るとは夢にも思わなかった。言葉遊びはフィクションの中だけで十分だというのに。


 とにかく状況を打開するアイディアが欲しい。もしくは敵に立ち向かうための武器が必要だ。しかしどちらも望み薄だろう。


 不安と焦燥でパンク寸前の脳を回転させたところで、良案が生まれるとは考え難い。たとえ万全のコンディションであっても、義務教育を放棄している私がまともな思考をできるはずもないのだ。


 それにこの身は一文なし。明け方に脱走を決行した際には、異人から受け取った片道切符以外、何も持って来られなかった。それすらこの町に来る過程で消費している。残っているのはせいぜい、閉まったままの改札口に突撃して、思いっきり腹を打った思い出くらいか。


 駅員も通行人もあんなに笑わなくて良かっただろうに。こちとら村の外に出るのは初めてなんだ。乗車券の正しい差し込み方なんざ分かるかっつーの。

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