三十六通目 告白
極度の緊張状態の後にやってきた長い静寂の時は、ぼくに眠気を運んできた。
厄介なことに、今ぼくがいるこの場所は、ぬるま湯に浸っているかのような心地よい温度で、どこまでも暗く、静かなのだ。
魔物の放つ臭いも音も聞こえなければ、どうしたって気持ちは緩む。吸血毒虫は音もなく忍び寄ってくると聞いているが、だからといって気配も感じないものに緊張し続けるというのは難しい。
柔らかくも分厚い眠りの帷が、ぼくの上にゆっくりと降りてくるのを感じる。
この眠気は、魔物の持つ能力なのかもしれないと思って目に力を入れる。四層に出没する植物系の魔物で、眠気の胞子を飛ばすやつがいたはずだ。確か、グルザントゥと呼ばれていたはずだ。
と、思い返して、ぼくは首を傾げた。
その名前を聞いたのは、四層を一緒に歩いたリュマの誰かからだった。グルザントゥが生えている場所で休憩をしたため、全滅してしまったという昔話を聞かせてくれた。その時、彼はグルザントゥはシダ植物だと言っていなかっただろうか。
「シダ?」
シダといえば、前世で使われていた言葉だ。ぼくが認識している限りでは、日本語であったはずだ。
魔物の名称は、第一発見者が名づけることが多いと聞いたことがある。最近では、他の魔窟で発見されたものと同じ形態のものは、先行魔物と同じ名前が適用されることがほとんどのようだが、特定の魔窟だけで見られるものもいるので、そういった新種を探し求める冒険者たちもいる。
発見された新種と思われた魔物は、サンガに登録され、学者に鑑別される。新種の可能性があれば、研究所に正式に回されるのだそうだ。研究所に送る時に、命名権が与えられ、新種となればそれがそのまま登録される、という流れらしい。
ということは、冒険者の誰かが植物系の魔物に『シダ』と名付けたことになる。偶然に前世で使われていた言葉が、同じ生態の植物に適用されたというより、知っている誰かがつけたと考えるほうがしっくりくる。シダ植物という使い方をしていたことから、魔物に名前をつける動きがあったかなり早い段階で、名付けられた可能性が高い。
意外に思ったのは『前世持ち』であるのに、冒険者を選んだというところだ。
ムスタも言っていたように、今現在『前世持ち』であるということだけで、有利であることはほとんどない。前世の記憶で何かを成せる者は、前世でもかなり優秀な人物だったはずだ。極々普通に生きていたとだけでは、プラスどころかマイナスにさえなる。
思うに『前世持ち』というのは先行者利益な基盤環境だ。後発になればなるほどそれだけではどうにもならない。
ぼく自身、神の加護だとか、特殊な何かを得ているわけではない。身体的にも能力的にもどこにでもいる子どもと変わりはしない。前世で得ていた『学び方』というものが多少有利には働いているが、それだけだ。前世では、スイッチを押せばお湯が出るような環境で育っていたのだから、水道という仕組みすらないケルツェの環境で生きるのに、前世の記憶なんてあるだけ邪魔なぐらいだ。
であるから、シダ植物という名付けをした誰かが、冒険者をやっていたかもしれないと考えると意外な気持ちになる。
鑑定の結果、魔窟探索に有用な能力があったということなのだろうか。それとも、名づける頃にはすでに、他の事柄は先行者によってされ尽くした後だったのだろうか。
それとも――。
繋がりそうで繋がらない何かを探そうとしたが、眠気がとろりと落ちてきて、後頭部を痺れさせる。抗いがたい、じんわりとしたその感覚を振り払おうと思った時にはもう、腕は重く、意識は手綱を離れた。
「おお! よかった! 死んでるわけではなさそうだ!」
すぐ近くでした大声で目を覚ました。顔が濡れていて不快だ。何がなんだかわからないが、とにかく暗い。
「いやいや、ごめんごめん! 死んでたらどうしようと思って、水を少々。変なものじゃないから安心して!」
「――誰です?」
すぐ近くに人がいるらしいことはわかるが、それが誰だかはわからない。相変わらず辺りは真っ暗なままで、視覚から得られる情報はない。
「失礼失礼。ムスタですよ。ムスタ・トラディン。君は、タバナ・ソウ・ケルツェ。記憶は大丈夫そ?」
「大丈夫です。シュゴパ・ムスタ」
眠ってしまったのかと思った次の瞬間には、ムスタがここにいるという異常事態に気付いて混乱した。それとも自分がどこかに移動したのだろうか。けれど、ナクタたちの気配はなく、周囲は暗いままだ。どういうことなのだろうか。
「俺も何が何だかわからないんだけれど、どうも移転の仕掛けかなんかあったみたいで、気付いたらここにいたんだよねぇ」
声のする方から、地面に何かを書きつける音がした。ぼくと同じように記録しようとしているのかと思ったが、次の瞬間地面から光が広がったことで魔法陣を描いていたのだと理解した。
「見なくても書けるって、すごいですね」
「これは基本中の基本でね、冒険者になるなら目を瞑ってでも書けないってヤツ」
「ナクタに、六層の最初の灯りを見せてもらいましたが、消えないのですね」
「魔窟に直接書いたものは、陣を崩さない限り魔力が提供されるからねぇ」
そういう仕組みなのかと納得しつつ、ムスタの形を把握してほっと息を吐いた。思っていたよりも緊張していたようだ。
「怪我はない?」
「大丈夫です。どれぐらい経ちましたか?」
ぼくがいなくなり、ナクタたちはどういう動きをしたのだろうか。全員か、数人かでムスタを呼びにタシサに戻ったのは確かだろうが、その時、ナビンに会ったり、ぼくがいなくなったことを伝えたりしたのだろうか。
「今は『タイヴァスタヒ』だから、三時間ぐらいかな」
チャムキリの時間は未だに覚えられない。三時間というのが、前世と同じものなのか、そうでないのかもわからない。わからないことが結構多いということだけが確認できただけとなった。
「ソウ。さっきから気になってるんだけど、それは何? どこかで採取した?」
「なんのことです?」
「荷物に、魔力が強いものが入ってる。タシサを出る時にはなかったはずだけど」
ムスタが指したのは、ぼくが腰に括り付けた布包みだった。中に入っているものと言ったら、必要最低限のものしかない。魔力の高いものと言われても、心当たりはない。
布包みを外し、ムスタの目の前で開いていく。
「あっ」
見覚えはあるが、持っているはずもないものを見つけて、ぼくは声を上げた。それほどに意外なものだった。
「――これに、見覚えは?」
ムスタが視線でぼくに問うてきたが、どう答えていいのかわからず、それを凝視して眉を寄せた。
そこにあったのは、文庫本だった。
夢とも現ともつかない時空で、眩い光を放ったそれが、どういうわけか荷物の中に入っていた、ということになる。
「夢で、見ました」
ありのままに語ってみても絵空事のような話だ。ぼくは夢のこととして、ムスタに夢の中で光るこれを見たのだと答えた。
「触ってみてもいいか?」
「ぼくはいいです。でも、大丈夫かはわかりません」
「それはそうか」
本の上にかかったままだった布を退けると、そこにはタイトルが書かれていた。それを見た瞬間、ぼくはまずいものを見たと感じた。
薄茶色の紙に黒々とした明朝体で『主人たる者へ』と書かれているそれは、どう見ても日本語だった。ぼくが知る限り、こういった字体はこちらで見たことがない。
ぼくが歌った歌を知っているということは、ムスタの前世はぼくと生きた時代が同じである可能性が高い。年齢差があったとしても九十歳以上の開きはないだろう。とすれば、この文字は確実に読めるはずだ。
チラと視線を向ければ、ムスタは思案げな顔をして本を見つめている。ぼくは嫌な汗をかきながら、なんといったら良いのかを考えた。
今現在、ぼくの知る『前世持ち』はムスタだけだ。同じ国で、同じ時代を生きていた可能性が高い人物がすぐ近くにいるというのは、どれぐらいの確率なのだろうか。
今まで通りシラを切り続けることもできるが、この本の存在がその気持ちを揺るがしてくる。本があるということは、あの空間もあった可能性が高く、あの時の言葉も日本語だったのだろう。
手にした記憶のない本が荷物の中に勝手に入っていたことや、日本語で書かれているとなると、何かあった時に相談できる相手はムスタぐらいなものだろう。
何かあった時とは思ったが、すでに『何かあった後』なのかもしれない。
「シュゴパ・ムスタ」
ぼくは正座してムスタを見つめた。ムスタが読めない表情で見つめ返してくる。胃のあたりがギュッと縮んだ感じがする。緊張しているのだろう。
「ぼくは、あなたのいう通り『前世持ち』です」
告白するもムスタの表情は変わらなかった。ぼくをじっと見つめたまま、しばらく無言だったが、大きく二、三度瞬くと口を開いた。
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