二十五通目 希望という毒

 示し合わせたように、タシサを拠点としている全てのリュマが戻ってこない、ということになった。

 ぼくに伝えるという取り決めはなかったはずだが、どのリュマも一言残していった。ナビンは地上にいる頃合いであるし、ニーリアスは奥のタシサに行ってしまっている。結果として、誰もいなくなるということをぼくだけが把握してしまい、少しばかり困ってしまった。

 困ることはいくつかあるが、厄介なのは紛失物が出た場合だ。ぼくだけがタシサにいるということは、誰かの目があるわけでは無いので、留守の間に何かがなくなったとなった場合、ぼくの嫌疑を晴らすのがなかなか難しくなる。消費しないものなら家探しして貰えばいいが、消え物の場合は難しい。食べたり使ったりしていないというのを示す方法がぼくにはないし、相手側が方法を持っていたとして使ってくれるかどうかわからない。

 現在タシサを利用しているリュマは割と質の良いリュマのようだが、冒険者とならず者は紙一重なところもあるというのが定説だ。過去に何かあったところで、他のところに行ってしまえばわかりにくくなる。見た目を変えて、名前を変えて、いい人のフリをして紛れ込むなんてことは、よくある話だという。

 冒険者に比べ、立場が圧倒的に弱いぼくたちは、彼らの気まぐれで罪人になってしまうこともあるし、彼らの身代わりにさせられたりするとも聞く。具体的にどうなるのかは噂の域を出ないが、それもそのはずで、そうなった場合生きて戻ることがないから不明のままなのだ。こんな不穏な話を笑い話のように先達が話すのを、微妙な顔で聞いているのだけれど、いつの日か、ぼくもそんな笑えない話をするようになるのだろうか。

 そしてぼくが最も気になっているのは、負傷者が運び込まれた場合だ。

 タシサはウィスクのような有能な魔法使いが施したさまざまな術式や、高価な魔導具によって安全地帯になっているが、いるだけで回復できるような場所ではない。安全というだけの場所であるから、大怪我を負った冒険者などが運び込まれたとしても、何もできることはない。滞在しているリュマがいれば、回復薬や魔導具によって対応できるのだろうが、ぼくしかいないとなれば、水を渡すぐらいのことしかできやしない。

 もしもニーリアスが、奥からこちらに来る途中で、何かに襲われたりしても、命からがら逃げ延びてきたとしても、ぼくにできることは全くといっていいほどない。一般的な手当の方法は見よう見まねで覚えてはいるが、気休めにもならないだろう。

 そういう事態に陥ることを考えたくはないが、ひとりきりなのだと思うとつい、考えてしまう。

 もちろん、誰ひとり戻ってこないまま、ここで干からびるという可能性も高まる。が、それについてはあまり気にしてはいない。誰かが死にゆくのを見るより、自分が死んでいくほうが幾分かマシな気がしている。何かできたのではないか、という後悔をする時間はほとんどないと思うと、気楽だと思う。


 人の気配がないタシサは静かだ。

 ぼくはひとりきりでツォモ茶を飲みながら、久々の開放感と、わずかな寂しさを感じていた。

 魔窟でひとりきりになることなど、ほとんどない。あるとすれば、死の気配が濃厚になった時だろうと考えていたが、こんな時間を過ごすことになるとは思っていなかった。

 何故今日は全てのリュマが出払っているのだろうかとか、セルセオに何かあったのだろうかとか、ナクタはまた『戻らずの通路』を調査しているのだろうか――そんなことをつらつらと考えながら、考えるべきことから逃げている自分を感じていた。

 ぼくはどうしたいのか。

 あえて考えないようにしていることは、わかっていた。考えても仕方がないことだと思いたいのだろう、というふうに、自分の思考を客観視しているところもあるのだ。

 どうしてそうしているかといえば、期待するのは苦しいと、知っているからだ。希望というのは、抱いてしまうと毒のように脳や心や身体に染み入ってしまう。良いことだと捉える人もいるのだろうけれど、ぼく個人としては前世でも今世でも、あまり良いことだとは思えないままだ。

 ささやかな希望ならば、と思うこともあるが、ささやかかどうかというのをどこで区切るかは難しい。

 美味しいものを腹一杯食べたいというのはささやかだろうか? なんでもいいから腹一杯食べたいというのは? 腹一杯というのがそもそもささやかとはいわないのではないか。では、眠れる程度に腹を満たしたいというのは?

 どうせ叶わないのなら、望むだけ毒というものだと、ぼくは思ってしまう。後ろ向きで消極的で陰気な考え方ではあるが、望むというエネルギーを使わないで済む、楽な生き方なのではないかとも。

 だから、あまり、考えたくないのだ。

 どうしたいのか。

 それは、その問いだけで希望に満ち溢れていて、なんだか苦しい。

 その苦しいものを積極的に望む姉に、まずは可能性を与えて欲しいと思うのは、逃げではあるが、本心でもある。

 ぼくが姉であったら、女であったら、抵抗しただろうか。ぼくが姉の考えを理解できるのは、前世の記憶があり、グムナーガ・バガールで他所の女の人たちを見て、知っているからだ。姉はあの集落で、女は名前を持たず、結婚することで名前を与えられるという環境の中で、違和感を覚え、抵抗し、行動している。

 叶わないかもしれないと思いながら、希望を見つめている。

 姉の願いを叶えてあげたいと本気で思いながら、希望を抱く姉を憐んでいるぼくがいる。なんとも薄情なことであると思いながらも、その考えを変えることはなかなかできない。

 どうしたいのか、という問いは、甘くて、優しくて、毒だ。

 ナクタの話を聞いていると、ぼくの胸に小さな火が灯る。

 ゲームの攻略を聞いている時のような、どうなるのかという期待と興奮を思い出して胸が騒ぐからだ。

 つい、ぼくもプレイしたい! と思ってしまい、そのたびに、ゲームではなく現実なのだと自分に水を差している。

 ナクタに『戻らずの通路』の話を聞いてから、何度も夢の中で攻略した。見たこともない通路を想像して、四方八方を調査して、抜け出た先を想像した。輝かしい結果だけでなく、悲惨な結果になる夢も見た。最悪の結果だったとしても、夢の中のぼくは幸福で、楽しかったと本心から思っていた。

 目が覚めると喪失感を覚えてしまうぐらいには、ぼくの心に侵食してきていて、少し怖いと思っている。

 それはまるで、希望のようだから。

 強い刺激は、強い反動をもたらす。ナクタの話に着火され、胸の火が炎に変わって燃え盛るほど、消火してしまった後の虚しさは大きくなる。

 希望を持たない方が幸福であると思うのは、喪失の辛さを想像できるからだ。

 持っていなければ失うことはないのに、持ってしまえば失う可能性ができてしまう。そして、失った後の感覚を、想像できるぐらいには人生を過ごしてしまっている。

 想像というものは、現実よりも巨大で強大で恐ろしいものだから、想像に食われて、人は命を失ったりする。


「まずいなぁ」

 こんなことをグダグダと考えているのは、心のふちが希望でうっすらと色づいてしまったからなのだろう。

 忙しければ、その色に気づかずにいられたのだろうが、今は何もすることがなく、自分の内側を覗き込むぐらいしかできないという最悪の状態だ。ざらついた砂のような荒野に、草が芽吹いてしまっているような、そんな感覚があった。

 良くない傾向だと思う。

 希望を知らなければ、叶うという夢もなく、失うという恐怖も感じずにいられるのに、知ってしまえば全てを味わわうことになる。

 それがとても恐ろしく、いつか来ると考えるとますます不安になる。

 恐怖と不安を感じると、今すぐにでもそれを終わらせようと考えてしまうのが、また、恐ろしい。

 ここは魔窟の中だ。終わらせるのが最も簡単な場所である。

 ぼくは胸に手をやり、いつも下げている小瓶を取り出した。正気を保つための良い匂いを嗅ぎ、呼吸を整えながら、家族にもらったナイフで小指の先を傷つけた。

 痛みと血の匂いで、希望が少し遠のき、正気が戻ってくる。

 魔窟の中では正気を保ち続けられるかどうかが重要で、何度も潜っている人間であってもふとした拍子に我を失ってしまうこともあると聞く。

 多分、今のぼくはまさにその瀬戸際にいる。

 誰もいないということが、安易に楽になる方法を選ばせる可能性に繋がっているのがとても、良くない。

 魔窟でひとりきりというのは、何かと困ることがあると思っていたが、これが一番きついことかもしれないなと考えて、記憶に刻む。

 ナクタが戻ってきたら、地上に戻ったら話がある、と伝えようと思った。

 姉のことを頼むことにしよう。その約束のために、正気を保つようにすれば、乗り越えられそうだ。

 ぼくは何度か深呼吸を繰り返し、ツォモ茶を一口啜ると、記憶に眠るメロディを掘り起こして唇にのせた。

 歌詞は忘れてしまったけれど、優しく、懐かしく、沁みる曲だったように思う。

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