第3話 新巡洋艦、誕生す
西暦1937年、大日本帝国は頭を抱えていた。
これまで巡洋艦や駆逐艦ばかりの貧弱な沿岸海軍であったソ連海軍が、重巡洋艦程度なら余裕で撃破出来る大型巡洋艦を建造する様になったからである。
当然ながら、オホーツク海方面の防衛は日露戦争時代からの悩みであるため、アメリカの戦力を想定しながらソ連海軍の戦力強化にも対応しなければならなかった。
そして海軍艦政本部にて、63型装甲巡洋艦を意識した新型艦の開発が始まるのは至極当然であり、直ちに研究が開始。そして一等巡洋艦を凌駕する新型巡洋艦の開発が開始されたのである。
海軍上層部から艦政本部に下された要求内容は以下の通りである。
・現状の一等巡洋艦以上、戦艦以下の規模であること
・基準排水量は3万トン以下、金剛型戦艦の代艦として運用可能な性能であること
・速力は30ノット以上とすること
・主砲は30サンチ口径以上
・副砲は搭載せず、高角砲を中心に搭載すること
・防御力強化のために魚雷は未装備でも可
・防御は30サンチ砲弾に耐えうるものとすること
この時には日本は軍縮条約を破棄しており、ワシントン海軍軍縮条約で定められた制限を超越した新型戦艦の建造が開始されていた。来るアメリカとの衝突に備えて進められた軍拡は財政に多大な負担を掛けるものであったが、状況が一変するのは1938年の事である。
欧州方面にてドイツやソ連の軍備増強を警戒していたイギリスとオランダは、枢軸国間での連携を崩す目論見として、日本側に大幅な譲歩を行った。満洲国の独立承認と石油含む地下資源の輸出を認める条件として、志那からの陸軍の全面的な撤退とドイツとの軍事同盟を撤回する様に求めてきたのである。
兵器の生産・運用に必要な石油や金属の大量輸出を前に、政府では連日会議が行われ、物理的な恩恵には背に腹は代えられぬとしてこの要求を呑んだ。とはいえ日本側としても、欧州に対する牽制としてドイツやイタリアとの関係を重視するのは変えられないし、ソ連や中華民国に対する牽制として満洲国は必要であったため、策も講じた。
まず、民間企業の手を借りて満洲国の産業育成に着手したのであるが、満洲政府直轄の国営工場の整備は最優先事項となった。満洲国の予算で陸海軍の兵器を量産できる様にすれば、日本自体の軍事費を幾分か下げる事が出来るし、タイ王国や中華民国内の親日派軍閥に対して安定した兵器の輸出も出来るからである。
そして新型巡洋艦に関しても、遼東半島は旅順に建設された国営造船所にて、設計と建造が開始された。表向きには満洲海軍の沿岸防備用の大型巡洋艦となっているが、船体規模はどう見ても遠洋航行に適したものであったし、何より駆逐艦でも贅沢と言える程の領海しか持たない満洲海軍で運用するにはオーバースペックに過ぎた。
そして1939年、完成した旅順造船所にて1番艦が起工。続く2番艦も同じ旅順国営造船所にて建造が開始された。後に『吾妻型巡洋艦』と呼ばれる事になる本級は、63型装甲巡洋艦のライバルとして歴史に名を遺す事となる。
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