三十五通目 幸福であるために

 自分の形すら確認できない闇の中で、ぼくはただ自身の鼓動の音を聞いていた。

 正常ではない速さに飲まれそうになったが、この音はぼくがまだ生きているから聞くことができるのだと自分自身に言い聞かせる。雰囲気に飲まれてしまうのが一番恐ろしい。体の形を目視できなくとも、心の形は捉えることはできる。

 鼻からゆっくりと息を吸い、数秒止めて、口から時間をかけて吐き出す。前世で柴が教えてくれた気持ちを落ち着かせる方法だ。焦ると酸素の吸引が多くなって、酸素ボンベをすぐ使い果たしてしまうから、呼吸を整えることが何より大切だと言っていた。ここは柴が目指していた高所ではないし、酸素ボンベを背負っているわけでもないが、気持ちを落ち着かせるという目的は同じだ。

 若干の不安としては、この階層にいる吸血毒虫に居場所を教えてしまうのではないか、ということだ。蚊は動物の吐き出す二酸化炭素に反応して集まってくるという話を聞いたことがある。実際この魔窟には人の吐く息でこちらの居場所を探知する、アフミミネンという魔物が存在する。

 ズボンの裾を折ったところに隠したダクパと火付道具を取り出して、火をつけた。

 また叱られるかと思ったが、今度は叱責されることなく、人の気配もないままだ。先程の空間とは全く違う場所なのだろう。

 少し考えて、灯りをつけて周囲を観察するのはやめた。ぼくが灯り用として携帯しているのは炎が出る魔導具だ。蝋燭よりも少し長い炎が立ち上る形になる。ケルツェではひとつ火は不吉の象徴だ。ひとつ火で観測されるものは、よくないものとされている。

 迷信を信じるわけではないが、今現在、すでによくない状況にいる。これ以上状態を悪化させるのはよろしくない。吸血毒虫が光に寄ってくる習性を持っている可能性もある。効果があるとされているダクパをふかし、ぼくらの特性である魔物に見つかりにくい体質というのを利用することぐらいしか、できることはない。

 ぼくは自分の体を手で探った。五体に不足はなく、大きな怪我もないことは幸いだ。身につけていた荷物も全て持っているようだ。それらを確認すると、心に少しばかりゆとりができた。ゆとりができると思考がめぐる。ぼくは、ナクタたちとはぐれてからのことを思い返した。

 あの時、ぼくは確かにデラフの踵を見ていたはずだ。はぐれるのだとしたら、何故デラフは一緒ではないのだろうか――あまり、良い問い立てではないようだ。これ以上のことが何も出てこない。

 何故、ぼくだけがここにいるのだろうか。

 少し視点を変えてみると、可能性がいくつか湧いてくる。考えられるところとしては、ぼくがチャムキリではないということや、『前世持ち』ということだろう。他には、リュマの中で魔法が使えないから、だとか、武装していないから、ということも考えられる。彼らとぼくを分ける要素はいくつも思いつけた。

 では、昨日彼らと共に六層を探索したナビンが無事だったのは何故か。一番最初に浮かんでくるのは、昨日と今日とで探索している場所が違うということだ。ナビンは六層に何度か入ったことがある。経験がないぼくとは違い、本格的に探索することもできただろう。今日は初心者用の通路をとったがため、ナビンは当てはまらなかったと考えることができる。または、ナビンが『前世持ち』ではないから、という篩がある。

 では、現段階で『前世持ち』であることが判明しているムスタはどうだろうか。ムスタであれば、ここに来ていたら灯りをともしておくだろうし、ナクタたちにも情報提供をしているはずだろう。ムスタはぼくを『前世持ち』だと思っているから尚更、この通路は通らないようにと伝えると考えるのがスムーズだ。

 ナビンもムスタもここに来ていないと考えた場合、ケルツェ出身で『前世持ち』であることが条件なのかもしれないという考えが浮かんでくる。もちろん、ぼくがたまたま運悪く、変なところに足を踏み入れてしまっただけという可能性も否定はできないが、そうなると再現性というものはなくなるので、不運という一言で終わってしまう。

 そのあたりの思考回路はこれ以上の解をもたらさず、堂々巡りになってきたので考えを区切る。次なる議題は、先程の出来事は現実だったのか、だ。

 頭部を強打でもして、脳が揺さぶられている間に見た白昼夢的なものだったのではないか。そう思うのは、あの空間のリッチさだ。植物の甘い香りがして、水の湿度を感じた。長らく地下にいると、そういったものを恋しく思うことがある。毎日のように鉄錆臭い空気の中で、変わり映えのない赤茶の土壁を見続けていると、心が荒むのだ。

 それに、あの時聞いた言葉は『日本語』だったように思う。都合のいいように変換している可能性は否定できないが、今現在の言葉よりも語彙が多く、慣れ親しんだ言葉であったように感じた。この辺りの集落の言葉は語彙が自体が少ない。前世で培った感情を表す多様な言葉がないのでもどかしく感じることが多いのだ。そして、チャムキリの使う言葉についても、まだまだ勉強中で自由自在に使いこなせる域には達していない。

 投げかけられた言葉は多くはなく、一方的なものであったけれど、それでも十分に伝わったことから考えても、日本語であったと考える方が自然な気がする。

 となれば、やはり夢なのではないかと思うのだ。ぼくを『前世持ち』だと断定しているムスタでも、日本語で話しかけては来なかった。チクショウという言葉が口癖にはなっているようだが、彼にとってはすでにチャムキリの言語の方が使いやすいのかもしれない。突然現れたぼくに対して、あんなに自然に日本語を向けてくるなんてことは、夢でもなければありえないだろう。

 だとすれば、発光する文庫本についても、夢の出来事だからそういうこともあろうだろう、とすんなり思える。記憶の混濁が生んだ幻なのだからなんでもありだ。

 のだが。

 ぼくは自身の唇に意識を向けた。そこにはダクパがある。このダクパをズボンの裾から取り出したことを考えると、夢と考えるのには無理があろうだろうとなってくる。

 魔窟に何度か入ったことがある人間は、自分なりの規則というものを設けることが多い。いつ何が起こるかわからない状況の場所で、自分自身のことがわからなくなるのは命取りだからだ。先程のような正気を取り戻すための呼吸法だったり、験担ぎのアイテムを持っていたりするのと同じように、何をどこに納めるかを決めていることも多い。

 ぼくの場合は、腰にナイフを結え、首から匂い瓶を下げるという他に、首から下げる巾着にはダクパと火をつける道具を入れておく習慣があった。魔物除けになるものは、咄嗟に取り出せる方が良いし、ダクパには血液を止める効果もあるからだ。

 なので、ズボンの裾からダクパと火つけ道具が出てくることはほとんどない。あるとすれば今回のように、しゃがんでいる時に咄嗟にしまった場合ぐらいのものなのだ。

 ぼくは額に手を当て、顔を険しくした。どんなに思い返しても、タシサを出てからズボンの裾にダクパを隠すような出来事は、先程のことしかない。となると、あれは白昼夢でもなんでもなく、実際に体験したということになりはしないだろうか。

 実際のことなのだとしたら、日本語を喋る何かがいたことになるし、発光する文庫本という謎の物体も存在したことになる。発光する文庫本、しかも消える。ということだけでも異常ではあるのだが、本の様子からして、此方では見たことがないものだった。此方にやってきた『前世持ち』の働きかけがあってか、本は見知っている形にはなっているが、発光する本はいかにも文庫本らしい様子だった。此方で流通している本は、そこまで小さくなっていないし、高価なこともあって革表紙であることがほとんどであるし、装飾過多なものが多い。

 思考を整理しようとしているのに、どんどん複雑になっていくことに、ぼくは嫌気がさしてきた。何もかも忘れて、暖かく安全な場所で永遠に眠っていたいような気持ちになってくる。

 しかし、思考を放棄してやってくるのは本能が呼び起こす恐怖しかない。現状を把握すれば、不幸な最期しか想像できないからだ。

 ナクタたちにとって、今日選んだ通路は安全性の高いものであっただろう。ナビンやニーリアスがあれほど心配していたのだし、それを裏切るほど悪人ではない。はぐれやすいとは言っていたが、それは六層のつくりそのものがそうであるだけで、そういう通路を選んでいるわけではない、と信じたい。

 そうすると、ぼくが突然こんな場所にいるというのは、彼らにとって想定しなかった事柄だろう。当然、ここに来たことがある人もいないはずだ。彼らにとって全くの未知の領域にぼくはいる可能性がとても高い。となれば、彼らによる救出もあまり期待はできない。そして、彼らが無理ならば、他の誰でも無理だろうことは、これまでの経験でわかっている。

 誰にも頼ることができないのであれば、自力でどうにかするしかないが、ここは六層だ。足を踏み入れた冒険者もそう多くはない場所で、ほぼ丸腰のぼくがどうにかできるかというと、こちらもかなり無理という状況だろう。

 どちらも無理ということになれば、行き着くのは餓死か、魔物の襲撃を受けて餌になる未来だ。どちらも愉快ではないが、選択を迫られた場合は、可能な限り自刃するつもりだ。限界までの空腹も辛いし、生き餌にされるのは物凄く嫌だ。

 もっと生に貪欲になるべきだという人もいるだろうが、何せ、二度目の人生だ。望むと望まざると、人生というのは天命に定められていると考えたほうが楽だと学んでしまっている。

 物語としては、運命に抗うほうが美しいのだろうが、実際の生活というのは、それほどドラマティックではないし、抗った結果、望ましい報酬が与えられるものでもない。どちらかといえば、それは稀で、稀であるから輝かしく見えるものなのだ。

 苦い唾を吐き出して、考えを中断させる。良くない方向に走り出すと、わずかに粘ることすら放棄してしまいそうだ。

 自刃すると決めはしたが、もうちょっとは生きるつもりであるし、遺せるものがあるならば遺すつもりだ。

 ベルトからヤスリを引き抜き、今日がいつであったかを思い出す。思い出したら、暗闇の中、勘だけでそれを地面に刻みつけた。ぼくがここにいつ来たのか、どのあたりから来たのかといったことを、思い出せるだけ思い出し、刻みつけておくことにする。

 魔物によって踏み荒らされ、消されてしまうかもしれないが、残っていれば後の誰かの助けになるかもしれない。そう考えただけで、幸福になれる。

 死の気配を濃厚に感じながらも、微かな願望だけは捨てずにいたいと思った。

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