四十三通目 起死回生
緊迫した状況には相応しくない表情に、ぼくは胃に痛みを覚えた。
「まさか、漏らしてはないですよね」
「まだ、大丈夫」
ゆっくりとした口調と、同じぐらいの動作で胸元からアーレトンスーを摘み上げるムスタの様子に、限界がすぐそこに迫っていることを悟った。
ムスタの予想としてはタジェサ内ということだったが、ここの主はどういう性質を持っているのだろうか。今までの傾向から予想しようにも、ぼくの知識は四層までしかない。五層は今回通過したぐらいなのだから。
匂いに敏感であるならば、すでに襲われているのではないかと思う。が、そんな常識めいたことが通じるものなのかも不明だ。
タジェサの主は、挑むだけの力量がなければ扉を開かないと言われている。それだけの知性なり、本能なりを有しているから主となるのだとしたら、ぼくらがいることはとっくにわかっているはずだ。
なのに何もしてこないということは、楽感的に考えればダクパの効果があるのか、気づいていながらも相手をするほどではないと踏んでいるからだろう。
「ソウ、悪いんだけど、これで俺を囲んでくれる?」
弱々しい声を出したムスタはアーレトンスーをぼくに手渡してきた。
アーレントンスーで自分を囲う仕草すら刺激になるのだろうか。そうだとすればかなり差し迫っている。
「気を逸らしましょう。歌はどうです?」
「歌か。讃歌ぐらいしか知らない」
「讃歌ってなんです?」
「神殿の。聖女とか、王の歌」
大分カタコトになってきてしまった。どうにか気を逸らしたい。便意というのはピークを越えてしまえば案外なんとかなるものだ。
「前世のはどうです? カラオケ好きでした?」
「カラオケか。懐かしいな」
ムスタの表情が少し緩んだ。どうやらカラオケは好きだったらしい。しかし、盛り上げようにもぼくのほうにカラオケの記憶がほとんどない。多分、あまり出入りしなかったのだと思う。
「どんな曲が好きでした? アーティストの名前覚えてます?」
「アーティスト? バンドとかじゃないのか?」
「バンドでもいいですけど」
ぼくの記憶では、音楽関係者のことをアーティストと呼ぶ習慣があったように思うが、ムスタの記憶では違うのだろうか。
「そうだなぁ」
記憶を呼び起こそうとしているのかムスタの瞳が遠くを見始めた。良い兆候だ。現実からできるだけ遠くに意識を持っていったほうがいい。
「この間ぼくが歌っていたの覚えてます?」
「ああ、そういえば」
メロディを口遊むとムスタの表情がよりぼんやりとした。
歌詞までは覚えていないので歌えないのだが、ムスタの記憶に瑕疵があるかもしれない。それを呼び起こそうとしてくれれば、どんどん肉体から意識が離れてくれるはずだ。
ぼくはナクタたちの居場所を探った。先ほどよりかなり近くなった。壁だけではなく、通路になっているところもあると考えれば、速度に波が出るのは当然のことだ。
先ほどはダメかとも思ったが、上手くすれば、上手くするかもしれない。
考えられる問題としては、タジェサの壁は破れるのか、と、彼らで扉を開けるか、だ。どちらかが叶わなければ、希望が見えてからの地獄というホラー映画のような展開が待っている。
「懐かしいな。ライブ、行った気がする」
ムスタが茫然と呟いた。意識は記憶の深いところまで飛んでいるようだ。
ぼくにとってこの歌は、昔の曲のリバイバルとしてアイドルグループが可愛らしくダンスを踊りながら歌った曲だが、ムスタにとっては違うようだ。元はどんな人が歌っていたのか、覚えていない。
こうして考えると、ぼくとムスタの間には十数年ぐらいの開きがあるようだ。もう少しあるのだろうか。生きた期間が重なってはいるのだろうけれど、世代が随分違うように感じる。
前世の記憶を持っている人物に出会ったのが初めてのことだからかもしれないが、ぼくはどこか無意識で同じ世代なのじゃないかと思っていた。それは多分、ぼくが死ぬ頃に異世界転生モノが流行っていたからだ。
一発逆転を狙いたい世代なんていわれていたから、こちらの『前世持ち』はぼくと同じ年頃に死んだ人間なんじゃないかと漠然と思っていたが、そうではないようだ。
しかし、歌で世代がバレるというのは、インターネットのようで面白い。
「若かったよなぁ、あの頃」
苦笑まで浮かべたムスタに、ぼくはもう暫くの猶予があると確信した。ナクタたちも、表示の上ではもう少しのところまで来ている。
祈るような気持ちでいた次の瞬間、耳を擘く怒号に文字通り飛び上がった。
「え、なに」
タジェサの主が暴れ出したかと思ったが、遠くから聞こえてきた声は希望そのものだった。
「ソウ! ムスタ!」
「無事です! ここにいます!」
叫ぶと同時にもう一度、今度はすぐ近くで轟音が響いた。
「ダメだ、ナクタ! そこは破れない!」
「多分、タジェサです!」
叫び声はウィスクだろう。ぼくはムスタの予想を叫んだ。
「わかった! こっちに回るぞ!」
ナクタが道を示し、足音が遠退いていく。タジェサの扉に向かっているのだろう。
ぼくは緩みかけた緊張を取り戻し、寝袋から這い出た。暗闇で入り口がどちらにあるのかはわからないが、ナクタたちの足音の方向はわかるので、暗闇の中を視線で追った。
「ソウ」
背後からの弱しい声に振り返る。
「ヤバい事になった」
「え、まさか」
ムスタの涙声に、ぼくは彼の足元を見た。ズボンが脱げている。
「アーレトンスーは閉じたから、とりあえず、少しは、マシかと思うけど」
それはどうだろうか。一瞬唖然としてしまったが、急いで意識をかき集め、背後の壁際に近寄った。
「こっちに来てください。少しでも距離を稼ぎましょう」
ナクタたちの足音が止まったところが入り口ならば、主の居場所もなんとなくはわかるはずだ。
「ごめん。音にびっくりして」
「もう済んでしまった事なので、これからを考えましょう。ムスタ、主の気配を感じますか?」
泣きたくなる気持ちはわかる。ムスタは前世でも今生でもぼくより年上なのだ。いい歳した大人が、子どもの前でお漏らしをするのはかなりの恥辱だろう。惨めな気持ちを引き摺らないためにも、意識を現実に戻して、危機的状況を乗り越えることに集中して欲しい。
「ここの主はどんな特性か、推測できますか?」
「そ、そうだな。ヒエッカマトあたりか?」
「それは、どういうものですか?」
「えっと、地面に潜む生き物で、巨大なミミズのような、ムカデのような、そういう見た目のヤツだ」
想像するだけでゾッとする見た目だ。地面に潜んでいるとなると姿は見えないから良いのかもしれない。
「いや、良くない。地面に潜むってことは、下から急にくるってことですよね」
ぼくは急に不安になって、ムスタの手首を掴み壁伝いに数歩移動した。
瞬間辺りが闇に包まれて、ぼくは背筋が寒くなった。
「気付かれたな」
ムスタも事態を把握したらしい。暗闇で頷いたが、ムスタには何も伝わらないだろう。
急に灯りが消えたのは、地面に潜んだモノが、ぼくたちがいた場所を飲み込んだからだろう。灯りも何もかも、一気に吸い込んでしまうほどの大きさのものがいる、ということだ。
「そいつはぼくたちの何に反応するんです?」
「魔窟によって様々だ。が、言葉ではないだろうな。今まで何もしてこなかったということは、気づいていなかったはずだ」
それなら話していても大丈夫だろう。では、今までと違ったことはなんだろうか。
「足音でしょうか」
「考えられる。あとは、まあ、俺の、そのなんだ」
モゴモゴと言いにくそうにしているムスタには悪いが、今はそんな羞恥心など忘れて欲しい。
「尿、ですか。ならば水分とか臭いですかね」
「そ、そうだな」
指摘されたくはないだろうが、指摘することで開き直って欲しい。
少し考えて、ぼくは腰に括り付けた筒を漁った。ダクパが入っている筒の中には、焚き付けに使う羊の糞を固めたものが入っている。それに唾を落として、ぼくは遠くに放った。
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