嗚呼、水中の君よ
夢月七海
零日目
――窓の外は、風がとても強いのだろう。音は聞こえずとも、夜闇の中、木々の梢が大きくしなっているのが、影の形として見て取れる。
そんなことを考えてしまう彼女は、現実逃避を辞め、改めて目の前に鎮座する、悪夢のような光景を直視した。そこにいるのは、この屋敷の一室の天井に届くほどの、巨体で
「さて……」
こちらを見下ろす蛇が、口を開いて、はっきりと人の言葉を話す。地を這うような低い声を発した後に、閉じた口からはチロリと、先の割れた舌が出入りした。
鎌首をもたげる蛇の白い頭には、まるで巨木が点に向かって枝を伸ばしているかのような、黒い模様が刻まれていた。その血のように真っ赤な瞳は、ただ一人だけをしかと捉える。
「私を
蛇を見上げていた彼女は、自分の斜め前に立つ、初老の男へ目を向ける。さえない灰色ながらも、高価な布で仕立てられた礼服を着た彼は、背中からでも、その緊張がはっきりと伝わっていた。
「その通りでございます。私が、悪魔様をお喚び出し致しました」
硬くなったこの男の一言に、彼女は酷く驚いた。この屋敷の主人であり、貴族の家長である彼が、他人に対して謙った言動をとるのを見たのは初めてだった。
きっと、失敗なんて出来ないからだろうと、彼女は想像する。どこからか手に入れた魔術書というものを信じて、この空き部屋の床に魔法陣を描き、呪文を唱えて悪魔を召喚するところまで成功したのだから、この瞬間、悪魔の機嫌を損ねるわけにはいかないのだと。
悪魔は、主人の返答に対し、ただ頷く。蛇の顔からは、どんな表情も読み取れない。
「お前の願いは何だ。相応しい代償を払えば、それを叶えてみせよう」
問われた主人は、無言で自分の背後を右手で示す。待ち構えていた彼女は、胸を張って、奥の暗がりから一歩、足を踏み出した。
今の彼女は、豪華絢爛な深紅のドレスに身を包んでいた。痩せすぎた体には不釣り合いでも、宝石を散りばめた首飾りや指輪も付けている。豊かに波打つ腰までの長さの赤茶色の髪を揺らし、重たいドレスの端を摘まんで、彼女はいつか見た令嬢のお辞儀を真似てみる。
「彼女を、水中でも暮らせる姿にしてください」
「……うむ」
主人の願いに、悪魔は初めて困惑の声色を見せる。彼女を睨むように、目を細め、何度も舌を出し入れしていた。
「その女を、魚か
「いえ。人間の姿を変えずに、水の中で呼吸し、泳ぎ回れるようにしてほしいのです」
「むむ……」
難題を突き付けられて、悪魔はさらに唸る。主人の願いが受け入れてもらえないかもしれないという危惧を抱いて、彼女も頭を下げて懇願する。
黙り込んだ悪魔が、不意に視線を左へ向けた。そこには、壁に接した巨大水槽が置かれてある。水以外は何も入っていないその水槽の、真横についた階段も見詰めた。
「この水槽内で生きるようにしたいのか」
「ええ。……可能でしょうか?」
「そうだな。この辺りにはいないが、人魚という生き物が存在する」
悪魔が、目線だけを主人と彼女に向けた。何か、挑むような口調に、問われているのは自分でなくとも、彼女は息が詰まる思いがする。
「上半身が人間で、下半身が魚という見た目をしている。人間の姿そのままという訳ではないが、」
「服は、服を着たままなのですか?」
相手の言い切るよりも先に主人が前のめりで話しかけてくるので、悪魔はたじろぎながらも、確かに頷く。
「そのようなドレスならば、問題ないだろう」
「分かりました。その人魚に変えてください」
多少の落ち着きを取り戻した主人が、安堵した様子で受領する。そんな主人の姿だけを、悪魔はしげしげと眺めた。
「では、その願いの代償だが……」
悪魔は一瞬黙り込んだ。ほんの数秒でも、彼女にとっては、このまま夜が明けてしまいそうなほどの長く息苦しい時間だった。
「……両手両足から、それぞれ二本。それでも構わないか?」
「問題ありません。元より、命以外ならば何でも差し出すつもりでしたので」
主人はきっぱりと言い切った。悪魔を呼び出すと決めた瞬間から覚悟を決めていたのだろう、全く躊躇はしなかったことに、彼女は心強さを覚える。
「捧げる二本は、そちらで決めても良い」
「それでは……左腕と右足でお願い致します」
「ふむ。聞き入れた」
悪魔の指示で、主人は用意していた羊皮紙に契約内容を書き示す。願いは、一人の女を人魚に変えることで、その代償は、主人の左腕と右足。同じ内容を二枚目にも記した。
「これにお前の名を刻めば、契約は成り立つのだが、」
じっと契約書を見ていた悪魔は、唐突に言葉を途切れさせると、彼女の方に目を向けた。その真っ赤な瞳に対して、恐ろしさを抱かないほど慣れてきた彼女に対して、一つ尋ねる。
「そちらは、人魚になっても、本当に良いのだな?」
余計なことをと言いたげに、主人の顔が忌々しそうに歪んだ。ただ、真正面から反論したりはしない。
まさか、こちらの方に許可を取ろうとするとは思いもよらなかった彼女は、蛇の問い掛けに素直に驚いていた。しかし、何を問い質されようとも、彼女の答えは一つだけだ。
「ええ。お願いします」
悪魔は、無表情のままで頷いた。そして、尻尾の先で水槽に上がれる階段を指差す。
「ならば、そのまま行くがよい。水に入れば、変化が始まる」
彼女はもう一度貴族の礼をして、階段へと向かう。背後で、主人が契約書に自身の名を書いている音が聞こえたが、もう振り返らない。
階段を一段一段登る度に、彼女は自分の胸が高鳴っていくのを感じていた。これから、自分は変わる。暗い水面を見下ろして、そう思っていたが、ふとあることを思い出し、靴とタイツと下着を脱いでから、そっと階段の端に置いた。
……一方向から熱視線を感じながら、目を閉じた彼女は足から水槽へと飛び込む。肌を刺す冷たさに、思わず口を開けると、がばっとそこから泡が昇っていく。
少しずつ沈んでいく彼女は、水底へと向けたつま先や、長く揺らめく髪や、身に着けたドレスから発生した泡に殆ど覆われる。ドレスの裾が翻りそうになるので、彼女はとっさに前方を抑えていた。
その、殆ど日に当たっていない、真白な足に変化が現れる。右と左が密着し、その境目が完全に癒着する。足の中身も変わってゆき、水を大量に吸ったかのように、ぐんと重みが増した。
一つになった足の皮膚からは、爪が生えていくように、腰下から足首まで、鱗が生え始めた。その浅い海のような明るい青色の鱗は、瞬く間に足を包み込んでいった。この過程では、彼女は痛みよりも痒みを強く感じ取っていた。
鱗によって強固になっていく足とは真逆に、外側に開いた形で踵同士がくっついてしまった足首から先は、手で摘まめるほど薄く、柔らかく、その密度の分大きくなっていく。向こう側が見えるほど透けた足首から先は、彼女の尾鰭となった。
尚も沈み続けれる彼女は、だんだんと息苦しくなっていたのが、急に呼吸できるようになった。
体中を蝕んでいたむず痒さが引き、彼女は自分の体が完全に人魚へ変化したことを意識した。そして、やっと目を開けた。
水の中であっても、怖さなどはなく、むしろ安堵感があった。試しに、ずっとドレスを抑えていた右手を、目の前に持ってくる。渦を巻く指紋も関節の皺も、地上と変わらない視界で観察でき、自分の体が完全に水中に適応したのだと意識した。
右側を見ると、水槽の外側に立つ悪魔と主人が見える。全く表情の変わらない悪魔とは対照的に、主人はぽかんと口を開けて、焦点の定まっていないようなぼんやりとした目で、彼女を眺めている。
初めて見る主人の間の抜けた表情に、彼女は心の底がくすぐられた。微笑を浮かべると、魚の下半身の一漕ぎで方向を変えると、すぐに水槽の硝子へと近寄る。
「ああ……」
そんな彼女の姿を眺めていた主人は、感嘆の息を吐いた。その息が散ると同時に、願いの代償として捧げた左腕と右足が霧散した。
体が大きく傾きつつも、前のめりになりながら、倒れ込む主人。しかし、その目線は水中の人魚から、一度も逸らさない。
一本ずつになった手足を動かして、ぎこちなく這ってでも、主人は水槽へと向かう。ようやく水槽に手を付けて、そこにいるのに触れられないというじれったさと共に、染めた頬で彼女を見上げる。
彼女は、そんな主人の姿を、水中で揺らめきながら、見下ろしていた。慈愛と優越心という相反した気持ちが現れた表情をもってして。
「何と……美しい……」
この声が水中まで届かなくとも、主人は彼女を褒め称えずにはいられなかった。
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