四十二通目 井の中の蛙

 最も恐れていた言葉だった。

 ぼくは数秒固まり、瞳だけを動かして周囲をさっと見まわし、ムスタの顔を観察した。下がり眉の中央に皺を寄せ、唇を窄めて浅い呼吸をしている。便意なのか尿意なのかはわからないが、何かが切迫していることだけは生々しく伝わってきた。

「気を紛らわせましょう」

 咄嗟に思いついたことを言うと、ムスタは弱々しく頷いた。意識は完全に下半身に向いてしまっているようだが、それこそが危機感を煽る行為だ。他のことに意識を向ければ良い、はずである。

 しかし、丁度良い話題というものは都合よく現れてはくれないものだ。それほど親しくもない相手との無難な会話といえば、代表的なものは気候の話だが、お互い地上から離れて久しいので適切な話題とはいえない。

「あ、そうだ。ナクタとの付き合いは古いんですか?」

 共通話題といったらコレだろう。逆にいえば、無難な話題はこれぐらいしかない。

「長いといえば長いかな」

 負担がかからない姿勢を探りながら、ムスタがボソボソと答えた。

「どうやってリュマを組んだんです? 他の方たちとはどんな出会いが?」

 質問を投げかけて意識を答えに集中させようと試みながら、ぼくは横目でナクタたちの居場所を探った。先ほどより、近づいているような気がする。

「リュマの成り立ちはわからない。俺が一緒に行動するようになったのは、割と最近だから。出会いはよく覚えてないけど、神殿だったと思う。あいつは目立つから。勝手に知った気になってたってのもあって、正確には覚えてないんだ」

「目立つ?」

「瞳の色が――って、この辺りでは知られてないのか?」

「茶褐色の瞳が王族の流れ、って話は聞きましたけど、そんなに珍しいものですか?」

 話には聞いたが、前世の記憶も相まってそれほど特別な瞳の色には思えなかった。

「珍しいし、意味もあるから、話題になる」

 腰を伸ばしかけたのを途中でやめ、眉間に皺を寄せたままムスタは目を閉じた。

「瞳の色なんて、選べるじゃないですか。こちらでは」

「わざわざ危険な道を選ぶヤツはいないだろ。それに、こちらでは本気で望まないと子どもは育たないのは知ってるだろ?」

「ぼくのところ以外でもそうなのですか? 王宮のある、クラーロ、でも?」

 ケルツェで子どもの育ちが悪いのは環境のせいだと思っていたが、他の場所でも同じなのだろうか。

「環境の差もあるだろうけど、基本的に本気で望まなければ子は育たない。まず、夫婦が同じ意識を持っていなければミヒルの実から発芽することもなく、発芽したところで夫婦の意識が逸れると枯れてしまう。正直、前世の子作りよりも難しいぐらいだ」

 前世では不妊治療の話などが話題になっていたが、その反面、望まぬ妊娠・出産・子育てについてもニュースで伝えられていた。妊娠と出産の主体は母となる女性であったが、こちらでは違う。

「誠心誠意、子どもが欲しいと二人が願わないとならない。下心で子どもを持とうと思っても、そうはいかない」

 下心というのは、王族の子を騙るということだろうか。王家に連なるものとして認識されている瞳の色が選べたところで、その子を利用して何か企てようとするのは、こちらの道理では無理ということなのだろうか。

 正直なところ、子どもができる仕組みについては全くもって未知の領域だ。弟や妹がいるので、両親がミヒルの実から子どもを成していることは経験として知っているが、自分の知る常識とはあまりにもかけ離れていてどう飲み込んだらいいのかわからないままである。

「こちらにおいて『血縁』という概念はない、ということですよね? ということは、親子であるかどうかを証明する方法ってあるのですか?」

「無い。そっちの学問については前世の応用が効かないから、研究の進みが遅くて不明なことが多い分野だ」

 言葉の端々に余裕の無さを感じるが、それを指摘するのはよくない。ぼくは素知らぬ顔で頷いた。

「ぼくは王族の瞳が茶褐色であることを最近まで知らなかったんですが、ぼくみたいな知らない人が茶褐色の瞳を持つ子どもを望んで、育てた場合はどうなるのです?」

「知られたら、良くて王宮に幽閉かな」

 ニーリアスが言っていた『摘まれる』というやつだ。良くて、ということは、悪ければ物理的に消されるということもあるのだろう。嫌な話だが、権力というのはそういったことも可能にするし、それ故に権力の分散を恐れるということでもある。

「そういう話を聞くにつけ、前時代的だなと感じるんですけど、考えてみたら王が統治する、権威主義世界なんですよね」

「そうはいっても、人間同士のドンパチは多くはないから、平和は平和なんだよな」

「人間同士の縄張り争いはないのですね」

「無いわけでも無いけど、それよりも魔物の脅威の方が身近というのがあるだろうな。それに、魔界に最も近いのがクラーロフスケ・ヒリアだから、文句の出ようも無いというのも大きい」

「魔界、ですか?」

 急に飛び出したファンタジー用語に首を傾げると、ムスタは閉じていた目を開けてぼくを見た。

「魔界をご存じない?」

「魔窟の中、という意味ではなく?」

 感じたままに答えると、ムスタは再び目を閉じて、顔を少し仰かせた。

「そうか、知らないのか。ええと、こちらの世界地図を見たことは?」

「多分、ないです」

「そうかぁ。現物があれば良かったけど、ないんだなぁ」

 残念そうに言いながら、ムスタは体を前後に揺らした。

「もの凄くざっくりいうと、ドーナツ型の大陸があって、中央の穴に魔界があるわけよ。クラーロフスケ・ヒリアは、他の土地よりも魔界の方に出張っていて、唯一地続きになってるんだな、これが」

「それは大分、危ないのでは?」

 ムスタの言葉通りに想像していったが、地続きになっているといわれてギョッとした。近いといっても、概念的な近さのような、ぼんやりしたものを想像していたので、接続しているとは思わなかった。

「そんな危ない場所にある、というのが王家が王家として存在する意義というか、象徴以上の意味合いを持つってことなんだよ」

「確か、最初の王が魔物を退けたと聖典に書かれているとか?」

「王というか聖女というか、まあ、そんな感じの話がある。俺たちの感覚では創世記ってのは創作されたものって感覚があるけど、こちらのはあながち創作とも言えないんじゃないかと思うぐらいには、色々と生々しいんだよな」

 ぼくの記憶にある聖典だとか創世記というのは、キリスト教に関するものといった印象と、古事記や日本書紀といったものが思い出される。どちらもあまり詳しくはないが、国造りから始まり、神様の逸話といったものが登場する、とても現実とは思えないものだ。その印象のままにこちらの聖典を捉えてしまってはいけないのかもしれない。

 それにしても、知らないことが多すぎる。井の中の蛙であることは自覚しているが、それにしたってあまりに何も知らな過ぎるのではないだろうか。今は魔窟を歩いているが、目処が立ったら兄たちのように地上を歩いてみたほうが、もう少しは世の中を理解できるのかもおしれない。

「知らないことばかりで、勉強になります」

 溜息をついたぼくに、ムスタは頷いた。

「俺も全てわかってるわけじゃないと感じるよ。昔――前世では、知らないことはない感覚があったけど、あれも『わかってるつもり』だったんだろうな。最も、全てのことなんて知りようもないのかもしれないけど、知りようもないとわかっていないとダメなんだなというのは、こっちで学んだな」

 ムスタの眉間の皺が薄くなっているのに気づき、ぼくは少しほっとした。多少なりとも、意識が下半身から遠のいたのかもしれない。

「姉のことが片付いたら、他の土地に行ってみるのもいいかもしれない」

 話しているうちに胸に湧いてきた願望を口にすると、ムスタは顔を明るくした。

「いいじゃないか。どこに行ってみたい?」

「どこって言えるほど何も知らないけど、王宮があるところを見てみたいかな」

「クラーロフスケ・ヒリアな。なんなら、俺たちと一緒に行くのはどうだ。土地勘があるヤツと一緒の方が何かと便利だぞ」

「それはいいね。でも、まずは姉の問題と、ぼくの鑑定費を貯めないとならないから、随分先になると思うよ」

 それよりも先に解決すべきは、ここからの脱出なのだが。

 こんな環境で希望を口にするのは、いわゆる死亡フラグというやつなのではないかという不吉な言葉が脳裏を横切った。

「ところでソウ」

 揺れながら、ムスタが声をかけてくる。

「アーレトンスーにすれば大丈夫だと思う?」

 まんまとフラグを立ててしまったのかと天を仰いだが、嘆いている場合ではない。

「今まで、こういう時はどうしてたんです?」

「初めてだよ。言ったろ、ナクタと行動するようになったの割と最近だって」

 さっきの話がここに繋がるのかと額を抑える。

「もう少しどうにかなりませんか。ナクタたちももう着くのでは?」

 焦るぼくに、ムスタは妙に落ち着いた顔で言った。

「最悪のことを想定していた方が心穏やかにならない?」

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