六十四通目 怖気立つ

 撤退するか否かの話い合いは、思っていたよりも簡単に進んだ。

 どのリュマでも、そろそろ物資の補充が必要だと思っていた頃合いだったらしい。

 必要最低限のものは荷運びついでとぼくらに頼めばいいが、特殊なものや高価なものとなるとそうはいかない。自分たちだけ一度戻ろうかという話も出てきていた頃合いだったようだ。

 とはいえ、問題はある。

 セルセオが編成した隊であるから、彼に断りを入れずに撤収するわけにはいかない。

 ナビンの話では、彼らも行き詰まっている様子だというが、こちらからの提案に素直に頷くかどうか、難しいところだろうということだった。総指揮者としての体面があるからだとか。

 誰もが嫌がる役割をナクタは積極的に買って出たらしい。そういう物おじしないところは流石というほかない。

 ナクタが話し合いに出向いている間、他のリュマは採取をしたいということで出払うことになったようだ。ということは、セルセオがなんと言おうとナクタは引くの一点張りで通すつもりなのだろう。


 全員が出払うということになり、ぼくとナビンは前日から慌ただしく働いた。全てのリュマが何かしらを採取してくるということは、水回りに人やら物やらが押し寄せるということだ。

 長期滞在中は解体が必要になるものなどは最小限の捕獲に留めることになっていたが、今回は違う。沢山の湯を沸かしておかないと、たちまち不足することは間違いない。

 ナビンと手分けして水回りを広くし、作業場所も広げたほうがいいだろうと、荷物を小さくまとめた。

 当日には、朝から湯を沸かしながら、いつものように出かける冒険者に持たせる軽食を作った。

 ナクタたちが出かける挨拶をしてきたの応じ、見送ったところで一息を入れ、ぼくは自分の荷物を整理することにした。とはいえ、いつ声が掛かってもいいように荷物はまとめてあるので、装備の不備などを確認する作業のようなものだ。

「あれ?」

 担ぎやすいように荷物を詰め直そうと、一度全てのものを荷袋から出して、ぼくは違和感に気がついた。

 ナクタたちと探索に出た時に腰につけていた布に、何かが入っている。貰った魔導具を入れっぱなしにしていただろうかと思い、開けてみて息を飲んだ。

 入っていたのは、あの本だった。

 恐る恐る手に取り、薄茶色の表紙には明朝体で『主人たる者へ』と書かれているので間違いないだろう。

 何故、という言葉が脳内を占めた。

 確かにムスタに渡したし、それを奪い取ったりはしていない。どちらかといえば持っていたくないと思っていたものなのだから、無意識だとしても、奪還したりはしないだろう。もっとも、ムスタがわざわざ謝罪してきたのだから、そんなことをしているはずもない。

 ならば、何故、こんなところにあるのだろうか。

 考えようにも考えるための材料がない。結果、何故という言葉だけが頭の中でどんどん増えていく。

「どうした?」

 ぼくの挙動がおかしかったのだろう。ナビンが声をかけてきた。

「いや、ちょっと、ぼくのものじゃないものが入っていて驚いただけ」

「俺のか?」

「たぶん、ムスタのだと思う」

 チラと手元を覗いてきたが、なんだかわからなかったようで少し首を傾げただけで、興味は持たなかったようだ。

「シュゴパ・ムスタなら、テントにいるんじゃないか?」

「ナクタたちは奥のタシサに出かけただろ?」

「彼はいなかったじゃないか」

 言われてみれば、そうだ。挨拶に来たのはいつもの四人だった。

「返しに行くなら今のうちがいい。リュマが戻ってくると忙しくなるからな」

「ありがとう。行ってくる」

 本を布に包み直し、ナビンに礼を言うと、ぼくは小走りでムスタのいるテントに向かった。

「ムスタ、いますか?」

 控えめに声をかけると、すぐにムスタが顔を出した。眠そうな顔をしているが、起きてはいたらしい。

「どうした?」

「少し、話したいことがあります」

 先程の精神的な衝撃がまだ残っているのか、ぼくの脳は痺れたようにぼんやりしていて、何をどう話せばいいかわからずにいた。

 本を見せてしまえば話が早いのだが、ここで出すのは抵抗があった。全員出払っているはずだが、残っている人もいるかもしれない。

 ぼくの表情から何かを悟ったように、ムスタの眼差しが鋭くなる。

「狭いところだけど、どうぞ」

 許可を得たのをいいことに、飛び込むように中に入り、包みをムスタに押し付けた。

「これは?」

「本です」

 意味を掴み損ねたように小首を傾げたムスタだったが、ぼくが布を開いて見せると目を見張った。

「あの本か? どうしてソウが持ってるんだ?」

「わからない」

 ぼくは首を振り、再び本をムスタに押し付けた。

「荷物を整理していたら、入っていました」

 声を顰めて日本語で話すと、ムスタは本に視線を落とし、慎重な手つきで受け取った。

「このまま入ってたのか?」

「このままですが、それが?」

 言いたいことが分からず眉を寄せると、ムスタは「アーレトンスーに入れただろ」と言った。

「このままです」

「じゃあ、アーレトンスーが移動したわけじゃないのか」

 ムスタが難しい顔をした。

 ぼくはムスタの言葉を脳内で繰り返し、何が気になったのかに気がついた。

 あの時、アーレトンスーにしまったことは、ムスタが紛失報告に来た時にも確認していた。ぼくが見つけた時には、本がそのまま包みに入っていたのだから、アーレトンスーから抜け出したということになる。

「俺がタシサで開いた時に移動したのか」

 ムスタが仮説を口にするが、本に足が生えているわけではないので、誰かが運ばなければ移動するはずがない。

「そもそも、この本をどうして持っていたのか、わからないんだろ?」

 そうだ。あの夢のように実感がない空間で本を見たというだけで、手にした覚えはない。なのに、いつの間にかぼくの荷物の中に紛れこんでいたのだ。

「これは、ソウを持ち主と決めたのかもしれないな」

「何故です?」

「それはわからないが。ちょっと中を見てもいいか?」

 ぼくは頷いた。そういえば、中身を確認したことはなかった。何が書かれているのだろう。ムスタはパラパラとページをめくった。読んでいる様子ではない。どういった本なのかを確認しているという感じだ。

「中は見たのか?」

「いいえ。見ても分からないと思って」

 こちらにも本はあるが、大半がチャムキリ向けのものだ。読み書きができるとはいえ、抵抗なく読めるほど精通しているわけではないので、じっくり時間が取れる時でもないと開こうと思わない。

 と、考えたところで、表題が日本語で書かれていることに気がついた。ぼくがもっとも慣れ親しんだ語句で書かれている文章である可能性が極めて高い。

「日本語で書かれてましたか」

 本を向けられて、ぼくは苦笑して受け取った。先入観とは怖いものだ。

 開いてみると、思った通りに縦書きの日本語が並んでいた。懐かしさが込み上げる。

「小説ですかね。タイトルも、そんな感じだったし」

 返事が無いので顔を上げてみると、ムスタは顎に手をやり観察するようにぼくを見ていた。

「ムスタ? どうしました」

「タイトルは何だって?」

「え? 『主人たる者へ』って、ここに」

 本を閉じ、表紙を見せるが、ムスタは変わらずぼくの顔を見ていた。視線の意味が分からず首を傾げた。ぼくと違い、チャムキリの言語に慣れ親しんだムスタは、日本語を読むのが難しくなってしまったのだろうか。

「やっぱりこれは、ソウのための本だ」

 ムスタが力強く頷いた。

「何故です?」

「俺にとっては白紙の束だ。タイトルも本文も、見えない」

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