四十五通目 下層へ
空中に浮かび続ける魔物の姿勢が変わらなくなった。自力で姿勢を変えられないほどに消耗したのか、はたまた絶命したのだろうか。口元から伸びているナマズのヒゲのようなものがザンバラに靡くのが、なんだか汚らしく思えた。
「ソウ! ムスタ!」
浮かび上がった巨体が地面に着くより早く、ぼくの両肩にはナクタ手が置かれていた。
「怪我はないか? 目眩や耳鳴りなどは?」
「大丈夫、です」
揺さぶらないのは流石だが、全身から迸る迫力は凄い。勢いに飲まれ、ぼくの足は勝手に二歩ほど後退していた。
「はぁー、良かったぁ」
次に駆け寄ってきたのはウィスクで、ぼくの顔を見るなり、その場にへたり込んでしまった。誘った張本人だけに、責任を感じていたのだろう。
「少し、疲れてますが、問題ないです。それより、下層の階段を確認しましょう」
「我々はそこまで愚かではないぞ」
ピュリスの呆れた声に、ぼく以外の全員が同意した。ぼくとしては、問題無いことを伝えたつもりだったが、どうやら裏目に出たらしい。
「本当に、ぼくはなんともないです」
「『ぼくは』?」
ナクタが不思議そうに言い、先程からずっと無言のままのムスタに顔を向ける。
「いや、俺も、無事は無事なんだが」
ハハハと虚しい笑いをこぼしたムスタに視線を向けたらしいウィスクとピュリスが、思わずといったように半身引いた。
「なんで丸出しなんだ」
デラフの率直な問いに、ムスタは乾いた笑声だけを返し、思い出したように、先程まで被っていた布で下半身を覆った。
「色々、ありまして」
「積もる話は後にして、とりあえず、帰ろうか」
察してくれたのかどうかはわからないが、ナクタが明るい声で提案してくれたので頷きかけたが、まずは階下を確認する必要があるだろうことを思い出した。
「いやいや、ドジェサを攻略したんです。下を見ましょう」
新たなる階層への道が開かれたのだ。
今回の大潜行隊が組まれた大きな目標が達成されたのだ。見つけたのが主催のセルセオ・ダットンではないのは多少問題になるかもしれないが、ラクシャスコ・ガルブに関わる全ての人間が待ち望んだ一歩であるし、ナクタたちのリュマにとっても大手柄なのだ。確認せずに戻るなんて勿体無い。
「それは今じゃなくてもいいんじゃないか?」
「いやいや、今しかないですよ」
のんびりしたナクタの返答に、ぼくは心底驚いた。冒険者とは思えない発言だ。
「ソウは丸二日もここにいたんだぞ?」
「えっ! いや、でもそれぐらいなんてことないでしょう」
そんなに時間が経過した感覚はなかったので驚きはしたが、それよりも何よりも、ドジェサ攻略と階下の発見の方が大事だ。
「それぐらいってことはないだろ? 二日だぞ?」
「二日ぐらい、なんてことはないです。それより、七層発見の方が、重大です」
「命があることのほうが重大だ」
「死んでないので問題無いです。それより、七層です」
どうにも、会話が噛み合ってくれない。ぼくはなんだか焦れてきて、癇癪を起こしてしまいそうだった。
ぼくは元気のものであるし、ムスタにも身体的な損傷はない。ナクタたちにも大きな問題が発生していないのなら、優先すべきは下層を目指すことだと思うのだ。それが今回の潜行の大きな目的であるし、冒険者にとっても大きな目標なのだから、たった一歩だけでも足を踏み入れることに価値があるのだ。単なる荷運びの健康状態が心配だというだけで、その栄誉をふいにするのはあまりにも馬鹿げている。
言葉にすれば簡単に伝わりそうなことなのに、それが上手く表現できないもどかしさに苛立ちがあった。
先程まで、ムスタと滞りなく会話ができていたせいもあるのだろう。少ない語彙でなんとか意思を伝えようとするが上手くいかず、見た目も相まって、聞き分けの悪い子どもが喚いているだけのようになっている。客観視できるだけにそれが余計と辛い。
「まあまあ、ソウもこう言ってるわけだし、チラッと下をのぞいてくるだけでもしてこよう」
助け舟を出してくれたのはムスタだった。ぼくが見た目通りではないことを知っているのは彼だけだ。
「自分がそんなになってるのに、よく言えるなあ」
批判的なウィスクの言葉に、ムスタは呻き声を上げて胸を押さえた。痛いところを突かれたのだろうが、なんとか反論して欲しい。
「じゃあ、最初の灯り、だけ」
六層を歩き始めた時に聞いた話を思い出し、ぼくは急いで提案した。最初の灯りは、リュマにとって名誉あることだと教えてもらったのだ。
「おお、それはいい」
真っ先に同意してくれたのはデラフだ。賛同を得られたことで、ぼくはちょっとホッとしたのだが、次の言葉は思ってもみないものだった。
「最初の灯りとして、七層にソウの名前を刻もうじゃないか」
「えっ、なんで、ぼくですか?」
「このドジェサに真っ先に入ったのも、我らをここに導いたのもソウだろう? その手柄をどう記したものかと考えていたんだが、最初の灯りに記してしまうのが一番良い」
最初にここに足を踏み入れたのはぼくなのかもしれないが、手柄になるようなことはしていない。たまたまここに放り出されただけで、ドジェサ主を攻略したわけでもなんでもないのだ。ましてや、単なる歩荷なのだ。名前を残す価値もない。
「それはいいな」
明るい声を出したのは意外にもピュリスで、同意したかと思うと炎の明かりを使って、周囲を見渡し始めた。
「皆さんが最初に七層に到達したという記しをしようということです」
「我々は君に導かれただけだ。君の名こそが相応しいと思う」
ピュリスに生真面目に返されて、ぼくは困ってしまった。これでは、ぼくが名誉を欲しがったみたいではないか。そんなつもりは全くなく、七層に最初に入ったのは、セルセオではなくナクタたちなのだと、後に続く冒険者に示したかっただけなのだ。
「ムスタ」
なんとか言ってもらおうと呼びかけたが、ムスタは顎に手をやって「いいんじゃないか?」と、ぼくの思惑と全く逆のことを言い出した。
「ここにソウの名前を刻めば、お姉さんのことも通りやすくなるかもしれないし」
「そういうものですか?」
そんなに簡単なことなのだろうかと、半信半疑で視線を向ければ「世の中、そういうもんだ」と日本語で囁いてきた。
「何にしても実績があったほうが物事は通しやすくなるもんだからなぁ、どこでも」
どこでも、というのは、どこの土地であろうとという意味のほかに、前世も今世も変わらないという意味もあるのだろう。前世では覚えがありすぎるぼくは、今世が長いムスタの判断に従うほかない。
「行くぞ、ナクタ」
ピュリスに変わり、光の球を出してドジェサ全体を照らしたウィスクが声をかけた。そちらに顔を向けたナクタは、再びぼくをじっと見下ろして確認してくる。
「本当に、どこも問題ない? なんなら背負ってあげるけど」
「歩けるので、大丈夫です」
はっきりと言って、周囲にさっと視線を巡らせた。ナクタは本気で心配しているのだろうが、この歳になっておんぶされるなんて恥ずかしいことこの上ない。
ぼくたちがいたと思しき場所には、寝袋だったものの残骸があるだけだった。あの時、少しでも判断が遅れていたら、今頃はあの魔物の腹の中だったのかもしれない。そう思ったら、今更ながらに恐怖心が湧いてきた。
「生きててよかった」
ぼくの呟きに、ナクタとムスタが首を傾げた。自然に口から出たのは、集落の言葉だったらしい。
「なんでもないです。行きましょう」
下に繋がる階段を見つけたらしいウィスクたちが、こちらに向かって手を振ってきた。
ぼくは布切れになってしまった寝袋を拾い上げた。ぼくの身代わりになったような気がしたからだ。そのままにしておくのは気が引けた。
「無理はしないでよね」
追いついたぼくに、ウィスクは心配げな顔で言った。なんだか思っている以上に、ひ弱な生き物だと思われている感じがする。
「大丈夫です。ぼくたちは、三日ぐらいは、何も食べなくても問題ないです」
「いや、それは無理があるでしょ」
冗談だと受け取ったようだ。が、実際ぼくたちの集落では、三日ぐらい何も食べないことはままあることだ。五日ともなれば、羊を絞めることも考え出すが、羊に手を出してしまったら最後、本当に食べるものがなくなってしまうので、本当の奥の手だ。
ぼくはちょっと肩を竦めて、笑って見せた。冗談だと思われるなら、それはそれで良いだろうと判断したのだ。
「ピッケエレインが戻ってきた。問題はなさそうだ」
ピュリスの言葉に、ウィスクはぼくを見て頷いた。
「それじゃあ、七層に行ってみようじゃない?」
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