二日目


「別に見られてもいいのに」

「そういう訳にはいかない」


 階段の上で、アシュタロトは水面に背を向けたまま立っていた。水槽では、ユウティアが着替えを始めていた。

 朝一番に着替えるのが、人魚になってからのユウティアの日課になっていた。だが、今日は何故か「ドアの外にあった」と言って、ドレスをアシュタロトが持ってきてくれた。そのまま、ユウティアの着替えに居合わせることになったアシュタロトだが、頑なに彼女の方を見ないようにしていた。


「男に裸を見られるのには、もう慣れているのに」

「そう言われてもな」

「礼儀に反するから?」


 ユウティアは、十分に水を吸った黄色のドレスを階段の上に、べしゃりと置いて、コルセットの背中の紐をほどき始める。


「それもあるが、お前の本心では、裸を見られたくはないのではないのか?」

「あら、なんでそう思うの?」

「人魚に変化する際、何も履いていない下半身が見えないようにと、咄嗟にドレスを押さえていたではないか」


 脱いだコルセットを放り投げてしまうユウティア。自分の頭上を通過して、階段の向こうに落ちていくコルセットを、アシュタロトは目を丸くして見ていたが、それでも振り返らない。


「……あなた、最高の詐欺師になれるわよ」

「どうも。詐欺師が何かは、知らないが」


 図星を突かれて皮肉を返したものの、相手には一切伝わらず、ユウティアは嘆息した。ただ、怒りは芽生えず、むしろ力のない笑いが出てくる。

 人間相手じゃないんだから、意地を張ってもしょうがないのね、そんなことを悟って、彼女は新しいドレスを着る。これで終わりではなく、膨らんだ裾を押しながら、ぶくぶくと泡を出していく。


「何の音だ?」

「服の空気を抜いていくの。このままだとうまく沈めないから。もう、ドレスは着ているし、見ても良いわよ」


 呼びかけられたアシュタロトは、やっと水槽の方を振り返った。ユウティアのドレスの裾が、小さな泡を出しながら沈んでいく姿に見入っている。


「ほう。面白い現象だな」

「あたしが子供の頃、本当にたまにだけどね、お風呂に入れたら、湯船でタオルを使ってこんな風に遊んでいたのよ」


 幼い日々を思い出したユウティアは、懐かしく思い返す。きっかけは、無邪気なアシュタロトの反応によるものだった。

 着替えが終わると、アシュタロトは自分の服が濡れるのも気にせず、黄色のドレスを回収して、ドアの外へ持っていった。そこにある籠の中に片付けるという。


 とんぼ返りしたアシュタロトは、ワゴンを押していた。上には、二人分の朝食が乗せられている。


「食事の用意も出来ていたぞ」

「あら、ありがと」


 階段の上に登ったユウティアは、縁に座って、二つのトレイを片手ずつに盛って上ってくるアシュタロトを待った。昨日までは少し危なっかしかったが、今日は難なく運んでいる。


「ここの従者は、出来るだけこの部屋に入らないようにしているようだな」

「仕方ないわよ。あたしのことを気味悪がっているんだから」


 平然と返したユウティアは、ぽたぽたと赤茶色の長い髪から水を滴らせながら、白パンのサンドイッチを手に取る。新鮮なレタスやトマトの匂いが鼻をうった。

 隣に腰掛けたアシュタロトは、茹で卵の頭部を銀の匙でこつこつと叩いている。真剣な顔で、細かな罅が入っていくのを睨んでいた。


「……私は、最初に卵を茹でた人間に、何故そんなことをしたのかと訊いてみたい」

「嫌いなの? 茹で卵」

「いや、好きだ。生とは異なる味わいがあるからな。そいつを褒め称えてやりたい」

「そう言えば、貴方は元々蛇だったわね」


 殻ごと生卵を丸呑みする、白い蛇のアシュタロトを想像して、ユウティアは微笑む。しかし、そんな愉快な気持ちになっても、中々サンドイッチを食べようとは思えなかった。


「どうした? 食欲がないのか?」

「うーん。そんな訳じゃないけれど……なんか、野菜の青臭さが嫌になって」


 ユウティアは、悲しそうに溜息を吐いた。


「侍女だった頃とは比べ物にならないくらいに、良いものを、それも一日三色貰えるから嬉しかったけれど、正直、昨日から無理しているのよ」

「味覚も食の好みも、人間だった頃から変化したようだな。自責する必要はない。致し方ないことだ」


 殻が向かれ、つるりとした白身に匙を入れ込むアシュタロトは、それを口に入れる。変わらぬ無表情が、僅かに緩んだ。


「私も、人間の姿の時は、野菜も食えるし、もっと繊細な味も分かるようになった。ユウティアの変化はどうだ?」

「あたしは……油を使った料理が嫌になったかな。なんか、胃もたれするから。あと、味の濃いソースは、舌がピリピリしちゃう」

「ふむ。では、食べたいものは?」

「うーん。下味も付けていない、魚とか、海藻とか、貝とかかなぁ。あ、パンは食べられるよ」


 無理矢理食べるのは止めようと決めたユウティアは、サンドイッチの具を抜き取って、白いパンを齧った。自然な甘みが、とてもおいしい。でも、こんな贅沢な食べ方、昔の自分が見たら、卒倒するなと思った。

 ユウティアが皿の上に置いた野菜を指差して、アシュタロトは「いただいても?」と尋ねた。満面の笑みで「どうぞ」と答えると、彼は間髪入れずにフォークをそれらに突き刺す。意外とくいしん坊なんだなぁと、ユウティアはその様子を見て苦笑する。


「ねえ、ご主人様に、次から私の食事は、魚とか貝を中心にしてって、伝えてくれる?」

「それは構わないが、自分で伝えようとはしないのか?」


 もっともな疑問に、ユウティアは頷き返しながら、パンを一かけら、口に入れる。こんなに柔らかいパンは、貴族しか食べられない。それだけで、ケデズからの愛の深さが測れてしまう。


「いいのよ。ご主人様は、私と話すことなんて、望んでいないから」


 水槽の中から、こちらを見つめる人魚。ケネズがユウティアにも留める理想は、その一点のみだと、彼女は理解している。

 だが、アシュタロトは、真横のユウティアに目線を合わせて、その横顔をじっと見つめ続ける。そこから、彼女の本心が滲み出ていないかと。


「自分を押さえるのは、辛くないのか?」

「全然。周りに合わせた演技をするのは得意よ。今までだって、従順で物静かな侍女に見えるように、動いてきたんだから。神秘的な人魚なんて、簡単なくらい」

「成程。では、私の前でも、何か演じているのか」


 アシュタロトの当然の帰結に、ユウティアははっと顔を上げた。今度は、彼女からアシュタロトの顔を、穴が空くほど凝視する。


「そう言われれば、貴方の前では素のあたしでいられるわね」

「そうなのか。しかし、何故?」

「さあ。貴方の正体を最初から知っているから、今更媚びる必要なんてないからかもね」


 疑念が融解して、くすくす笑い出すユウティアに対して、アシュタロトは複雑そうな顔で、首を捻る。


「まあ、ユウティアが自然体で過ごせるのならば、それで良いと思おうか」


 そのまま二人で食事を続け、残りが半分ほどになった頃だった。アシュタロトが、不意に口を開く。


「悪魔との契約の例は、多岐に渡る。同胞が結んだものも挙げると、魔法が使えるようになる、病気や怪我の回復、亡くなった恋人の蘇生、仇敵の殺害、金持ちになる、不老不死――は、代償が払えずに叶わなかったらしいが、ともかく、どれも、何故こうしたいのか、こうなりたいのか、分かりやすいものだった」

「まあ、私もその気持ちは何となく想像できるわ」

「対して、ケネズの願いは、あまりに特殊だ。憎い相手を苦しめるための変化ならともかく、自分の為に、それも妻でもない者を変えようなどという話は、初めて聞いた」


 ぬるくなり始めた紅茶を、ティースプーンで混ぜ直していたアシュタロトは、その手を止めて、ユウティアの顔を見詰めた。


「ユウティアは、彼がここまで水中の女に執着する理由は知っているのか?」

「……正直、ちゃんとした理由は分からない。でも、予兆みたいなのはあったわ」


 「成程」と小声で呟いたアシュタロトから目を逸らして、ユウティアは目線を下に向ける。魚と同じ下半身を動かすと、尾びれが水面を撫ぜて、散った飛沫が微かに入る朝日を浴びて、一瞬だけ煌めいた。


「私がここに雇われたのが三年くらい前、家督を譲って隠居したご主人様が、新しく買い取ったこの森の中の屋敷に移り住んだ時なのよ。それから今まで、ご主人様の家族やお友達が、ここを訪ねたことは一度も無かったのね」

「妻子は健在なのか?」

「うん。奥様と成人した息子、今はそのお方が家長なんだけどね、この二人は、都に暮らしているらしいの」

「仲違いをしたのか?」

「ううん。ご主人様が結婚した当初から仕えている侍女長の話だと、特に喧嘩をした訳でもないのに、ずっとギクシャクしているとか。親同士が決めた結婚だったとしても、限度があるんじゃないかとか何とか」


 ユウティアは、話しながら右指に髪の毛を絡めたり解いたりを繰り返していた。気まずい話題の時の、彼女の癖だった。


「従者達の間でも、ご主人様一家は、どうしてこんなに仲が悪いんだろうって、よく話題になっていたのよ。その中には、口に出すのも憚れるものがあるくらいに」

「では、ケデズが妻を愛せなかったのは、実は、水中の女性の方に心が向いていたから、だと」

「そうねえ」


 得心が行ったアシュタロトは、残った紅茶を飲み干した。これで朝食を終えた彼は、空になった二人分の食器を重ね始める。


「お前は、ケデズの嗜好を知っても、拒絶しないのだな」

「雇ってくれているんだから、どんな人でもあまり気にしないね。流石に、警察に捕まるのは止めてほしいけれど。私がクビになっちゃうから」


 自分の奇妙さを意識して、苦笑するユウティアだったが、真横のアシュタロトは真面目な顔で頷いていた。


「誰かを人魚に変えてしまうのは、罪に問われるのか」

「それ以前に、悪魔と契約した時点で、異端審問にかけられるわ」

「そうか。当然ではあるが」


 流石に怒るかと思ったが、アシュタロトは平気な顔をしている。自身が悪魔であることを、良いか悪いかではなく、普通のこととして考えているようだった。

 私と彼は、そこが似ているのかもしれないと、ユウティアは初めて自覚する。それが、彼の前で自然体に振る舞える理由なのかもしれないとも。


 二つずつを重ねた食器とトレイを持って、アシュタロトは階段を下りて行った。階段の縁から水槽へと戻ったユウティアは、彼が食器をワゴンに載せて押していく様子を、水面から顔を出して眺めていた。


「ごめんね、手間取らせちゃって」

「構わない。私もここで世話になっているからな」


 ガラガラと車輪を回すワゴンは、ドアの前で一度止まった。アシュタロトがノブに手を伸ばしたが、それよりも先に、扉が勢いよく開け放たれた。

 驚いて目を丸くしたアシュタロトは、ドアの向こう側に、ケデズの姿があるのを認めた。寝巻のまま、朝の身支度もままならない、乱れた髪をしている分、血走った目が気にかかる。


「……おはよう」


 アシュタロトからの挨拶も無視して、杖をつきながら室内に入ってくるケデズ。ぎょろぎょろと辺りを見回して、片隅にある一脚の椅子を認めると、逸る気持ちで駆け寄った。

 ケデズは、その場に杖を放り出して、手押し車の代わりに椅子を押しながら、それを水槽の前に運ぶ。竜巻のように、水槽の中を大きく回遊しているユウティアと向き合えるように。


 ふと、アシュタロトがまだこの場に留まって、こちらを眺めていることに気が付くと、静かな怒りに顔を歪ませながら、彼は死刑宣告のように冷たく告げた。


「ここから、出て行ってもらえませんか」


 気圧されたアシュタロトは、口を一文字に結んだまま、ただ頷く。尋常ならざるケデズから背を向けると、がさがさと、衣擦れの音が背中越しに聞こえた。

 ――閉まり切る直前のドアを振り返ると、止まると死ぬかのように泳ぎ続けるユウティアとアシュタロトは目が合った。心配しないで、そういう代わりに、彼女は少しだけ、目を細めた直後、ドアが閉じた。







































 

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