六十二通目 消えた本

「ドジェサだけで顕現する本なのかもね」

 ムスタとぼくから本について聞き出したウィスクは、顎下を指先で押しながら言った。

「うーん、ある、か? そういうことも?」

 目を閉じて唸るムスタに「あるんですか?」と尋ねると、ますます眉根を寄せた。

「特定の階層だけで現れる魔物はいるし、特定の階層から移動させると壊れる物というものもあるにはある。けど、跡形もなく消えるっていうのはなぁ」

 壊れることはあっても消え失せることはない、ということなのだろうか。本ならば、紙屑ぐらいは残るということか。

「範囲も狭いよね」

 ウィスクの指摘にムスタは片目を開いた。

「おまえが言った案でしょうよ」

「可能性を提示してあげてるだけでしょ。現状、階層移動はしていないわけだし」

 しれっと答えるウィスクはうっすらと怒っているような気がする。

「さもなくば、ソウとムスタがふたりして同じ幻覚を見たってことじゃない?」

 ふたり同時に同じものを幻として見るというのは大分無理があるように思えるが、ないこともないのではないか、とぼくは思ってしまった。

 あの時のぼくは今と同じ精神状態にはなかったのだと思う。冷静であろうと努めはしたが、異常事態の最中にいたのだから普段と全く同じというわけにはいかないはずだ。ぼくにとって六層は未知の階層であったし、自分の力量から外れたところだという自覚はある。そんな場所で、たったひとり暗闇に放り出されたのだから、平素と同じ精神状態であれというほうが無理がある。

 ナクタたちと離れてから合流するまでのこと全てが、ぼくの幻覚だったと言われても、そうかもしれないなと思ってしまうほど、現実逃避をしていた可能性は否定できない。

 が、ムスタの言動までぼくが制御できるわけではないので、ムスタがぼくが記憶している通りの行動をしていたのだとしたら、ぼくひとりが作り出した幻覚というのは無理筋ではないだろうか。

「同じ幻覚を見たとなると、魔物ってことになるか」

「六層にしては高位すぎでしょ」

 顎に力を入れて変な顔になっているムスタに、呆れた顔でウィスクは言った。

「そういう魔物がいるのですか?」

「いる。けど、接触なしでふたり同時ともなると、なかなかの高位魔物だよ」

 ウィスクは足を組み替えて、ぼくを見た。

「グルザントゥとかクコール類とかはそういう種類の魔物だよ。能力は眠らせるぐらいのものだけど、本能に直結してるからボクらはその誘惑に乗りやすいんだよね。そういうのがいるって分かってないと、まんまとやられちゃう」

 聞き覚えのある名前は確か、四層で警護してくれた冒険者が話していた魔物のものだ。「四層の魔物ですね?」

 確か、眠らされてリュマが全滅した話だったはずだ。

「ここでは確かそう。結構いろんな魔窟にいるんだよね」

 六層で出会った魔物が、必ずしも他の魔窟のものと同じものであるかどうかはわからないと言っていたように思うが、同じ魔物も存在するようだ。

「グルザントゥは胞子を出すことによって眠らせるし、クコールは接触して眠らせるだけだから、それほど高度な技を使っているわけじゃない。けど、ふたり同時に、非接触で、同じ幻覚を見せる魔物となると中層ぐらいにならないと出ない、はず」

 断言しかけたウィスクだが、何故か曖昧にするために言葉を付け加えた。

「この六層は確かにおかしな感じだしな」

 ムスタがぼやくように言う。

「仕掛けが複雑すぎるし、次の階層がアレともなれば、他の魔窟と同じと考えるわけにはいかないよなぁ」

「ドジェサ主はアレだったんだから、アレが幻覚を見せてるわけじゃなさそうだしね」

 ふたりとも声を抑え、曖昧な表現で会話を繋ぐ。

 六層がおかしいことも、ドジェサを攻略したことも、七層が希少階層であることも、今はまだ伏せておくべき情報ということだろう。ぼくにも秘密事項だと暗に伝えているのかもしれない。

 少し沈黙が続いたところで、ツォモ茶が丁度良い具合になった。ムスタように用意した器に茶を注ぎ、ムスタ寄りの台の端にそっと置く。

「あ、ボクにももらえる?」

 ムスタと違い、完全に意識を飛ばしてはいなかった様子のウィスクが器をこちらに寄越すので快く注ぐと、香りを楽しんで一口含んだ。

「あの、中層とはどれぐらいのことをいうのですか?」

 先程の会話の中で気になったことを尋ねた。七層までしか行ったことのないぼくからすれば、今でも深層に入ってきていると感じているが、ウィスクの発言からするとまだ中層にも届いていないということになる。

「ああ、ソウは一般的な魔窟の測り方を知らないのか。そうだなぁ」

 顎に手をやり少し考える様子を見せた。難しいことを聞いてしまったのだろうか。

「一般的に、というか、冒険者の間では十二層までを低層、二十四層までを中層、それ以上を深層って呼ぶんだ。最深層まで到達した場合は、また呼び方が変わるんだけど、探索途中の魔窟では、それが一般的」

 十二区切りなのはチャムキリの数の数え方に由来するのだろう。ぼくたちのところでは五区切りから発生した十区切りだ。手指の数に由来していると教えられたが、チャムキリがどういう由来なのかは知らない。

「魔窟は低・中・深に分けられていると考えるのですね」

「六層までを浅層っていったり、六十層以降は超深層って言ったりもするけどね」

 ということは、ここはまだ浅層ということになる。

「なるほど」

 ぼくはナクタたちが困惑していた理由を、ようやく理解した。ぼくにとってこの六層は、限られたリュマしか足を踏み入ることができない場所であったが、ナクタたちにしてみればまだまだ浅層といった感覚だったのだ。

 浅層だと思っているのに複雑な仕掛けがあったり、高位魔物がいたりするとなれば、ムスタのように変な表情を浮かべてしまうのもわかるというものだ。

「ラクシャスコ・ガルブが十二層までしかない、ということもありますよね?」

「可能性としてはあると思うよ」

 微妙な言い回しなのは、あまり例がないということなのだろうか。

 十二層までしかないとしたら、六層は折り返しの階層だ。となれば、中層の構造が出てきてもおかしくはないのではないかと思ったのだが、それぐらいのことは、彼らも考えているのかもしれない。

「幻覚ではない、と考えたほうが良いのですね」

 ぼくの言葉にムスタが薄目を開けた。

「幻覚でないのだとしたら、消えたということになるんだよなぁ。しかも、アーレトンスーに入れていたのに」

 幻覚であったほうがマシだと言わんばかりの様子に、思っているよりも深刻なことなのかと遅まきながら気がついた。

 あの本との関係が一番深いのはぼくだ。ムスタは預かってくれただけであるし、ウィスクに至っては話を聞いただけだ。一番最初に接触したのがぼくなのだから、今のところあの本について一番詳しいのはぼくということになる。

 本との出会いを思い返し、ぼくは気がついたことを口にした。

「あの本が幻覚を見せたという可能性はないですか?」

「本が?」

 ウィスクは小首を傾げ、ムスタは両目を開いた。

「本だと思っていること自体も幻覚なのかもしれないな、と思って」

 なんと説明したらいいものかと、ぼくは不自由な語彙から適当な言葉を探った。

「あの本は不思議な場所にありました。本を見て、気になりましたが、手に入れようとは思わなかった。けど、気づいたら持っていて、違う場所に出ていました。それがドジェサです」

 ムスタがもどかしそうに身を捩った。ぼくとムスタだけなら日本語で会話するほうがずっと早いと知っているからだ。

「でも、本当は最初からドジェサにいた。本がぼくに違う場所にいたと思わせた。または、本であると思わせたかもしれない」

 ウィスクがぼくの言葉を繋ぎ合わせようと斜め上を見た。言いたいことがきちんと伝わっているのか、ぼく自身もかなり不安だ。

「その本がふたりに幻覚を見せた。本だと思っているけど、本ではないかもしれない。ってこと?」

「はい。ぼくは本を持たなかったのに、いつの間にか持っていたので」

 そのあたりからして怪しいのだ、あの本は。

 ドジェサで本について話したとき、ムスタは本型の魔物はいないと言っていた。それと同時に、記憶の中の何かに擬態する魔物がいるとも言っていた。それを合わせて考えると、あの本が魔物で、ぼくの記憶から本の形をとり、ぼくに運ばせ、ムスタにも同じ幻覚を見せたと考えるのがしっくりくるのではないだろうか。

「それだと、本は魔物ということになるけど」

 魔物は消えてしまったりはしない、ということなのかもしれないが、あの時、もうひとつ、ムスタは言っていた。

「そういう魔物は、見えないものだと、ムスタは言いました」

「ああ、そういうことか」

 ウィスクが膝を打ち、ムスタは再び思案げな顔になった。

「本の形をとらなければ、消えたように見えるってことね」

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