四十九通目 再起動

 尿意を覚えて、自身が眠っていたことを知った。

 周囲の仄暗さに視力が戻っていないのかと思ったが、単に灯りを設置していないだけのようだ。弱い光の元を辿ると、ナクタが火の番をしているようだった。

「ドゥケ」

 声をかけると、こちらを振り返り、同じ言葉を返してくれた。

「排泄、したいのですが」

「簡易なものだけど、こっちに作ったんだ」

 尋ねると同時に立ち上がったナクタに、ぼくも慌てて立ち上がる。手招く方についていくと、すぐのところに布で囲われた場所があった。

「ここで待ってるな」

 一瞬、口を開きかけたが、ぼくは黙って頷いた。

 子供じゃないのだから、待っていてくれなくても大丈夫――そう言おうとしてしまったが、それは浅はかな考えだとすぐに気づいた。

 風景的には見慣れた場所になってきているが、ここはまだナクタたちしか到達していない六層の最奥なのだ。どんな魔物がいるのかは、誰も知らない。そんな場所でぼくのような非力な人間が単独行動などしようものなら、たちまち姿形が消えてしまう可能性が高い。

 恐る恐る布の内に入ると、弱い灯りが点っていた。足元にはアーレトンスーと思わしきものが置かれている。余裕のあるリュマだからこそできる技だと感心しつつ、申し訳ないような気持ちにもなった。

 用を足して、ダクパの葉を両手で揉んだ。ダクパの強い匂いで体臭を消せるし、気軽に洗浄できない時には気休め程度だが清潔を保てるような気がする。

 布の外に出ると、ナクタはちょっと驚いたように「もういいのか?」と聞いてきた。二日分の色々を思うと早かったのかもしれないが、体質なのか、ぼくらの民族的、職業的なことと関係があるのか、本当に安心できる場所でしか排便しないようになっていた。それに、ぼくの経験上、排便してしまうと急激に腹が減るというか、体力が落ちるというか、踏ん張りが効かなくなる。溜めるのは身体に良くないのは、前世の知識としてあるのだが、今世ではそうもいっていられない。または、人体に違いがあるのではないかとも思っている。

「問題ないです。眠ってしまってすみません」

「謝ることじゃないさ。ムスタも寝てるしな。少しは疲れがとれた?」

「大丈夫です。すぐに行けます」

「じゃあ、ムスタが起きたら行こう」

 元の場所に戻ると、ナクタはピュリスに呼ばれて行き、目を覚ましたらしいウィスクがすぐに近寄ってきた。

「見えるようになった?」

「はい。大丈夫です」

「はぁ、良かった。なんか、思ってもみないことになっちゃったよねぇ」

 大きなため息と共に肩を落としたウィスクのぼやきに、ぼくは頷いた。

 本当に、全くもって想像しないことになってしまったものだ。冒険者でもない人間を連れて歩いたら、突然姿を消した挙句、誰も到達したことのないドジェサに入り込み、下層へ行ってみれば、貴重な資源が豊富な場所に出てしまったのだから、情報量が多すぎる。

「けどさぁ、なんでソウとムスタだけ、飛ばされたんだろ」

 子供じみた仕草で首を傾げるウィスクを真似て首を傾げながら、「どうしてでしょう」と不思議そうな顔をして見せた。

 『前世持ち』であるということが条件にあるのではないかと想定してはいるが、何故ぼくが最初に飛ばされたのかはわからないので、とぼけているわけではない。少なくともムスタは、ぼくが歩く前に飛ばされた箇所を通っているはずだ。けれど、その時は何もなかったのだろう。

 あの時聞いたあの声はなんだったのか。最初に飛ばされたあの部屋はどこだったのか。知らぬ間に持ってきてしまったらしいあの本には何が書かれているのか――わかっていることなど何もない、というのが正しいぐらい、何もかもわからない。

「ドジェサにいるってことがわかった時は、血の気が引いたよ」

「いつわかったのですか?」

「確信したのは石扉を見た時だけど、ソウが飛ばされた場所が行ったことがない場所だってわかった瞬間から、ドジェサなんじゃないかって想像はしてた」

 随分長いこと不安にさせてしまったようだ。謝るのも変だが、感謝するのもおかしな気がする。

「もうダメかもって思った時、ナクタが『ソウは地元の民だ』って言ってくれて、それならなんとかなると思わせてくれたんだよねぇ」

 地元の人間は魔物に捕捉されにくい、という話を思い出したということだろう。ぼく自身は実感として狙われ難いと感じているが、冒険者の彼らにとっては言い伝えのような信憑性の低いものなのではないだろうか。

「あの話は、本当のことみたいです」

「そうなんだねぇ。今回のことで、かなり実感したし、ソウが地元の人で本当に良かったって、心底」

「大丈夫でした。ありがとうございます」

 元気づけるために力強く頷くと、ウィスクの表情が少し和らいだ。

「じゃ、片付ける前に用を足してくるねぇ」

 気恥ずかしさからかパッと立ち上がったウィスクは、先ほどの布囲いの方に走って行った。ウィスクの行動に気づいたらしいデラフが、その後を追って警戒につく。

 手持ち無沙汰になったぼくは、念入りに身体をほぐすことにした。思えば三日近く動かずにいたのだ。身体が固まっている気がしてならない。

「おはよおさん」

 関節を伸ばしていると、ムスタが匍匐して近づいてきた。目が覚めたらしい。

「体調はどう? 不具合はない?」

「今のところ問題はないです。少し、運動不足だけ」

 ムスタと話そうとすると、どうしても日本語が出てしまいそうになる。それを回避しようとすると、ただでさえ辿々しい言葉が、更に拙くなってしまった。

「さっきの、飛ばされた件だけど」

 寝たふりをしてウィスクとの会話を聞いていたようだ。ぼくはナクタやウィスクの位置を確認して、ムスタに視線を向けた。

「後々、再現実験することになるとは思うけど、六層の安全がある程度確保されてからになるだろうから、しばらくは大丈夫だと思う」

 再現の確認はするだろうなと思っていたので、驚きはなかった。ナクタたちにとっては六層というのはかなり浅いらしい。魔窟であるから、何が起こるかわからない、とはいえ、浅層ならば、これから多くの冒険者が足を踏み入れることになる。後続のためにも安全を確認したいと思うのは自然なことだ。

「サンガの管轄ですか?」

「そうなる前に、例の本を解読しようと思ってる」

 その言葉は意外だった。サンガの管轄になると何かまずいことがあるのだろうか。

「できれば『前世持ち』というのは伏せておきたいだろ? 俺としてはナクタには伝えたほうがいいと思うが、サンガにまで伝える必要はないだろ」

「知られたらまずいですか?」

「何をまずいとするか、だけどな。ソウがこのままこの土地に居たいというなら、知られないほうがいいとは思うね。家族がいるなら尚更だ」

 棘のある言い方である。ぼくと違い、ムスタは冒険者なのだからサンガと付き合いが深いはずだ。サンガで働いているほとんどがチャムキリであるから、親しみがあるものと思っていたが、そうではないのだろうか。

「良くない何かがあるのですか?」

「良くも悪くも『祭り上げられる』のさ。こう言っちゃなんだが、ソウのような少数民族の『前世持ち』は象徴のようにされるのが目に見えてる。特別扱いを心地良く思うなら別だが、平穏を守りたいなら伏せておくに限る」

 熱の籠った早口に、ムスタの中に燻っているものがあるのが伝わってきた。具体的に何があったのかはわからないが、愉快なことではないのだけはわかる。

 今のところ先々のことはわからないが、そもそも公にするつもりはないのだから、伏せられるなら伏せておきたい。

「本を解読したら、何かわかりますか?」

「読んでないからさっぱりだが、単なる偶然で手に入れたってわけでもないだろうから、何かはあるんじゃないか? 現状、妄想と何も変わらない根拠で言ってるけどな」

 開いてもいない本に何が書かれているかなど、問われてもわからないのは当然だろう。不毛なことを聞いてしまった。唯一わかっているのはタイトルだが、そこから中身を想像するのは難しい。

 確か『主人たる者へ』と書かれいたと思うが、書かれているジャンルもわからない。第一印象では、宗教的な訓話が書いてあるのではないかと思ったが、その場合は主人ではなく主と表記されるような気がする。主というと神のような超常的存在の気配が漂うが、主人となると規模は小さくなる。ならば、経営哲学書のようなものだろうか。わざわざ日本語で経営哲学を書いたというのもなんだか妙な気がするが、ぼくのような『前世持ち』が、同じ境遇にある者のために書いたと考えれば、無いことはない、だろうか。

「何が書いてあるか、わかったら、教えてください」

「そりゃ、もちろん。元々はソウが手に入れたものなんだから、当然だろ」

「楽しみです」

 期待を込めて伝えると、ムスタは「任せろ」と力強く言った。

「では、我々も準備しますかね」

 そこでようやく、ムスタは上半身を起こした。

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