六日目
死んでしまう。真っ先にそう思った。
仰向けの恰好だったので、水面で揺らぐ日光が、だんだんと遠ざかっていくのが見える。手足を搔くように動かしてみても、体全体が石に変わってしまったかのように、沈んでいく速度には敵わない。
開けたままの口から、空気の代わりに大量の水が喉へ入っていく。反射的に肺の空気を吐き出す。しかし、それによって余計に息苦しくなる。
視界はぼやけて、自分の手の像すら漠然としている。その上、だんだんと狭くなっていった。意識を失う、その直前、
ばしゃんと音と共に、誰かが目の前に飛び込んできて――
☆
「ケデズ。おい、ケデズ」
……誰かが、名を呼びながら体を揺らすので、ケデズがゆっくりと目を開けた。カーテン越しに日が差し込む自室のベッドの横で、赤い双眸が彼を見下ろしていた。
「
非難めいた目線も意に介さずに、アシュタロトはそう話しかけてきた。夢の続きを見たかったのにと思ったが、無表情の彼は、本気で心配していたらしい。
「何か用ですか?」と尋ねようとして口を開いたケデズだが、声の代わりに咳が飛び出した。しばらくして、やっと咳が収まると、アシュタロトは身を引いた。
「起こして悪かった。療養中だったのか」
そのまま、踵を返そうとするアシュタロトを、ケデズは「待ってください」と呼び止めた。
「……私が、六歳の頃の出来事です」
何の前置きも無く語り出したケデズを、アシュタロトは訝しげに見詰めていたが、話が長くなりそうだったので、すぐそばの椅子を引っ張ってきてそこに座った。
「市場へ買い物に行くという侍女へ、ついていったことがあります。家族には内緒の外出でした。帰り道、珍しいものをたくさん見て有頂天になっていた私は、石橋の欄干に登って、そこを歩いていました。さほど高くなく、幅も広いので、子供でも登れてしまったのです。
もちろん、侍女は驚いて、止めました。『お坊ちゃん、危ないですよ』と。私は、平気だと振り切って、二三歩進んだのですが、強い風が吹いて、私は川へと転落してしまいました」
黙って聞き入るアシュタロトの存在も忘れてしまったかのように、ケデズは自分の過去の語りに夢中になっていた。薄暗い天井だけに目を向けて、あの時、あの瞬間の感覚や感情を、一つ一つ辿っていく。
「かなづちの私は、為す術なく沈んでいき、このまま死んでしまうのだと思いました。その時、彼女――そばにいた侍女が、私を助けようと、飛び込みました。
透明な、水の中を、ゆっくり、ゆっくりと沈んでいきながら、彼女は私に、手を伸ばしました。漆黒のエプロンドレスが、大きく膨らんで、川の流れに沿って絶えず揺れています。長い髪も共に広がって、私を包み込むようでした。
真剣な彼女の目と合った瞬間、私は、安心したのか、気が遠くなってしまいました……」
自分を救おうと飛び込んでくれた「彼女」の姿を、まざまざと思い返したケデズは、小さく嘆息した。あの美しさは、六歳の彼の網膜に焼き付いたままでいる。
「次に目が覚ました時、私は岸に引き上げられていました。周囲には人が集まっており、両親も駆け付けていました。通行人の話によると、気絶した私を彼女が岸まで運んで、騒ぎを見て近寄って来た男性に引き渡したそうです」
「その侍女はどうなった?」
「……その男性は、彼女も助けようとしたのですが、一歩遅く、水に沈んで、そのまま……」
「死んだのか」
アシュタロトの淡々とした確認に頷いて、ケデズは目の端にうっすら浮かんだ涙を拭った。
「それから、なんです。彼女のことが、頭から離れない。どんな女性と会っても、彼女の方が美しいと思ってしまう。結婚をしても、妻を愛することが出来ず、いつか、いつか彼女と再会したい、そんなことを願い続けていました」
「それが、水中の女性しか愛せない理由か」
「はい」
この話を他人にしたのは初めてだったが、ケデズは
「……水を差すようだが、」
「何でしょうか?」
「風呂に入った際に試してみたら、人間の水中の視界は、非常にぼんやりとしていた。先程、ケデズが話していたように、その侍女の姿は事細かに見れるものではないのでは?」
「ええ。私も、それには気付いています」
ケデズは、アシュタロトへ顔を向けた。表情が変わらないながらも、心なしか、心配しているようにも見えた。そんな彼に、ケデズは微笑みかける。
「私の中の彼女は、頭の中で、形作り膨らんでいったものなのでしょう。自分の為に、命を投げ打ってくれた女性を、私は聖母のように理想化してしまったのだと。
しかし、後悔はありませんよ。ずっと思い続けていた夢を叶えた瞬間、私は至上の幸福を感じたのですから」
そう言い切った後に、ケデズはまた咳き込んだ。それが収まって、口の端を拭うと、赤いものが付いた。
「本当に大丈夫か?」
「……私のことよりも、彼女のことを話してください。今日昨日と、彼女に会えませんでしたから」
「ああ。変わりなく、過ごしている。食欲の減退も無く、体調に異変も無い。今日、丁度水槽の掃除があった。綺麗になったのを喜んでいたぞ」
「そうでしたか。嬉しい限りです」
アシュタロトの報告に、ケデズは満足して頷く。療養中も、ずっと彼女のことが気に掛かっていたが、ベッドから出ることも叶わず、従者に尋ねても本当に確認してくれるとは思えなかった。
一方、アシュタロトは、ユウティアに関する報告を、最低限のもので済ませていた。きっと、これ以上の情報は、ケデズもユウティアも、望んではいないのだろうと考えて。
ケデズからの来訪が途切れている間、自然と、アシュタロトがユウティアと話す時間が長くなっていた。彼女は、自分の過去はあまり話したがらなかったが、代わりにアシュタロトの話を楽しそうに聞いていた。アシュタロトの同胞が、契約を結んだ際に、人間の
また、ユウティアのために本を持っていくこともあった。しかし、彼女は文字を読めないので、読むのは挿絵のある図鑑ばかりだった。ユウティアは特に海洋生物に興味を持ち、
そんなアシュタロトの回想など知らずに、ケデズは肺の位置に手を置いて、浅い息を繰り返す。咳をすると出血するようになって長くなるが、最近は呼吸するだけでも、肺が痛むようになっていた。
「あなたを召喚する一月前に、私の肺は不治の病に侵されていると診断されました。残り少ない人生の中で、水中の女性を愛したいという夢を、いえ、欲望を、叶えるのは今しかないと、感じました」
「私と新たな契約を結べば、その病も完治出来る。それを行わなかったのは、限られた命だからこそ、無理な願いを押し通せたからか」
「はい。私は、自分の欲望が、許されるものではないと分かっています。だからこそ、自分の寿命が尽きる直前にならないと、動けなかったのです」
アシュタロトは頷きつつも、彼は勘違いをしていると、考えていた。ケデズは、自分が死ねば、契約は解除できるのだと思い込んでいるようだが、実際は、契約した者同士の生死は関係なく、維持される。
しかし、その事実を敢えて伝えなかった。ケデズは、「自身の死後、人魚は人間に戻れる」という条件を付け加えようとするのだろうが、ユウティアはそれを望まないはずだ。彼女と話したことで、もしも人間に戻っても、その扱いはもっと悪いものになるのだと、アシュタロトにも予想出来た。
アシュタロトが考え込んでいる間に、ケデズは目を閉じいた。客人がいるというのに、頑な瞼を開けきれない。
「……眠るのか?」
「……」
「おやすみ」
「……」
返答も億劫になったケデズは、無言のまま頷く。それを見たアシュタロトは、立ち上がり、足音を忍んでこの部屋を出て行った。
☆
誰かに呼ばれているような気がして、ケデズは目を覚ました。
首を動かして、左右を確認する。だが、室内には誰もいない。
ただの勘違いだろう。しかし、彼は一つの可能性がどうしても拭えなかった。
鉛のように重い体を起こして、ベッドの下に、左足を置く。ベッドに立てかけた杖を右手に持つが、体重をかけすぎて、転びかけてしまった。
玉の形の汗を額から滲ませながら、素足のケデズは、前屈みになりながら廊下を歩く。日付が変わる直前の真夜中で、蝋燭の灯りだけが、彼の姿を照らす。
誰にも会わずに、ケデズは彼女のいる水槽の部屋に辿り着いた。もたれ掛かるように、ドアを開けて、中へ入っていく。
一つだけの窓からは、満月の光が入っていた。そう言えば、水槽の真上に天窓を作りたいと思っていたのだが、結局実行出来なかった。その事を後悔しながらも、ケデズは真っ直ぐに怪談に向かい、時間を掛けて登り切る。
仄かに光る水面を、ケデズはじっと見つめていた。六歳の頃に溺れて以来、川や海を覗き込むのが苦手になっていたが、今のケデズには、高揚しか感じていなかった。
杖を背後に捨てて、均衡を失った片足の体が、水槽方面へと傾くのに任せる。自然と目を閉じていた。耳元で、勢いよく風が切る音が聞こえる。
水面に体が叩きつけられた。全身の痛みは、一瞬で去って行く。そうやって生まれた泡が、ごぼごぼと重い音と遠くなった瞬間に、ケデズは俗世の喧騒から、完全に切り離された。
目を開ける。彼女は、水槽の底で待っていた。
彼女は、両手を大きく広げていた。そして、全てを受け入れてくれるような、満面の笑みを浮かべているのを、ケデズは確かに見た。
嗚呼。君は、何よりも美しい。
水中でも、そんな溜息が出てしまう。頭を下に向けたケデズは、自身も両手を広げ、真っ直ぐに彼女の元へと沈んでいく。
私は彼女を深く愛していた。同時に、彼女は私を愛してくれていた。
ケデズの心は、愛し合う喜びに粛々と満たされていった。
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