四日目


「台所からくすねてきたぞ」


 アシュタロトが、左手で持ったシャンパングラスと小脇に抱えた炭酸水の瓶を見せると、水面で顔を出したユウティアは、「やった」と両手を叩いて喜んだ。すぐに、階段の上に登って腰掛ける。

 ポンと音を立てて、水槽とは逆方向へとコルクを飛ばしたアシュタロトは、炭酸水をシャンパンに注ぐ。パチパチ弾ける泡越しに、ユウティアは目の前の景色をうっとりと眺めていたが、一気にグラスを仰いで飲み干した。


「あー、おいしい!」

「何よりだが、炭酸水で良かったのか? シャンパンもあったが」

「いいの。アルコールが入っているのを飲むのは、なんか下味をつけられているような気持ちになっちゃうから」

「そういうものなのか」


 小首を傾げるアシュタロトの隣で、良い気分のユウティアは尾びれで水面を何度も叩いていた。大きな波が起き、胡坐を掻いたアシュタロトのズボンも濡れてしまったが、本人は気にせずシャンパンを飲み続けている。


「あたし、舌に刺激が来るものは、苦手になっていたけれど、炭酸水みたいにあっという間に流れている刺激の心地良さは、今も爽やかに感じるわ」

「昔から、炭酸水が好きだったのか」

「好き、というよりも、憧れだったの。まるで宝石みたいで、すごく綺麗でしょ?」


 二杯目の炭酸水をグラスに注いだユウティアは、それを持ち上げる途中で、思わず手を止める。窓から差し込む夕日に照らされたアシュタロトの横顔が、息を呑むほど美しかったからだった。

 彼女の視線に気が付いたアシュタロトは、顔色を変えずにそちらを見る。


「どうした?」

「うん。改めて、あなたって男前だなって」

「よく言われる。……今のは、自慢ではなく事実だ」

「分かるよ。人間からの評価なんて、どうでもいいんでしょ?」

「正直に言うと。以前も、背後から視線を感じて振り返ると、年若い侍女が慌てて隠れる瞬間だった。私のことを、しばしば尾行しているようだ。ああいう場合、どう接すれば良いのか分からない」

「放っておいていいんじゃない? 話しかけたら、困るのはきっと彼女の方だし」

「そういうものなのか、難しいな」


 苦い顔で炭酸水を仰ぐ彼を、ユウティアは自分でも驚くほど穏やかな心持ちで眺めていた。


「あたしはあなたの顔がとても整っていると分かっていても、なぜか惚れないのよね」

「正体を知っているからではないのか?」

「そうかも。最初にあなたが召喚陣から出てきた時、咄嗟に食べられる! って思っちゃったくらい、びっくりしたからね」

「私は、人間を食べたことはない」


 力強く断言するアシュタロトに、ユウティアは「分かる分かる」と頷いた。ただ、「人間を食べたことない」という言いましでは、「人間を殺したことある」という意味が隠されているのではないかと、彼女は察していた。

 しかし、そうだとしても、ユウティアは彼を嫌いにはならなかった。悪魔なのだから、人間と違う価値観を持っているのは当たり前。こうして話を出来ているのは、奇跡に近いのだと、割り切っている。


 ――二人で炭酸水を一本空けた後、グラスをそばに置いたユウティアは、大きく伸びをした。そして、子供みたいな目で、アシュタロトを見上げる。


「ねえ、あたし、練習して、水面から跳び上がれるようになれたの」

「それはすごいな」

「ちょっと見てて」


 足から水槽に入ったユウティアは、底まで一気に泳いでいく。そのまま、底に沿って助走をし、速度を挙げながら水面へと上がる。

 最後に大きく水中で下半身を上下させて、勢いよく、膜を破くかのように水面から跳び出した。ばしゃんという音と共に、ユウティアは座っているアシュタロトよりも高く跳ぶ。目を丸くしている彼が、橙色に染まった水滴と共に目に入り、弧を描きながら落ちていくユウティアは笑いかけた。


 水に潜ると、音も光も急激に遠くなる。ユウティアは急激に寂しくなって、すぐに水面へと顔を出した。


「ね、跳んだでしょ」

「素晴らしい。海豚いるかとも遜色がない跳躍だった」


 アシュタロトは無表情のまま、拍手を送った。それが気恥しく、ユウティアは顔を半分水に付けて、ぶくぶくと鼻から息を出す。

 だが、それ以上に満足感があった。幼い頃、広場の真ん中で子供たちが逆立ちの競争をしながら遊んでいるのを、物陰から眺めていたことを思い出す。あの当時の子供たちは、こんな気持ちで楽しんでいたのだろう。


「アシュタロトも、一緒に泳ぎましょうよ」

「申し訳ないが、私は泳げない」

「あら。人の姿だから?」

「確かに、二足歩行に未だ慣れずに、杖が手放せないが、それとは別に、蛇の姿でも泳げない。悪いな」

「いいのいいの。しょうがないからね」


 誘いは断られてしまったが、ユウティアはさほど落胆しなかった。こうやって、彼に自分の泳ぎを見てもらえるのは、まるで父親と一緒に遊んでいるようで純粋に楽しかった。


「最近は、端から端まで、どれだけ速く泳げるのかに挑戦しているの。ただ真っ直ぐに泳ぐんじゃなくてね、こんな風に回転しながらだと、不思議と速度が上がるの」

「凄い発見だな」


 指先で円を描いて、自分の泳ぎ方を再現すると、アシュタロトは感心したように頷いていた。ただ、その褒め言葉でも満足できずに、ユウティアはふうと息を吐く。


「でも、水を吸ったドレスが重くてね、裸だったらもっと速くなれるのにって、いつも思うのよね」

「裸になられると、目のやり場に困る」

「冗談冗談。ご主人様の要望だもの、脱がないわよ」


 本気で困惑するアシュタロトを笑い飛ばしながら、やっぱり彼は優しいと、ユウティアは思う。その優しさは、人間をみな平等に扱うからだろう。アシュタロト悪魔の目には、身分も貧富も出身も、関係なくなってしまう。

 ご主人様も、自分の過去を知っても悪くはしなかったけれど、その平等感はアシュタロトとは似て非なるものだと、ユウティアは分析する。ケデズにとって、水の中の女以外は、みな無価値に等しいのだ。


「手もこうやって動かしてみれば、速くなれるかもしれん」

「いいね、試してみよっか」


 アシュタロトは、頭上で指先を合わせた手が、大きく円を描くように動かしながら説明する。真剣に考えてくれる彼に、ユウティアもはしゃぎながら乗っかった。

 日が暮れるまで、二人の子どもっぽい試行錯誤は終わらなかった。






   ☆






 水槽の底で、ユウティアは眠っていた。重ねた腕の上に、幸福そうな寝顔を乗せて、下半身の膝に当たる部分を少し折り曲げている。

 夕方にはしゃぎ過ぎたのだろうなと、ワインを傾けながらアシュタロトは思う。夜も更けてきたが、彼女がいつも寝る時間よりも少し早かった。


「いつも思うのですが、」


 声を掛けられたので、左手側を見ると、テーブルを挟んだ向こうで椅子に座ったケデズが不思議そうな顔をして、寝ているユウティアに見入っていた。


「あんな風に水中で眠っていても、何故彼女は平気なのでしょうか?」

「髪で隠れているが、うなじに魚と同じえらがある。そこで呼吸しているからだ」

「そうでしたか」


 初めて知った事実に、納得している様子のケデズに、アシュタロトは、本当に外見しか興味が無いのだなと、むしろ感心した気持ちになっていた。

 自室で読書していたアシュタロトを、わざわざ呼びに来たケデズは、共にワインを飲むことを提案してきた。誘いに乗ったアシュタロトが連れて来られたのは、例の如く、ユウティアのいる部屋だった。


「……私からも訊きたいのだが、」

「何でしょうか?」

「ケデズにとって、ユウティアはどのような存在だ?」


 発した当人としては、確信を突いたつもりではあったが、ケデズは意図が汲めないようで、顔を顰めるだけであった。仕方なく、アシュタロトは説明を加える。


「最初、人魚に変化したユウティアを見るお前の様子から、恋をしているのだと思った。しかし、今度は情欲の矛先としてしか見ていないような態度を取り、かと思うと、芸術品のように持ち上げ、はたまた、愛玩動物と同じように可愛がる。今さっきは、子供を慈しむように眺めていた。一体、どれがお前の気持ちなんだ」

「どれが、なんて言いきれませんよ。日毎、一瞬一瞬で、私の彼女に対する愛し方は、変わっていくのです」


 アシュタロトは、渋い顔をしながらも、「成程」と頷き返した。理解は及ばないものの、納得はゆく説明であった。


「では、私の方からももう一つ……」

「何だ?」

「あなたと彼女の関係は、何でしょうか?」


 ケデズから突き刺せそうなほど鋭い声と視線を受け、アシュタロトは「ああ」と口の中で呟く。今夜、突然呼び出したのは、この事を聞きたかったのだと気が付いた。

 返答によっては、この屋敷から追い出されてしまう。それを自覚した上で、疚しい気持ちは何一つないので、アシュタロトは正直に答える。


「ユウティアは友人だ」

「ああ、そうでしたか」


 大袈裟なほど安堵したケデズは、改めてユウティアの方を見た。夢を見ているのだろう、閉じた瞼が、ぴくりぴくりと動く。


「私は、彼女と友人にだけは、なりたくないですね」

「そうであろうな」


 ユウティアの言っていた、ケデズな水中の彼女しか興味が無いという発言は、的を射ていたのだと思いながら、アシュタロトはテーブルの皿の上に乗った黄色くて四角い一口ほどの大きさの塊を、フォークで刺した。


「この料理は何だ? 臭みがあるのに、旨く、ワインの味も引き立たせる」

「それはチーズですね」

「焼いたり煮込んだりしているわけではなさそうだが、なまの何かしらなのか?」

「牛乳を、発酵……わざと腐らせることによって、完成する料理です」

「食べられるものを腐らせるのか。人間のやることは、よく分からん」


 そう言って首を傾げながら咀嚼していたアシュタロトだが、チーズの味自体は気に入っていたので、すぐに新しいものを口にする。そうして、ケデズよりも早い調子でワインとチーズを接していくので、すぐに出来上がってしまった。


「大丈夫ですか? 目が座っていますが」

「……うむ。飲み過ぎてしまったようだ」


 杖を片手に立ち上がった彼だが、直立のつもりでも小さく揺れている。


「そろそろ寝るとしよう」

「はい。おやすみなさい」

「おやすみ」


 ふらふらとドアに向かうアシュタロトは、ノブを掴んだ表紙に頭をそのドアにぶつけてしまう。背後から心配そうな視線を一身に受けながらも、体勢を立て直し、何とか廊下へと出て行った。

 杖を突く足音が、隣の部屋まで辿り着いたのを聞くと、ケデズから肩の力が抜けた。途端に、激しい咳が連続して出てくる。


 一分ほど咳き込んだ彼は、抑えていた右手を見た。ランプの灯りに照らされて、赤い血が鈍く光っている。

 足元の杖を拾い、がくがくと震える左足とそれで体を支えながら、真っ直ぐに水槽の硝子に向かってケデズは進んだ。一枚の硝子を挟んで、水中の彼女だけを見詰めていた。


「嗚呼……」


 嘆きの声が漏れると同時に、右手から杖を手放す。大きな音を立てて杖は倒れたが、彼女が守れている水中の世界には、罅一つ入らない。

 彼女は動かなかった。揺れているのは、来ているドレスの裾と袖だけ。そんな彼女の上半身を掴むかのように、ケデズは血の付いた右手を、硝子の上に重ねる。


 ケデズは、初めてを呼んだ。


「君は、ずっと変わらず美しいままなんだね……」


 泣きそうなその声も、彼女には届かなかった。




































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