三十二通目 実力
ウィスクのリュマとともに朝から出て行ったたナビンは、夕食前に戻ってきた。
「よお。どうだった?」
ニーリアスに尋ねられたナビンは、ぼんやりとした様子で何も答えず、寝台の前に座り込むと、空な視線を中空に彷徨わせた。
ぼくは何か良くないことでもあったのかとニーリアスを見たが、ニーリアスはぼくの肩を叩いて水場に移動した。
「ちょっとそっとしておこう」
緊張感のないニーリアスの声色に、差し迫った何かがあるわけではないのだと理解しほっとする。と、同時に、どうしてあんな風になっているのかがわからなくなり、首を傾げた。
「想像を超えてたんだろうなぁ」
苦笑気味にそう言ったニーリアスが、何かに気づいたようにぼくの脇腹を小突いた。
「お客さんだ」
振り返ると、ウィスクとナクタがこちらに近づいてくるところだった。
「ドゥケ」
すでに馴染みとなった上機嫌な笑顔のナクタに、挨拶を返す。ウィスクは岩に腰掛けながら「ツォモ茶ちょうだい」と、こちらも馴染みとなった言葉を口にした。
「そんなに飲んでたら、茶葉、尽きちまうんじゃないですか?」
「えっ、そうなの?」
ニーリアスの指摘に、ウィスクが驚いた顔をする。ぼくは驚きを見せるウィスクに驚いた。魔窟の中にいるのだ。余裕のある物資などあるわけもない。
「なに驚いてんです。ここは魔窟ですよ?」
「売り物じゃないって言ってたから、そうだろう」
ニーリアスとナクタが全く別のことを言ったが、どちらももっともなことだったので、見つめてくるウィスクにぼくは頷いた。
「えっ。じゃあ、一回地上に戻ろうか?」
「すぐに無くなるわけじゃないです」
腰を浮かしかけたウィスクを手で止める。余程気に入ったのだろうか。ツォモ茶のことになると、ウィスクは冷静さを欠くところがある。中毒性を生む成分は含まれていないはずだが。
「無くなりそうになったら言って。一緒に地上に戻ろう」
「わかりました」
応じながらツォモ茶を準備する。今日は、出払っているリュマが多く、炊事場は普段より落ち着いているので、座り込んでいても邪魔にならない。
「ナビンは?」
地面に直接座り込んだナクタが、炊事場に目をやりながら尋ねてきた。そこでぼくは訪問の意図を理解し、奥の方に視線を向けてナビンを探した。
「休んでますよ」
ニーリアスが炙った干物をナクタに手渡しながら答えた。
「色んな処理が追いつかないんでしょうな。何事もなかったんですよねえ?」
確認するまでもないといった様子のニーリアスに、ナクタは真面目な顔で頷いた。
「今日は安全第一だったからな」
今日はということは、いつもは安全第一ではないということか。そして、その自覚があったのかと、ぼくはしげしげとナクタを見つめた。普段の話ぶりからして、いつだって安全にやっていると思い込んでいるのではないかと思っていたのだ。
「ピュリスとウィスクにキツく言われたからなあ。ナビンに安全だと思わせなければ、ソウと歩けないって」
「それはそうだろう」
呆れたニーリアスに、ウィスクも頷く。ぼくは別のことが気になって、言葉を向けた。
「ぼくと歩きたいのですか?」
「そりゃそうさ! 若者にはどんどん知見を広めて欲しいものだろ? その一助になれるってのは特権だものなあ」
ナクタの言葉に、ニーリアスもウィスクも深く頷いている。どうやら共感できるものらしい。チャムキリの文化や宗教に根差した考え方なのかもしれないと考えながら、重ねて質問した。
「足手まといとは思わないのですか?」
「そう思うほどの緊迫感はないんだよねぇ」
答えたのはウィスクだった。
「自分たちの実力が足りないと感じる階層だったり、入ったばかりの場所だったりすれば、誰かを守ってる余裕がないこともあるけど、もうずっと六層にいるからねぇ。毎日散歩してるようなものなんだよ」
退屈そうな言い口に、ナクタは眉を下げた。
「確かに、散歩になってるかもな。ここのところ、新しい発見がないから停滞している感は否めない」
「冒険者っていうのはさ、刺激がないと辛いんだよねぇ。停滞なんて、ほんと最悪」
「やる気に影響でますわな」
ニーリアスが同意するので、これもチャムキリ共通の何かなのかもしれない。ぼくなど、変わり映えのないこの場所に、もう二十日近くいる。退屈を感じてはいるが、最悪とまではなっていないので、チャムキリよりも耐性があるだろう。それはきっと、互いの文化発展の差が影響しているのだろうと予想はつく。
「そういうことだから、足手まといとかはない。逆に、刺激があっていい」
言い切ったウィスクは「それで、どうなったの」とぼくを見て、ニーリアスを見た。
「ナビンの返事はまだだが、あの様子なら大丈夫だろ」
ニーリアスが奥を見ながら言う。ぼくもまた視線を向けるが、ナビンが出てくる気配はない。ここまで動きがないと、具合が悪いのではないかと不安になってくる。
「あの様子って?」
「ぼんやりしてます」
ぼくが答えると、ナクタとウィスクが揃って首を傾げた。
「言ったでしょうが、『処理が追いつかない』んだろうって」
そう言ったニーリアスは、ぼくやナクタたちの顔を見ると、耳の後ろを激しく掻いた。
「一番近い言葉は『驚き』ってとこかね。試してやるってつもりで一緒に歩いてみたけれど、今まで感じたことがない快適さに、自分の中の基準が揺らいだんでしょう」
なるほど、と、ぼくはナビンの様子を思い返して納得した。あの表情は極度の緩和状態にある顔だった。
ぼくたちは戦えないこともあって、冒険者よりも警戒心が強い。場合によっては、一緒にいる冒険者を疑わなくてはならないこともあるので、魔窟にいる間中は、ずっと気を張っているのだ。初めて行動をともにするリュマと、信頼関係ができているリュマとでは、探索後の疲労感が全く違うし、リュマの練度によってもそれは変わる。
ナビンにとって、初めてのリュマであるから普段よりも強めの警戒心を持っていたと思う。実力を確認するためでもあったから力の入り方は十分過ぎるほどだったはずだ。そんな緊張感を持っての六層の探索となれば、精魂尽き果てるほどに疲弊してもおかしくはない。
ぼくは、そういった理由でナビンが疲弊しているのかと考えたが、過度な緊張に反して安全な道行だったことに衝撃を受けた結果、自分の中の価値基準が混乱してしまったことにより、あんな風になったのだとニーリアスは言っているのだ。
翌朝、妙に疲弊した様子のナビンは、ウィスクたちと一緒ならという限定的な条件をつけて、ぼくが行動範囲を広げることを許可してくれた。
それを伝えると、ナクタは踊り出しそうなほどに喜んで「楽しみだな!」と繰り返した。実際には少しばかり踊っていたかもしれない。ウィスクはホッとしたような顔を見せた。
「シュゴパ・ピュリスは嫌がっていませんか?」
ふと気になってウィスクに確認してみると、彼は首を振った。
「全然大丈夫。むしろ歓迎してるよ。ほんとに」
チラとナクタを見たウィスクの視線は疲労感に満ち満ちていた。ナクタとピュリスの衝突が減ってくれれば言うことはないといった表情だ。
「問題はムスタのほうかなぁ。ソウが行くなら一緒に行くっていって聞かないんだよねぇ。いつの間にそんなに仲良くなったのさ」
「いえ、仲良しじゃないです」
思わず被せるように答えてしまったが、ウィスクは気にしていないようだ。
ムスタをどう扱ったものかというのは、今後の課題となるだろう。『前世持ち』であることを公にしたくないという気持ちはムスタも理解しているようだが、ムスタ自身はナクタたちには明かしているように思えた。
隠し事というのは厄介で、秘密の共有ができる相手ができると、気が抜けてついポロリと口にしてしまうことがあるのだ。ぼくはまだ認めてはいないが、ムスタのほうにぼくへの仲間意識が芽生えている以上、秘密の共有相手だと思われてしまう。そうなると、気が緩んで余計なことを口にしそうな気がして面倒だ。
「持っていく荷物など、ありますか?」
「散歩する時のような感じで大丈夫だよ。他のリュマもこの階層に足止めされてるようなものだから、他のタシサも整備が進んでいるしね」
タシサの整備が進んでいるということは、排泄物の始末などは考えなくても良いということだ。とすれば、かなり軽装でも大丈夫だろう。
「早速明日にでもどうかと思っているけど、どう?」
「大丈夫です」
ぼくが答えると、ナクタとウィスクは顔を明るくした。その様子はまるで、遠足前の子どものような感じで、少しばかりの不安を覚えてしまった。
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