第4話 ポーランド衝突

 1940年9月1日。その日、世界に激震が走った。元より領土問題を抱える間柄にあったドイツとポーランドが、国境地帯における住民の保護を名目に武力衝突に至ったのである。


 戦闘は鎧袖一触とまでは行かずとも、ドイツの優勢で事が運んだ。この頃にはドイツは旧式化著しい1号戦車や2号戦車をトルコや中華民国、フィンランドにタイ王国といった国々に売り捌き、そうして得た利益と運用情報で開発と改良を促進。3号戦車や4号戦車を主力とした陸軍9個装甲師団を以てポーランドに攻め入ったのである。


 空も同様に、〈Bf-109〉戦闘機や〈He-111〉軽爆撃機を主体とした近代的な戦力で攻め入る事で瞬時に制空権を握ったのであるが、その中で最もポーランド軍を震え上がらせたのが、ダンチヒ占領の主軸となった海軍であった。


 トルコ海軍に装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」ともども売却されたシャルンホルスト級巡洋戦艦の代艦として、1938年より僅か2年の期間で建造されたプリンツ・ハインリヒ級巡洋戦艦は、30.5センチ三連装砲を3基搭載した高速戦艦であり、明らかにレニングラードで建造中の63型装甲巡洋艦を意識した性能を有していた。


 この時のドイツ海軍は、旧式含めた戦艦4隻、装甲艦2隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦7隻、駆逐艦30隻、潜水艦48隻を有しており、沿岸海軍としては過剰過ぎる戦力を有していた。だがこの時ソ連海軍もバルト海艦隊の増強に力を入れており、これに対抗するための戦力としてイギリスから一定の理解を得ていた。


 戦闘は1か月にも及び、ポーランドは西部地域を割譲させられたのみならず、軍隊の規模縮小や外交権限の制限など、事実上の保護国化という末路を辿った。その影響は当然ながらソ連に直接的に響いた。


「我が国は緩衝国を失った。幸いにしてドイツは友好的な姿勢を見せてはいるが、トルコやルーマニアに対する肩入れの規模も考慮して、より軍備増強に務めねばならん」


 クレムリンの会議の場にて、スターリンは懸念を言葉に表した。特にドイツの沿岸部を優秀な艦隊によって制圧し、強襲上陸を仕掛けて半包囲の形を取るという洋上電撃戦は、これまで海軍を侮っていたソ連軍上層部に恐怖心を抱かせた。


 これを受けてバルト海艦隊の戦力整備計画は修正。ガングート級戦艦3隻全てを黒海に回航し、建造中の23型戦列艦2隻と68型重巡洋艦2隻、63型装甲巡洋艦2隻、その他軽巡洋艦6隻に駆逐艦24隻を配備するという形に定まったのである。


 だが、この頃にはソ連国内ではスターリンの大粛清の嵐が巻き起こっており、技術者や優秀な軍人の欠乏に喘いでいた。そのため技術交流や研究などの言い訳を立ててドイツに亡命する者が後を絶たず、秘密警察による始末すらも阻止されていた。とはいえ東アジアの方でも、日本がドイツより研究用に輸入した4号戦車を、満洲国の国営工場でリバースエンジニアリングし、欧米列強に比肩する性能を持った戦車の開発を進めていたため、二方面作戦のリスクは出来る限り回避したかった。


 この状況は1942年の6月、日本がアメリカとの関係が悪化し、安っぽい陰謀を振り回してアメリカが『帝国主義者からのアジアの解放』を語って日本に宣戦布告して変化を迎える事となる。

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