三十九通目 常識非常識

 ムスタの寝息だけが聞こえる。他の音は不自然なぐらい何ひとつ耳に届かない。空気が動く気配もなく、何かの存在を感じることもない。灯りがあることにより、暗闇はより一層濃く見えた。

 魔窟にいて、これほどまでに何の変化も無いなんてことはあるものではない。他の階層に比べて、六層は安定しているのかもしれないが、それにしたって不自然だ。

 そう考えて、ぼくは思った。ここは、前室なのかもしれない、と。

 前室とはぼくが勝手にそう呼んでいるもので、タジェサの前の広めの空間のことだ。一般的な呼び名がなんというのか、あるのか無いのかを含めて知らない。

 各階層で最も強い個体がいるのがタジェサである。その威圧を感じるのか、前室では魔物の数が極端に減る。安全性が高いので、ほとんどの冒険者はタジェサ前の打ち合わせや荷物の確認で足を止める場所だ。

 それならば、この先にタジェサがあるということになる。あいにく、それが前後左右いずれにあるのかはわからないが。

 ナクタたちは、六層のタジェサを探していたはずだが、こんな場所にあるのだとしたら、気づかないのも無理はない。彼らが近寄ったことさえない場所だ。今まで通りの挑戦では辿り着くことはできないだろう。

 ムスタの居場所はナクタたちの持つ魔導具に示されているらしい。とすれば、自分たちが今まで通った場所だけを歩いていては辿り着けないことには気づいたはずだし、タジェサが近いと考えているかもしれない。

 ムスタの救出とともに、タジェサへの挑戦を考えているのだとしたら、一度装備を見直したりするのかもしれない。今回はぼくを連れていたので、彼らとしてはピクニック気分だったのではないだろうか。そうすれば、自然と装備は甘くなる。

 ナビンたちの手前、ぼくの回収を一番に考えるということもあるが、到達困難そうな場所である。手間をかけて来るのだから、それなりの戦果を持って帰りたいと思うのが冒険者というものだろう。

 それらを考えると、状況が変化するまで三日、四日はかかるかもしれない。ムスタがどこまで供えてきたのかはわからないが、水と食料の不安が過ぎる。あとは、排泄だ。どこでするか、どう処理するかがなかなかに厄介で、不用意にすれば魔物を集めてしまうことになりかねない。位置情報を与えるだけでなく、ぼくという個体情報を与えてしまう。排泄物の臭いというのは、その個体の成り立ちを色濃く物語る。ムスタはともかくとして、全くもって無能な、子どものぼくなど、格好の遊び道具だろう。

 タジェサから主が出てくるという話は聞いたことがない。ならば、他の魔物が近寄らない前室で全てを行えばなんとかなるのだろうか。しかし、前室を汚されて怒らない主もいないような気がする。魔物の考え方については、全くわからないので、汚されるという感覚があるかどうかもわからないのだが。

 つらつらと考えていたが、ぼくが今できることはほとんどなく、最も良いのが消耗しにくく、限りなく死に近い存在になることだというところに落ち着いた。

 つまり、ムスタのように眠ってしまうのが最良ということだ。


 衣擦れの気配で目が覚めた。身を起こすと、ムスタが伸びをしているところだった。

「こうも静かだと安眠できていいもんだねぇ」

 呑気なことを言いながら、水筒を傾ける。それに倣って、ぼくも水を口に含んだ。水分の摂りすぎは危険だが、飲まなすぎるのも良くない。

「どれどれ、あの人たちはどうなってるか見てみますか」

 ムスタはそう言いながら箱を手に取ると、呆れとも感嘆ともつかない声を出した。

「さっきより近づいてるよ」

 渡された魔導具を見てみると、確かに近づいてはいるが、やや不自然な気がした。

「これは壁に穴開けてるかもしれないねぇ」

「ああ、だから直線なんだ」

 ぼくたちがいる場所に向かって、真っ直ぐに線が伸びてきている。が、進みが良くないことを見るに、道がないところに道を作っているのだと想像できた。

「これだと俺たちのいる場所がどんなところか、想像つかないだろうし、一刻も早く助け出さないと、と思ってるんだろうねぇ。ありがたいことだよ」

 確かに、ぼくたちがいる場所の情報については何も記されていない。ムスタを示す点があるだけだ。どれぐらいの広さの場所にいて、どんな形をしているのかは、彼らには伝わっていないのだ。

「この魔導具に細工して、彼らに伝えることはできないんですか?」

「このあたりを歩き回れば形が見えてくるけど、今動き回るのは得策じゃあない。ソウは丸腰だろうし、俺はそもそも戦闘向きじゃないからなあ」

「通信機能はないんですか?」

「ない。こっちではラジオすら存在しなくてね。個人間通信なんて、夢のまた夢だよ。通信技術を作れたら、王宮に監禁されるだろうなぁ」

「監禁?」

「よく言えば、保護と支援、かな? 『前世持ち』を表明している人は、王宮で保護されるんだ。そこで、前世で得た知識の再現作業なんかをすることになる。当然、時間がかかることだから、王宮から出ることはほとんどなくなる。ので、俺は待遇の良い監禁だと思っているわけ」

 不穏な言葉だが、視点を変えればそうなるのもわかる。前世とて、大きな権力に見初められるだけの能力を持っていれば、何某かの組織に厚遇という枷で縛られていた。

 冒険者が停滞を嫌がるように、研究者というものは研究の妨げになることを嫌う。研究に没頭できるように援助してやろうと言われたら、喜んでしまうきらいがある。無尽蔵に研究予算が組まれ、自分の生活が安泰であれば満足だと思っていると、囲われてしまって抜け出せなくなるという話は聞いたことがある。その団体が善かれ悪しかれ、気づいた時にはもう遅い、ということはよくある話だ。

「『前世持ち』だと厚遇されるって噂があるけど、実際そうでもないんですか?」

「それは人によるよねぇ。王宮がある街は、クラーロフスケ・ヒリアというんだけど、『前世持ち』の人はそこで生活することになるわけ。もちろん、中央土地だからどこよりも発展していて、前世の生活とさほど違いがないぐらいに清潔で、快適ではある。けど、そこにいることが幸せとは限らないだろ?」

「それは、そう、かも」

 ぼくの置かれた境遇に比べたら、天と地ほどの開きがありそうだが、それと幸せかどうかは別の話だ。

「目ぼしい前世の記憶がなくても彼らの持っている社会規範は、こちらの人間、特にクラーロフスケ・ヒリアで生活する人たちには重要なものでね。ソウたちのいう『チャムキリ』の持っている感覚というのは『前世持ち』が持ち込んだ価値観が元になっているわけだ」

 難しい話になってきた。思考する時に使っている言語は日本語ではあるが、他者との会話で用いたことはない。思考時は自分がよく理解している単語を使いがちなので、滅多に使わない単語については意味を思い出すのに難儀する。

「ええと、つまり、ぼくたちの前世での善悪や道徳みたいなものを、こちらの人は重要視している、ということですか?」

「それに、生活習慣なんかもだな。手を洗うとか歯を磨くといった、俺たちにしてみれば当たり前過ぎて意識したこともないことが重要なわけだ」

「何故です? ナクタに聞きましたが、一万年ぐらい、歴史があるわけでしょう?」

 ぼくは純粋に不思議に思った。ナクタの話によれば、こちらの人類史は一万年以上続いているということになる。シュメール人がいた頃からぼくが生きていた時代ぐらいの年月が経過しているということは、同じぐらいの文明レベルにあってもおかしくはないのではないだろうか。

「そこが肝だ。クラーロフスケ・ヒリアの歴史というのは、聖女登場後の歴史であるわけ。そして、その聖女こそが最初の『前世持ち』なんじゃないか――と言っている研究者もいる」

「なるほど?」

 ムスタの言いたいことが分からず、ぼくは首を傾げた。

「研究者によれば、聖女が現れる度に、文明水準が引き上げられた、とされている。つまり、こちらでは聖女が『智恵の実』だと思われているわけだ。で、俺は聖女というのは『前世持ち』の中から選ばれているんじゃないか、と思ってるわけよ」

 ムスタの言葉を反芻しながら、ナクタの言っていたことを思い出していた。確か、最近召喚された聖女は四百年前だと言っていたのではなかったか。

「聖女は召喚されるんじゃないんですか?」

「そう言われているけど、実際どうやって現れているのかを知っている人は一握りだからな。召喚という言葉を俺たちが認識している意味通りとするのかどうかも、怪しいところじゃないか?」

 そう言われてしまうと、そうなのかもしれないと思ってしまう。このあたりのことは考えても無駄なことはわかっている。何しろ前世の知識は全く役に立たない。

 聖女だ召喚だなどというのは、オカルトか創作の世界でしか聞いたことがない。昔の人は、やれ鬼だとか、悪魔だとか、神だとか、そういったものが本当にいると思っていたのかもしれないが、ぼくが生きていた時代にそんなことを本気で信じている人など、ごく一部の偏った人たちだけだったろう。その常識からすれば、聖女を召喚するなんていう文字列を本気で口にする人は、どうかしている範疇にいることになる。

 が、魔法というものが存在してしまうこちらで、前世の常識を引っ張り出してきたところでなんの意味があるのだ、という気もする。そもそも『前世の記憶』などというものを持っている人間がゴロゴロしていて、それが文明文化に発展に寄与しているということ自体がどうかしている範疇なのだ。

「聖女の持ち込んだ社会規範を、当然のように認識している人々が現れるというのが、聖女信仰にとって重要なことであるし、聖女への信仰は王への信仰にもなるわけで、王の権力を盤石とするのに必要不可欠な存在というわけだ」

 結ぶようなムスタの言葉に、ぼくは曖昧に頷いた。

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