六十通目 弁え

 テント内にこもる饐えた臭いに戻ってきたことを実感した。けっして良いものではないが、生活しているからこそのもので、懐かしさすら感じさせた。

 意図していたわけではないけれど、探索中のぼくは、かなり心を麻痺させていたのかもしれない。魔窟の中では心の目を半分閉じたようにして過ごせと言われるが、両目ともにほとんど瞑っているような状態だったように思える。でなければ、ほんの数日で懐かしさなど覚えるわけがない。

 腰につけていた荷物を下ろし、履き物を楽なものに変えた。それらを寝床にしまう時に、飴をひと粒口に放り込んだ。甘みがじわりと体に染み込むと、生きているのだと感じた。

「ソウ。疲れてるだろ? 休んだほうがいい」

「気持ちはちょっとくたびれたけど、身体のほうはなんともないよ。みんなに迷惑かけちゃったし、働かないと」

 ぼくが行方不明になったことはナビンにも伝わっているはずだ。自らの意思で行方不明になったわけではないが、ぼくのことで迷惑をかけたことは事実だ。

「ひとまず、ツォモ茶でも飲め」

 半ば強引にぼくを座らせ、ナビンは手早くツォモ茶の準備を始めた。それを見ながら、これから始まるであろう問答について、ぼくはあれこれと考えた。

 ありのままを言えばいいのだろうが、謎の本については触れないほうが良いように思えたし、飛ばされた先のことはナクタたちに許可を得なければならないだろう。となれば、今の段階で話せることはほとんどない。

 通常であれば、同行したリュマに不利益をもたらさないように、探索中の詳細については守秘義務が課せられるが、今回の場合はどうなるのだろうか。仕事ではないから縛りはないのかもしれないが、話せば不利益になりそうなことは多々ある。

「どうだった?」

 こちらを見ずにナビンが言った。

「勉強になったよ」

 曖昧だが正直な感想を伝えると、ナビンは「そうか」とだけ言った。

 ぼくはチラチラとナビンの様子を窺った。何か言いたげである。だのに訊いてこないのは、どう問いかけていいかわからないからなのか、はたまた気を遣っているからなのか。もちろん、気遣う相手はナクタたちである。

 六層を経験している歩荷はそう多くない。そこに名を連ねているからこそ、ナビンは六層を担当することになったのだし、ぼくを同伴することを許されている。それは実力があるということでもあるし、よく弁えているということでもある。

 良い歩荷とは荷物を多く運べるというだけでは足りない。分を弁え、気配りができ、目端が利くようでなければ信用を勝ち得ない。踏み込んでいい領分を見極められなければ、命を落とすことだってある。

 心配で焦れても深入りせず、待ちの姿勢を示すナビンは、実に良い歩荷だ。

 ぼくもまた、良い歩荷であろうとすれば、下手に口を開いてはいけない。ナビンを見習い、訊かれたことだけを答えるようでなければ、未来を明るくできないだろう。

「もう少しかかるから、これで顔を拭え」

 鍋から取り出した布を広げて二、三度振り回したものを丸めて、ぼくに投げて寄越したのは蒸した布だった。

「ダンネ」

 蒸し布で身体を拭くなんて贅沢なこともあるものだ。魔窟では身体を清潔に保ったほうが良いとはいえ、蒸し布が出てくることはそうそうない。

 首筋で温度を確かめてから、顔に押し当てる。ベタベタとしていた汗が溶けて浮かび上がってくるようだ。丁寧に顔を拭い、首から腕を吹き上げる。本音を言えば、上半身をくまなく拭きあげたかったが、流石にそれは不恰好なので止めておく。

 汗と砂が剥がれ落ちたような心地になって、ぼくは思わず溜息を漏らした。

「おまちどう」

 湯呑みを手渡され、一口啜る。熱い液体が喉を通り過ぎ、胃の腑に落ちるのを感じながら、生きているなぁとぼんやりと思っていた。生死の境に立たされた時よりもずっと、弛緩している今に生を感じるというのも不思議なものだ。

「なんだか、随分久しぶりに感じるなあ」

「こんなものでも恋しく感じるだろう?」

「そうだね。帰って来たって実感する」

 表面を撫でるような他愛もない言葉の応酬をしながら、互いが互いにどうしたものかと考えているのがわかる。ぼくはできるだけ時間を稼ごうと、丁度良い話題を探した。

「セルセオのほうは動きがあった?」

 ぼくから話題を振るとは思っていなかったらしいナビンは、一瞬質問の意味を測りかねたように二、三度瞬いた。

「あ、いや。大きな動きはないようだ」

「そうか。変わりなしか」

 セルセオ側に動きがあることを願ったが、明るい報せはなかったようだ。

「引き上げるといった話も無いの?」

「今のところは。でも、そろそろ仕切り直しになるんじゃないかとは言われてるな」

「どうして?」

 資材や食料は都度補充されているので不足することはないはずだ。

「学者の限界が近いというのと、セルセオのリュマが不穏って噂がある」

「不穏?」

 学者の限界はわかる。魔窟に耐性がなければ長期滞在はかなり苦痛だろう。下手をしたら精神に異常を来しかねない。が、不穏というのはどういうことだろう。

「ひとり、肩の骨を折って上に運ばれたんだ。それからというもの険悪になっているらしい。あのあたりは暑いから、疲れが出やすいこともあって、精神的にくるんだろう」

 肩をやられたとなると下降作業は難しくなる。万能痛み止め薬はあるが、折れてしまっているものを元通りにする治療薬は聞いた事がない。

「セルセオ率いる潜行隊でも崩れるものなんだ?」

「そりゃぁ人間だからな」

 最もなことを言われ、それはそうかと頷いた。多少のことにも動じないリュマと一緒に行動していたせいで、感覚が狂ったのかもしれない。

「急にセルセオのことを言い出して驚いたが、なんかあったのか?」

 下手な繋ぎ方に苦笑しそうになったが、ナビンらしい問いかけである。ぼくはちょっと肩をすくめて「詳しいことは許可が出ないと言えないけど」と、それらしい断りを入れてから答えた。

「ナクタたち、一度上に戻ることになりそうなんだ」

「何か発見があったのか?」

「そういうことになるね」

 答えているようで答えていないようなやり取りだ。今回の潜行でリュマが戻る理由となれば、大きな損失があった場合か新発見があった時ぐらいだからだ。戻ってきた時に、全員の無事は目にしているだろうから、残る理由は新発見ぐらいしかない。何をとは問えないことをナビンは理解している。

「これから話し合いになると思うから、忙しくなるかも」

 話し合いとなれば、タシサを利用している全てのリュマが滞在することになる。とすれば、何かと入り用になるので、ぼくらはすぐに対応できるよう備えなければならない。

「大丈夫なのか?」

 心配気なナビンに「もちろん」と答え、ぼくはツォモ茶を飲み干した。


「ちょっといいかな」

 鍋に沸かしておいた湯を盥に移しているところに声がかかった。顔を上げるとウィスクがいた。どことなく、落ち着かないような表情をしている。

「どうしました?」

「ナビンに話があって来たんだ。ソウを危険に晒したことを謝らないとならないしね」

 ぼくを探索に連れて行く提案をしたのはウィスクだ。それだけに、今回のことに責任を感じているのだろう。あれは誰のせいでもないと思うが、そういうわけにはいかないのだろうか。

「必ず守るとお約束したのに、申し訳ありませんでした」

 姿勢を正したウィスクが、胸に手を当てて頭を下げる。振り返ると、ナビンが驚いた顔をして固まった。慌てて手を拭い、頭を下げ返したのは、チャムキリに頭を下げられることがあるとは思ってもいなかったからだろう。

「問題ない、問題ない。ソウ、帰ってきた」

 かなり拙い発音でナビンが言葉を返す。それでも頭を上げないウィスクに不安になったようで、ナビンは青ざめた顔でぼくを見つめた。

「頭を上げてください。ナビンが怯えてます」

「えっ、なんで?」

 ウィスクが驚いて顔を上げると、ナビンは愛想笑いを浮かべながら「問題ない」と繰り返した。

「チャムキリに頭を下げられることなんて、ないですから」

 ナビンの心情を代弁すると、ウィスクは顔に手を当ててため息をつき「なんだか、申し訳ないなぁ」とぼやいた。

「ボクらって、なんか悪辣だねぇ」

 なんと返したらいいものかわからず、ぼくはナビンに視線を向け、蒸し布を出すように伝えた。

「無事に戻って来れたんです。良いことにしましょう」

 ナビンが一度開いて温度を下げてくれた蒸し布を受け取り、ウィスクに差し出す。それをじっと見つめたウィスクは、顔を上げてナビンに視線を向けた。

「ありがたく使わせていただきます」

 そう言って、正誤を確かめるように、ぼくの顔を見た。

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