三十七通目 正体不明

「何があった?」

 耳に届いた言葉は日本語だった。自身の脳内では日々操っている言語だったが、目の前にいる人から聞くのは久々で、何故か涙腺が緩んだ。が、泣くわけにはいかない。ぼくは考えるふりで目頭を押さえた。

「ナクタたちについて歩いていたはずが、急に違う場所に踏み込んでしまったんだと思います。真っ暗でしたが、花と水の匂いがしました」

「花と水?」

 ムスタが不思議そうに言った。周囲に目をやっている気配もする。ぼくは顔を上げ、ムスタを見つめて首を横に降った。

「ここではないどこかに、一度出たんだと思います。そこでこの本を見かけて、手に取ろうとした瞬間、ここに居ました」

 自分の声を聞きながら、意味がわからないことを口走っているなと思ったが、ムスタは言葉を挟まずにぼくの話を聞いて、顎に手をやった。

「俺はあの通路から直接ここに来たんだ。どこかを経由はしなかったな。本を見かけたということは、外に出たとか?」

「いえ、地上ではなかったと思います。本が見えたのは――本が光ったからでして」

「ああ、さっき夢で光ったって言ってたね」

 そういえば、そんな説明をした。

「変な空間に移動してしまったことや、本が光ってたので夢だと思ったのですが、ここに実物があるとなると、夢なのかどうか」

 ぼく自身、あれが現実だったのか夢なのか、はっきりとわからない。ダクパを裾にしまっていたことや、夢で見た本が実態を持ってここにあるということを考えると、現実だったのかもしれないと感じる。が、夢みたいに支離滅裂だ。

「現実味がないから夢だと思ったのか。まあ、確かになぁ」

 日本語を使うムスタは、少し声が高く感じる。チャムキリの言葉の時は、もっと喉の奥から声が出ている感じなので、低く聞こえるのだが。こうして話していると、前世でのぼくとそう歳が変わらないのではないかと思った。

「この本にしたって、手にした覚えはないんですよ。気づいたら、というか、指摘されるまで持っているなんて、思ってもいなかったので」

 思わず手を伸ばしはしたが、手にした覚えはない。まして、仕舞い込んだ記憶など欠片もないのに、どうしてここにあるのだろうか。夢遊病のきらいでもあるのか。そんな行動は今まで一度もしたことはないのに、急にここで発症するのもおかしな話だ。

 そこで、ムスタの指摘を思い出した。この本の存在に気付いたとき、ムスタは『魔力が強いものがある』と言ったのだ。ぼくには魔力というものがどういうものなのかわからないが、冒険者たちが使っているのを見る限り、何某かの影響力があるということだろうと思う。わかりやすいのは攻撃魔法だが、光源となる魔法であったり、罠を仕掛けたりするものもある。もしかしたら、この本がぼくを操作したのだろうか。植物が虫を誘き寄せて花粉や種を運ばせるように、ぼくに運ばせて別の場所に移動しようとしている、とか――そう考えると、本の存在が恐ろしくなってきた。

「ムスタさんが良ければ、なんですが、この本預かってもらえませんか」

 ぼくは布ごと本をムスタの方に押した。

「ぼくの立場では、魔窟のものを外に持ち出すことはできませんし、魔力が強いのでしょう? そういうものの扱いには慣れていないので、不安で」

 魔導具師のムスタであれば、魔力というものとの付き合いはそれなりにあるだろう。少なくともぼくよりは慣れ親しんでいるはずだ。なんらかの影響力を持っているのだとしたら、ズブの素人のぼくが持っているより、ムスタが持っていた方が何かと安全なのではないだろうか。

 ぼくの提案に、ムスタは軽く頷いた。

「魔物の可能性がないわけじゃないしな」

「え。本型の魔物なんているんですか?」

 ムスタの言葉にギョッとした。魔物となれば、影響力のあるなしどころの話ではない。

「本がたの魔物の発見例はないけれど、発見されていないというだけ、とも言える。それに、今は本の形をしているけど、本当に本かどうかもわからないだろ?」

「どういうことですか?」

「魔物には、人の記憶の中の何かに擬態するヤツもいるんだよ。そっちは報告されてるもので、実態はガスみたいなものだったかな。そいつだとすれば、ソウの記憶から、この形をとったということになる」

 ぼくの記憶からなのだとしたら、前世での記憶から引っ張ってきているということになる。なんだか踏み絵をさせられているような気分だ。もしかしたら、こちら側で出回っている家電的なものは、そういう魔物から展開していったのだろうか。

「まあ、この六層は探索し尽くされてないから、未知のものがあっても不思議じゃないしな。ソウが不安だというなら、俺が預かるよ」

 ムスタが胸ポケットから紐を取り出して、本を囲み、魔核をポケットに入れた。小型のアーレトンスーのようだ。

「ソウ、聞いてもいいかな?」

 アーレトンスーをしまいながら、何気ない調子でムスタが言った。雰囲気に流されることなく、ぼくは慎重に頷く。

「どうして『前世持ち』であることを告白してきたの? この本のせいかと思ったけど、今の話だけなら、うまいこと、誤魔化せたよね」

 その鋭さに、ぼくは苦笑した。

「ぼくがチャムキリの言葉を自由に話せないのと、ぼくたちが使っている言葉は語彙が少ないので、ムスタさんとの共通言語の可能性が高い日本語で話せたらと思ったのが、ひとつ」

 このことについては、ムスタがすんなりと日本語を使ってきたことで、意思疎通はできている。

「もうひとつは、一緒に考えてもらいたいことがあるからです」

「考えてもらいたいこと?」

 ムスタの声のトーンが少し下がる。こちらが本題であることはわかっているが、内容が想像できないので慎重になっているようだ。

「先ほど、一度別の空間に出た、と言いましたよね」

「花と水の匂いがする場所のことか」

「はい。その時に、声がしたんです。子どもの声のようでしたが、姿は見えなかったので本当にそうなのかはわからないんですが」

「喋ったのか?」

「一方的だったので、会話したわけではないのですが――日本語でした」

 想像していたようで、ムスタは大きな驚きは示さなかったが、顎を指で揉み始めた。

「だから夢だと思ったのか。なるほどな。それで、なんて言ってたんだ?」

「それほど意味があることではないです。ぼくが咄嗟にダクパを咥えたら『それを終え』と言われました」

「ダクパってなんだ?」

「ああ、これです。ぼくたちの使う魔物除けです」

 地面に落ちていたものを拾い上げ、ムスタに渡す。彼は興味深げに眺めながら「タバコのようなものか」と呟いた。

「『怯えなくても、何もするつもりはないし、おれはすぐに出ていくよ』『それじゃ、せいぜい楽しんで』とだけ。近くに誰かがいた気配はなかったし、真っ暗でしたが、相手からはぼくが見えているようでしたね」

 ムスタはしきりに顎をいじりながら、瞼を閉じた。何かを考えているのか、はたまた思い出そうとしているのか、少しばかり難しい表情になっている。

 下手に口を開いて思考の邪魔をするのもどうかと思い、ぼくはぼくで、あの時のことを考えてみることにした。

 今までになかった視点として、『記憶の何かを擬態する魔物』という先ほどの話題が思い起こされた。本体がガスのようなものなら、気配を感じ取れなかったのも当然という気がしてくる。ぼくの記憶にどうにかして接触して、日本語を使ったのだろうか。日本の妖怪に『覚』というのがいるが、ああいうものなのかもしれない。ダクパが嫌いだということから、魔物の類だと推測することもできる。ダクパはタバコと同様に臭いがキツイので、単に煙臭いのが嫌だといったらそれまでだが。何にせよ、ぼく自身が生み出した何かというよりは、意思を持った何かであると考えた方が正しいのではないかと推察する。

「うーん、わからんな。何故、ソウは花と水の場所を経由して、俺はしなかったのか。条件の違いなのか、誰かひとりが通過する必要があっただけ、またはたまたま通過した、ということなのか?」

 考えが行き詰まってしまったらしく、ムスタは後ろ手をついて天を見上げた。

「ナクタたちが通れず、俺たちがここに来たということは『前世持ち』である、という条件があるんだと思う。もしくは『前世持ち』で『元日本人』という条件かもしれないが。いずれにせよ、そこは俺もソウも同じと考えられるが、花と水の場所については全くわからないな」

 ムスタが考えていたのは謎の日本語の方ではなく、ここに来るための条件の洗い出しだったようだ。ムスタの指摘通り、あの通路からここに来たのは『前世持ち』のふたりだ。今まで誰も来たことが無さそうであるから、今のところラクシャスコ・ガルブの六層を通過した前世持ちはぼくたちだけなのだろう。

「あの本を移動させるために誘き寄せられたのではないか、と思ったんですが、どう思いますか?」

「そうなると、なかなかに重要な品ということになるなぁ」

 ムスタはアーレトンスーをしまったポケットを軽く叩いた。

「でも、そうだとしたら安心だ」

「何故です?」

「移動させるのが目的だとしたら、ここで終わりってことはないだろうからね」

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