一日目


 水槽の底付近を、彼女は揺蕩たゆたっていた。背もたれを大きく倒した椅子に、身を任せたような恰好から、少し顔を上げる。

 水槽の外の、棚の上の置時計を確認した。現在の時刻は午前の十一時だ。


 外の様子も見えて良かったと、彼女は思う。もしも、不明瞭の視界の中で、この水槽から出られないという状況ならば、退屈極まれない状況だっただろう。

 部屋の中には、彼女以外に誰もいない。巨大な白い蛇の悪魔は、契約が達成されているのを見届けると、もう一枚の契約書を持って早々と召喚陣から帰ってしまい、主人はあの後も一晩中ぼんやりと彼女の姿を眺めていたが、早朝に部屋に入ってきた執事たちに引っ張られて外へ出された。


 その時、初めて人魚に変わった彼女を見た執事たちは、愕然としていた。事前に話は聞いていたはずだが、主人も彼女も、計画を達成してしまうとは、思ってもいなかったのだろう。悍ましいものを見ないように、その後は彼女を意識の外に追いやろうとしているのは、明らかだった。

 彼女の方は、彼らのその反応に対しても、特に傷つくことはなかった。むしろ、憐れむような視線を向けて、微笑む余裕すらあった。そうして、怪物となったことの万能感に浸っていた。


 不意に、部屋のドアが開いた。彼女は、早めの昼食かと右のドアを見て、目を丸くする。

 入ってきたのは、主人でも従者でもない、見知らぬ男だった。背が高く、短い黒髪で、小綺麗な黒い礼服を着て青のリボンタイを結んだ彼は、右手の杖をつきながら歩き、彼女と真正面から向き合う位置で止まった。


 直視した彼の顔立ちに、彼女は息を呑んだ。その男が、今まで出会ったどの男よりも、精悍な顔立ちをしていたからでだった。

 だが、それ以上に感情を全て削ぎ落とした無の表情にぞっとさせられた。執事たちが向けた嫌悪とも、主人の向けた情欲とも異なる眼差しで、顎に左手を当て、じっと彼女を見つめる。


 彼の真っ赤な瞳の色に、彼女は見覚えがあった。まさかを考えて、瞬きが多くなった彼女は、知らず彼から距離を取るように後ろへ下がる。

 対して、彼は、そんなことには頓着せず、上方を指差した。そのまま歩き出し、迷わず水槽に上がるための階段を目指す。


 逃げ場のない彼女は、観念して水面から顔を出す。少しして、しゃがみこんだその男が、無表情な顔をぬっと出した。


「身体の調子はどうだ?」


 赤い瞳の男の第一声はそれだった。やはり聞き覚えのある声に、彼女は小さく頷く。


「とっても良いわ」


 言葉尻は気丈に振る舞ったが、返事は本音だった。彼女は、この体が生まれつき人魚のままであったかのように、違和感なく動かしている。

 それを訊いた男は、ただ黙って頷く。相手が自分の事を話さないようなので、痺れを切らした彼女の方が、問い直した。


「あなたは、昨晩の悪魔なの?」

「ああ。名はアシュタロトだ」


 悪魔は、自身の名乗りと共に、身を乗り出して右手を差し出した。

 彼女は、この日で一番驚いた。握手を求められたのは初めてだったから。


「私は、ユウティアよ」


 偽りのない微笑みと共に、彼女――ユウティアは、悪魔の右手を握った。握手を、対等な相手と交わすものだと考えているユウティアは、この一瞬でアシュタロトのことを信じると決めた。

 握手を交わしたことでびっしょりと濡れてしまった右手を、アシュタロトがハンカチ等で拭かなかったことに安堵しつつ、彼女は気になる事を改めて尋ねてみる。


「でも、あの後に召喚陣の中へ帰ったんじゃないの? なんで、戻って来たのよ、それも人間になって」

「人間になったわけではない。人間に化けている、と表した方が正しい」

「あら、語弊があったのね、ごめんなさい」


 アシュタロトが真っ先に、返答よりもユウティアの誤解を正した。よほど言われたくないことだったのだろう、抑揚のない言葉ながらも、語気は強かった。思わず、ユウティアが謝罪してしまうほど。

 口元を覆ったユウティアを見て、少々申し訳なくなったのか、アシュタロトは肩の力を抜いて、言い直す。


「……まあ、そう思われるのも仕方ない。昨晩とは、全く異なる姿だからな」

「そうよね。その瞳と声以外は、全然違うんだもの。他に、変わっていない所はあるのかしら?」

「ああ。背面の模様は残っている」


 アシュタロトは、ユウティアに背中を見せようと、腰を捻った。彼の言う通り、頭部からうなじを通って、シャツの中へと入っていくような形で、真っ黒な一本線が走っているのを、ユウティアは認めた。しかし、そこだけで納得できなかった。


「そのシャツの下は、もっと派手なのね?」

「私は別に構わないが、雌の、失敬、女性の前で半裸になるのは、礼儀に反するのだと言われているからな」

「えー」


 不服そうに口を尖らせるユウティアを見て、アシュタロトは腕を組みながら考える。そして、「まあ、足裏ならば」と、水槽側に腰掛け、左足の靴と靴下を脱ぎ始めた。


「ほら」

「あ、ほんとだ。線が入っている」


 アシュタロトの左足の右側面に沿うように、黒い線の続きが刻まれていた。一番先は、親指の末端で、細く鋭い角の形になっている。これが蛇の姿だったら、鱗側の尻尾の末端なんだろなと、ユウティアは想像する。

 試しに、彼の左足を掴んで、その黒い模様に爪を立ててみた。何度擦って見ても、落ちる様子もなく、刺青のようだった。すると、アシュタロトは声を発せずとも細かに震えだし、ユウティアはその理由を察してすぐに手を離した。


「ごめん。くすぐったかったでしょ」

「成程。足裏を擦られると、くすぐったいのか」


 人間にとっては当たり前のことを、深く頷きながら口にして、アシュタロトは膝を曲げた。自身の目の前に戻した左足に、靴下を嵌め直そうとしたが、「濡れたまま履いたら気持ち悪いわよ」というユウティアの助言に従い、シャツの外ポケットから取り出したハンカチで拭き始めた。


「ともあれ、私が人間に化けた理由だが、しばらくはここに滞在したいと思ったからだ。本来の姿のままでは、多大な支障が出てしまうからな。ケデズからの滞在の許可は、昨晩の内に得ている」


 この家の主人の名を出して、アシュタロトは飄々と話す。確かに、ユウティアは主人・ケデズと彼がいくつか話を交わしていたのを見ていた。その時にはすでに人魚になって水槽内にいたため、その言葉までは分からなかったが、そのような口約束を交わしていたのだろう。

 ただ、それ以上に彼女の興味を引いたのは、アシュタロトが戻ってきた理由だった。


「滞在したい? どうして?」

「今回結んだのが、世にも珍しい契約だったため、今後の推移が気になったこと、それから……」


 靴まで履き直したアシュタロトは、視線を手元から遠くへと投げた。

 何があるのだろうと振り返ったユウティアは、ただの閉まったドアを認めて、余計に疑問を抱く。


「……誰もいないからこそ、正直に答えてほしいのだが、」

「う、うん、何?」

「お前は、人魚に変じたことを、本当に後悔していないのか?」


 声を潜めたアシュタロトから、意外なことを尋ねられて、ユウティアはぽかんと口を開いた。まさか、主人と契約を結んだ悪魔自身が、まだこのことを気にしているとは、思いもしなかった。


「実を言えば、契約は、悪魔の方からも破棄できる。そうすれば、お前はまた人間の姿に戻れるわけだ」

「そうなんだ」


 証拠を差し出すように、アシュタロトは礼服の上着ポケットから、畳んだ羊皮紙を取り出した。それを広げて、ユウティアの方へ文面を見せても、文字の読み書きの出来ない彼女には、何と書かれているのかが分からない。

 ここまで、気を遣ってもらえるなんて。人間だった頃でもされたことのない扱いに、ユウティアはむしろ他人事のような温度で返答してしまった。


「ありがとう。そのお気持ちだけ、いただいておくわ」

「……良いのか? まさか、裏があるのか? 人魚になれば褒美がもらえるか、誰かを人質にとられている等のような」

「いいえ。そんなことは全然ないのよ」


 ユウティアがにこやかに返して見せても、アシュタロトは納得出来ていない様子だ。その、精悍な無表情の顔の眉間に、初めて皺が刻まれた。


「信じられないかもしれないけれどね、ご主人様が侍女の内で誰かを、水中でも暮らせる姿に変えたいと言い出した時に、私は自ら進んで名乗り出たのよ。周りからは、正気を疑われたけれどね」

「……現状に、満足しているのなら、これ以上は言わない。しかし、気が変わったのならば、私に申し出てほしい」


 あの瞬間の、他の侍女たちの驚きの表情を思い返し、ユウティアはくすくすと笑いながら話した。

 アシュタロトは、そこまで聞いて、やっと彼女の言葉を信じてくれた。しかし、まだ気を揉んでいるのを、ユウティアは素直に嬉しかった。


 そこへ、部屋の外から足音が聞こえてきた。人の足音にしては、片方が硬くて軽やかだ。その足音の主は、この部屋の前で立ち止まり、ドアを開けた。

 その音を聞いて、ユウティアはすぐに水槽の中へ潜った。アシュタロトはそれを一瞥したが、室内に入ってくる人物の方へ目を向ける。


 それは、この家の主人――ケデズだった。失った右足の代わりに、右手に杖を持っている。新しい歩き方に慣れていないため、額には脂汗が浮かんでいた。

 ケデズは、水槽の、自分のすぐそばでこちらを眺めているユウティアのことを見ようとしたが、万力で引っ張られるように、アシュタロトの方に顔を向けた。


「お待たせしました。滞在用の部屋の用意が出来ました」

「うむ。世話になる」


 アシュタロトが立ち上がり、階段まで降りていく短い間も、ケデズはずっとユウティアを眺めていた。腹這いの姿勢で揺蕩たゆたうユウティアへ、愛娘に向けるような眼差しを注ぐ。

 降りてきたアシュタロトを連れて、この部屋を出ようとするケネズだが、文字通り後ろ髪を引かれるように、ユウティアの方を見つめている。ドアが閉まる直前、ユウティアはそんな彼に片手を振ってあげた。






   ☆






 ケデズがアシュタロトに用意したのは、ユウティアの水槽がある部屋の隣だった。

 元々は物置として使っていたため、まだ物が残っており、ベッドとテーブル以外は、使えそうなものは無い圧迫感のある部屋であったが、アシュタロトは無頓着そうに周囲を見回している。


「お持ちいただいた鞄はこちらです」

「ああ、すまない」


 アシュタロトは、ケデズが指し示した鞄を一瞥すると、本棚の方に目を向けた。何が入っているのかを、じっと眺めている。

 だが、激しい咳の音に、彼は驚いて振り返った。ケネズが、体を大きく曲げて、非常に苦しそうな咳を、長いこと繰り返している。


「大丈夫か?」

「いえ、気にしないでください。少し、埃っぽいので」

「そうか。窓を開けよう」

「申し訳ありません」


 出入り口の扉と向かい合うように設置された、小さな窓に向かうアシュタロトを、ケデズは恐縮した様子で見守る。

 大きく外側に開いた窓から、穏やかな日光と涼やかな風が入ってくる。昨晩の激しかった天気とは真逆だなと、アシュタロトは目を細めながら思った。


「……アシュタロト様は、いつまで滞在なさるつもりですか?」

「特に決めていない。気が済むまで、と答えておこう」

「承知いたしました。十二時には、食事をお持ち致しましょう」

「そうだな。ユウティアにも昼食を渡すのか」

「もちろんですよ」


 空気が入れ替わり、幾分か呼吸が楽になったケネズは、軽やかにアシュタロトと言葉を交わす。

 では、と一礼して下がろうとするケデズを、アシュタロトは「どこへ行くのか」と尋ねた。


「当然、彼女のところですよ」


 そこ以外に行く場所がないでしょうと言いたげに、ケデズは満面の笑みで答えた。






























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