第1話

 梶山瑠実は、悪夢で目が覚めた。


 ――『あいつ』を殺す夢。


 過去を映し出すあの夢に、瑠実の目覚めは最悪だった。


 ――人間を刺した感覚、血の匂い、あいつが倒れる音。


 あの夢は、あのときの感覚がリアルに表現されている。まるで、あの日の罪を忘れるな、と言わんばかりに。


 瑠実はゆっくりと体を起こすと、ため息を吐いた。冷や汗が気持ち悪い。


 瑠実は激しく動いている心臓を深呼吸で落ち着かせると、時計を見た。時間は午前七時。今日は高校が休みの日なのに、大分早く目が覚めてしまった。二度寝しようとも考えたが、目はパッチリと覚めており、もう眠れそうにない。眠れたとしてもまたあの悪夢を見るかもしれないと思えば、寝る気も起きなかった。


 瑠実は大人しく起きることに決め、洗面所へと向かう。そこには珍しく早く起きている3つ年上の兄、大翔がいた。


「おはよう」


 瑠実がぶっきらぼうに言う。悪夢を見たこともあるが、元々低血圧である彼女は寝起きの機嫌が悪い。それを知っている大翔は、気にせず笑顔で返した。


「おはよう。早いね」


「そっちこそ」


「目覚ましの時間をかけ間違えたんだ。二度寝しようとも思ったんだけど、もう眠れそうにないから起きることにした」


 笑いながら言う大翔に、瑠実も小さく微笑む。


「ふぅん。そうなんだ」


 瑠実はそう言うと、洗面台を塞いでいる大翔を押しのけた。


「終わったんなら、早くどいて」


「ああ、ごめん」


 大樹は素直に洗面台を譲る。瑠実は空いたスペースに入り、顔を洗い始めた。


「理子は……あの夢でも見たの?」


 大翔が心配そうな顔を浮かべる。鋭い大翔に、瑠実はフェイスタオルで顔を拭きながら答えた。


「まあ、そんなところ。あいつ、夢の中まで出てくるなんて、図々しいよね」


 瑠実はタオルから顔を上げると、ため息を吐きながら笑う。大翔は「そうだね。なんか、僕達あいつに呪われてるみたいだ」と眉を下げ笑うと、そのままダイニングの方へと足を向けた。色々と言わない大翔の優しさが、心に染みる。


 ――お兄ちゃんは、あの罪を背負わなくていい。あれは自分一人の罪だから。


 瑠実はダイニングへと姿を消した兄にそう思いを寄せる。そして、自室で服を着替えると、朝食を食べるべく自分もダイニングへと向かった。



 朝食を食べ終え、二人は御伽探偵事務所へと向かった。二人が住んでいるのは御伽探偵事務所の隣にあるアパート――社寮だ。御伽探偵事務所の社員は全員そこに住んでおり、3LDKであるため家族や恋人と住んでいる人もいる。瑠実と大翔も一緒の部屋で暮らしていた。


 徒歩で向かうこと三分。二人は御伽探偵事務所のビルの前に着いた。御伽探偵事務所は二階建てビルの二階にある。一階は本屋で、社員がよく利用している。瑠実もここの本屋が好きで、頻回に訪れていた。ここの本屋の落ち着いた雰囲気が好きなのだ。


 二人は本屋の店主に挨拶をすると、階段を上って事務所内に入った。カフェのような雰囲気の事務所に、瑠実は今朝の悪夢の嫌悪感が薄れていくのを感じる。入って左手にはキッチンを囲むようなカウンター、右手には観葉植物、前の奥にはカフェの客席のようにおしゃれなソファーとテーブルがいくつかある。そこの奥のスペースが御伽探偵事務所のロビーだ。このような設計になったのも、元々カフェだったところを探偵事務所にしたかららしい。よく探偵事務所らしくないと言われるが、それでも実力は申し分ないため、依頼が来ないことはない。むしろ依頼しやすいと客からは好評だった。


「おはようございます」


 大翔が先にロビーへ入り、ソファーに座っている男性二人に声をかけた。一人は三十代くらいの男性でやや堀の深い顔立ちをしている。彼は御伽探偵所社長であり、コードネーム:アンデルセンこと、村岡(むらおか)良(りょう)助(すけ)。相変わらず鋭い眼光と余裕のある表情をしており、ダンディな雰囲気を醸し出していた。その向かいのソファーに座っている綺麗な顔をした青年は、コードネーム:ハーメルンこと、吹田(ふきた)律(りつ)。切れ長の瞳に筋の通った鼻は相変わらず整っており、目にかかる前髪が妖艶さを表している。


 ちなみにコードネームというのは仕事中に使う名前で、本名がばれると面倒なことになるため、あらかじめ社長である良助からつけられるものだ。瑠実は『グレーテル』、大翔は『ヘンゼル』。二人を見ても分かる通り、ここの社員全員のコードネームはメルヘン関連になっている。良助曰く、コードネームはそれぞれの過去に合ったものをつけているらしい。瑠実は、良助がメルヘンチックな話を好んでいるから、というのも理由のひとつなのではないかと思っている。


「おう、二人ともおはよう」


 良助の低く渋い声に、瑠実も「おはよ」と声をかける。それに続いて、律が「おはよう」と声をかけた。


「珍しく早いね」


 律が小さく首を傾げて瑠実に尋ねる。瑠実は曖昧に笑った。


「寝覚めが悪くて、そのまま起きちゃった」


「そう……。大丈夫?」


 心配そうに瑠実を見つめる律に、理子は心配を掛けまいと微笑んだ。


「大丈夫だよ。いつものことだし。もう慣れた」


 瑠実はそう元気よく言うと、大きく伸びをして律の隣に座った。大翔は自然と良助の隣に座る。大翔からも心配の視線を感じたが、瑠実は敢えて気づかないふりをした。


「それで、今日の依頼はないの? せっかくの休みだから、あたし働けるよ」


「そうやって嫌な記憶を忙しさで消すのはあんまりよくないと思うぞ」


 そう笑う良助。瑠実は斜め前に座る良助を軽く睨んだ。人の心境を呼んで口に出すのは、いささか失礼ではないだろうか。


 そんな二人の様子を見て笑う律は、「そうだ」と楽しそうに続ける。


「せっかく年の近いはく君が入ってきたんだし、大翔と白君の三人でどこか遊びにでも行っておいでよ」


 律の提案に、良助と大翔がそれぞれ賛成を示す。


 白というのは最近御伽探偵事務所に勤めることになった大学生の名前で、フルネームは桐ケ谷きりがやはくという。桐ケ谷グループという大企業の御曹司で、まるで『みにくいアヒルの子』のような人生を送ってきた。そのため、コードネームはアヒル。『どちらかというとハクチョウでしょう』と律のツッコミもあったが、分かりやすいと言う理由から『アヒル』になった。


 白は大翔と同じ大学の先輩で、瑠実とは6歳差だ。瑠実達と同様、大人達に振り回された子ども時代を送っているため、瑠実は親近感を抱いている。


 その一方で、瑠実にはない優しさを持っているため、少しだけ苦手意識があった。自分を傷つけた人を許せたり、どんなに嫌なことをされても『ここまで育ててもらった恩があるから』と思えたり、一般的には心が広いと言われる人物なのだとは思う。瑠実はそれさえ『甘さ』のように思えてしまい、心に薄い壁を作ってしまうのだった。


 そのこともあったが、元々仕事関連以外で出かける気分でなかった理子は小さく首を横に振る。今日だけは、何も考えずに外出を楽しめるとは思えなかった。


「お兄ちゃんと白で行ってきたらいいよ。あたしはお留守番してる」


「ええ、瑠実の観たがっていたファンタジー映画、観に行こうと思ったのに。理子と白先輩と三人で観に行きたかったな」


 大翔がわざとらしく残念がる。瑠実は兄のお願いに弱かった。残念がる兄を見ていると段々と申し訳ない気持ちになり、瑠実は小さくため息を吐く。


「分かったよ。行く」


「やった! ありがとう」


 嬉しそうな笑顔を見せる大翔に、瑠実の気分が少しだけ晴れた。その様子を律と良助は微笑みながら見ている。瑠実は年上三人にはめられたような気もしたが、好きな

映画が観られるということで何も言わないことにした。


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