探偵とヘンゼルとグレーテル

猫屋 寝子

プロローグ

 梶山かじやま瑠実るみは、目の前の惨状にただ呆然と立ち尽くしていた。彼女の手には赤く染まった包丁が握られており、視線の先では血まみれの男が倒れている。


「瑠実?」


 リビングにいた彼女の兄、大翔ひろとが異変に気付いたのか声をかけてくる。理子は我に返ると、大きな声を出した。


「来ないで!」


 そんな大翔を止める声も空しく、彼は理子のいるキッチンへと足を踏み入れてしまっていた。


「え? これって……瑠実が?」


 死体を目の前に、大翔が呆然と呟く。彼の顔は青ざめ、その声は震えていた。立っているのがやっとな様子で、瑠実はとんでもないことをしてしまったと改めて実感する。


 瑠実は大翔に頷いて返し、その場に座り込んだ。


「……殺しちゃった」


 大翔はその様子を見て、ゆっくりと瑠実に歩み寄る。そして向かい側に屈みこむと、そっと彼女を優しく抱きしめた。その腕は震えていたが、彼の温もりだけで瑠実は安心感を得てしまう。


「瑠実は悪くないよ。こいつは殺されても仕方のない奴だったんだから」


「でも――」


「瑠実が殺さなきゃ、僕らが殺されていた。だから、瑠実、ありがとうね」


 大翔の優しい声に、瑠実はそれまで我慢していた涙をこぼした。今はただ、大翔が傍にいてくれてよかったと思った。


 二人の間に沈黙が流れ、瑠実の鼻をすする音だけが響く。その沈黙を破ったのは、扉の閉まる音だった。


 大翔は瑠実を体から離すと、音のする方へ視線を向ける。瑠実は不安を覚えた。


 ――この部屋の鍵は閉まっていたはずだ。住人は瑠実、大翔、そして目の前でこと切れた男だけ。インターフォンを押さずに入ってくることなど、不可能なはずだった。


 大翔が瑠実に視線を戻す。


 ――タイミング悪く泥棒が入ってきた?

 ――こんなオンボロアパートに?


 瑠実と大翔はそう目で会話をすると、近づいてくる足音に顔を強張らせた。理子が包丁を握る手に力を入れる。それに気づいた大翔が、慌てて包丁を持つ彼女の手を握った。


「瑠実」


 制止する大翔に、瑠実は首を横に振った。


「あたし、お兄ちゃんには幸せになってもらいたいの。そのためにも、お兄ちゃんを殺人犯の兄にするわけにはいかない。だから、殺したのがばれないようにしないと」


 そう話す瑠実の声は震えており、大翔が瑠実の強がりを見抜くのは当然のことだった。


「だったら、僕がやる。それから、二人で逃げよう」


 大翔の言葉に、瑠実は再び首を横に振って弱々しく微笑む。


「罪を犯すのはあたしだけでいい」


 その時、キッチンの入り口から誰かの影が見えた。二人はそちらへ視線を向ける。そこには、一人の青年が立っていた。


 ――黒いズボンに深緑色のパーカー。フードをかぶっていて顔はよく見えないが、身長からいって自分達より大人であることは分かった。


「おっと……こんなところにいたのか」


 青年は二人の顔を目にすると、意外そうな反応をする。瑠実は青年を睨むと、大翔の手を振り払い、立ち上がって包丁を突き付けた。


「誰?」


 突然包丁を突き付けられたのにも関わらず、青年は全く動揺していない。彼は平然とした様子で返事をした。


「名乗るような者でもないけれど、しいて言うならば、僕は『ハーメルン』。仕事関係の人からはそう呼ばれているよ」


 そう笑顔で答える青年――ハーメルンに、瑠実は違和感を覚えた。包丁の刃先が自分に向いているにも関わらず、怖がる様子が見られないからだ。それはまるで、殺意を向けられるのに慣れているかのように。


 ハーメルンは二人の不安を感じ取ったのか、二人を安心させるように言葉を続けた。


「大丈夫。僕は井原いはら健造けんぞう――君達の叔父で、そこで亡くなっている人物を調べに来ただけだから」


「おじさんを?」


 小さく首を傾げる大翔に、ハーメルンはゆっくりと頷いた。


「そうだよ。ここの子ども達が虐待を受けているんじゃないかって、近所の人から相談があったんだ。あ、僕が勤めているのは御伽おとぎ探偵事務所っていうんだけど、警察とかがすぐに動いてくれない案件とかも引き受けていて――」


 どんどんと話を進めるハーメルン。瑠実と大樹は顔を見合わせ、困惑したように眉を下げた。


 ハーメルンはそんな二人に気づかないのか、あえて気づかないふりをしているのか、話を続ける。


「万が一のことがあったら困るから、大家さんに鍵を借りてこの部屋に入ったんだ。大家さんを言いくるめた内容は――まあ、秘密ということで。それにしても、驚いたよ。まさか、井原がもう死んでいるなんてね」


 ハーメルンはそう話に一区切りつけると、床に倒れている男を見下ろす。その目は冷たく、瑠実と大翔は背筋の凍る感覚がした。大翔はとっさに立ち上がると、瑠実を自分の背後に隠す。それに驚いた瑠実が、思わず持っていた包丁を落とした。幸いにも包丁は誰にも刺さることなく床に転がる。


 ハーメルンは包丁を拾いながら、瑠実に尋ねた。


「この男、君がやったの?」


 瑠実は恐怖で声を出すことができず、ただ小さく頷いて答える。


「……そっか。僕の到着が少し遅かったみたいだね」


 ハーメルンはそう言うと、悲しそうに微笑んだ。その笑みはどこか優しくて、先ほどまでの冷たい瞳が嘘のようだった。瑠実はその変わり様に戸惑いを隠せない。


「まあでも、調べた感じこの男は本当に最低だったみたいだし、後悔する必要はないよ。詐欺業界でもこの男は簡単に裏切るから要注意って言われていたくらい。死んで当然の人間だ」


 ため息を吐くハーメルン。彼の言葉を受けて、瑠実は少しだけ気が楽になった。人を殺した罪悪感というものは中々消えない。それでも自分が間違ったことをしていないという気持ちは絶えず心中にある。だからなのか、『後悔する必要はない』という言葉に、瑠実は救われる思いがしたのだ。


「さて」


 ハーメルンが空気を変えるように、手を叩く。


「ここの後始末は社長に任せて、僕達は帰ろうか」


 ハーメルンは明るい声色でそう続けると、ポケットから取り出したハンカチで包丁を包み込んで、自分のショルダーバッグにしまった。彼の言葉に、瑠実は困ったように眉を下げる。


「あたし達の家はここなんだけど……」


 ハーメルンが微笑んで、瑠実に返事をする。


「でもここにいたら、君は捕まってしまうよ。君とお兄さんは離れ離れになる」


「それはダメだ!」


 大翔が大きな声で口を挟んだ。その表情はどこか苦しそうで、瑠実まで胸が苦しくなる。大翔は深く息を吐くと、言葉を続けた。


「瑠実が捕まるのは絶対にダメだ。瑠実はんだから。捕まって法の裁きを受けるなんておかしい」


「お兄ちゃん……」


 瑠実が涙をにじませながら小さく呟く。


 ――自分は、人間ひととしてやってはいけないことをした。それを理解しているからこそ、大翔の優しさが痛く感じられた。


 ハーメルンは優しく微笑むと、瑠実と大翔の頭をなでる。


「そうだよね。だからさ、僕と一緒に御伽探偵事務所へ来ない? うちの社長は、二人を保護してうちに連れてきてもいいって言っているんだ。ここでのことも、上手くもみ消してくれる」


 二人はハーメルンの言葉に目を丸くする。


 ――この家から逃げられたら。


 それは二人の願いであった。その一方で、瑠実の中で青年の言葉を信じていいものか迷いが生じる。


 確かに、このまま家にいることはできない。逃げ出したところで生きていく術はないし、いつかは警察に捕まるだろう。それだったら、この青年のことを信じてみるのもひとつの手だ。


 しかし、二人にはハーメルンを信じ切れない明確な理由があった。二人は両親から貧しくて育てられないことを理由に、親戚中をたらいまわしにされていた過去があるのだ。


 ――やっぱり面倒を見切れないと、また他所へやられたら?


 過去の傷がぶり返し、瑠実は顔を俯かせた。その様子に気づいた大翔がそっと彼女の手を握る。


「瑠実がちゃんと大人になるまで、面倒を見ていただけるんですか?」


 瑠実の不安を取り除くように、大翔がハーメルンに尋ねた。ハーメルンは目を丸くするも、すぐににこりと微笑んだ。


「もちろん。途中で施設に預ける、なんてことは絶対にしない。うちは完全寮制だから住むところに困らないし、うちでアルバイトをしてくれたらお給料も出る。いいこと尽くしだと個人的には思うよ」


 まるで自分達の過去を知っているような言い方だったが、ひどく安心する返答だった。大翔は表情を和らげ、瑠実を振り返る。


「御伽探偵事務所へお世話になろうか。もしそこで何かあっても、僕が瑠実を守るから」


 瑠実は大翔の言葉に、何も言わずゆっくりと頷いた。


 ――不安は完全にはぬぐえないが、兄が決めたことならばそれについていこう。


 ハーメルンは嬉しそうに笑うと、二人をまとめて抱きしめる。突然の行動に、瑠実も大翔も困惑した。


「よく、頑張ったね」


 ハーメルンが耳元で言ったその言葉に、瑠実の目から涙がこぼれ落ちる。泣くつもりもなかったのに、何故か涙が止まらない。それは大翔も同じようで、大翔も瑠実と同じように泣いていた。瑠実は久しぶりに大翔の涙を見た気がした。


 大翔は、叔父に殴られても泣き言ひとつ言わなかった。それは自分が守る立場の人間だという意識からだったのだろう。瑠実は大翔に深い傷を追わせてしまったことを悔やんだ。そして、大翔の感情を出させてくれた目の前の青年を信じてみようと、思い始めたのだった。

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