六通目 出発

 夜が明け切る前の出立になった。

 前日には荷物が渡され、背負いやすいように荷造りをしていく。いつもよりも荷物量が少ないので逆に不安になりながらも、早めに調整を終えて眠りについた。やれることはやっておいたので、すんなり眠りに落ちていけた。

 姉に六層担当になったことを伝え、万が一の場合の手続きをサンガで行った。ぼくに何かあったとき、家族にきちんと報酬が行くための手続きだ。これをやらないで悲惨な結果になった人を何人も見てきた。読み書き計算ができないと、この時点で詰んでしまう。雇い主が心からの善人であることはほぼ無いので、ぼくたちが抱えている問題を利用されてしまう。

 サンガで相談すれば、職員はきちんと対応してくれるし、しっかりと教えてくれるが、こちらから動かなければ何もしてくれない。事が起こってからだと「残念でしたね」の同情だけで終わってしまう。

 質問できるだけの知識を持つことも難しいが、一番の難関は無知を曝け出すことにあるのでは無いかと思っている。チャムキリに比べてぼくたちは圧倒的に情報が足りていないし、知識が足りていないのだけれど、ぼくたちにも自尊心というものは存在する。チャムキリとの歴然とした差は環境によるものなのだが、努力の問題として捉えてしまうと素直に尋ねるということができなくなってしまう。

 チャムキリならば常識であることを、ぼくたちは知らないということはよくある。それを口にすると馬鹿にされたり、蔑んだ目で見られたりする。時には怒られ、時には苛立たれ、迷惑な存在であるように扱われる。そういった軽蔑に晒されると、ぼくたちは萎縮し、虚勢を張り、知っている風を装うことで、自分の心を守ろうとしてしまう。その結果、尋ねることができなかった故に大きな損失を被ったりする。

 ぼくは環境の違いで知識に差があることを知っているし、まだまだ幼いということも知っているし、何より二度目の人生であるので、曝け出してしまうのが一番強いことをわかっている。ので、何かあればサンガに行き、職員にあれこれ聞いてしまうことにしている。理不尽に叱られたりはするけれど、大損することはないと思えば大したことではなかった。

 そうして知り得たことを姉に伝えて、ぼくという存在が無駄にならないように心がけてきた。最も難しかったのが、集団的美意識のようなものの打開だ。これは未だに上手くいっている手応えというものはない。ぼくという個が蓄えてきたものを、ぼくが亡き後手に入れることに抵抗があるようなのだ。横取りするような感覚なのだろう。書類が揃っていても、自分に受け取る権利があると主張することにも抵抗があるようで、そんなことを訴えるのは浅ましいという考え方があるようだ。権力者というのはそういった美意識を悪用することに長けている傾向にあるのだが、これを説明して納得してもらうのは難しい。


 出発は浅層からで、六層担当になったぼくは割と時間があった。いつものように湯を沸かし、ツォモ茶をゆっくりと飲んだ。地上に残していくものは姉が回収することになっているので、潜行に必要な荷物の傍に座り、ラクシャスコ・ガルブに入っていく人たちをぼんやりと眺めていた。

 今日、明日と、ラクシャスコ・ガルブはセルセオ・ガットンの潜行隊以外の立ち入りは禁止されることになった。とはいえ、浅層の警備は冒険者が行うので、ほとんどの冒険者が潜行隊参加者だ。冒険者や歩荷とは違い、普段ではラクシャスコ・ガルブに入らないだろうという雰囲気の人たちも多くいる。

 目立つのは記者だ。軽装で首から下げたカメラがあるのですぐにわかる。紅潮した顔で、地上に残る仲間と大声で話しながらあちこちを撮影している。正直うるさい。次に目立つのは、人数が多い学者らしき人々だ。揃いの白い貫頭衣を着て、烏帽子のようなものを被っている。神職も白い貫頭衣を着ているが、そちらは階級を示す帯と腰紐をつけている。

 彼らはいずれも軽装で、手荷物のひとつもない。これから魔窟に入るとは思えない格好だった。空間魔法を持っていれば手ぶらでも問題ないだろうが、かなり希少な能力だと聞いた事がある。でなければ、ぼくらの仕事は上がったりだ。ともかく、そんな装備で大丈夫か? と言いたくなる格好で、不安で胸がザワザワした。しかし、ぼくには口を出す権限はないし、仕事の範疇でもない。ぼく以上にラクシャスコ・ガルブに詳しい人たちも沢山いるのだから、何某かの対策がされているからこその軽装なのだろう。

 そう思うことにしても、見ていると胸がざわついてしまうので、山々に目を向けた。カルゼデウィは今日も美しく、登りかけの太陽を浴びて煌めいている。そしてふと、もう一度この姿を見られるだろうかという思いが胸を過った。初めての六層に十日は滞在することになる。戦う術をほぼ持たないぼくは、魔物に出会したら瞬殺だろう。髪の一本足りとも地上に戻ることはない。

 納得づくでサンガで書類を整えたはずなのに、ここに来て急に強く死の気配を実感した。カルゼデウィがK2に似ているからだろうか。その山に焦がれた柴のことを思い出すからだろうか。両親よりも祖父母よりも早く死んだぼくが、唯一参加した葬儀は柴のものだった。ぼくにとっての死は印象は、柴に強く結びついていると感じる。一度死を経験しているというのに、死を感じた時に思い出すのは自身の死ではなく、友人のものだというのが面白く、思わず笑ってしまった。

 笑ったことで緊張が解けた。少しずつ、押し込むようにツォモ茶を胃に落としながら、いつの間にか地面を舐めていた視線を再びカルゼデウィに向けた。

 カルゼデウィはケルツェにとって信仰の山だ。生と死を司る女神が住まうと言われている。ケルツェの祖先は女神を守護した側近の末裔という言い伝えがある。そして、神の領域を犯させないための守り人としての使命があるとも。

 山には祈りの場があり、それ以上は神々の領域だと教えられて育った。みだりに踏み入れば神々の怒りを買うとも。その教えに新たな解釈が生まれたのは、ラクシャスコ・ガルブが出現してからだ。下へ下へと伸びる魔窟に踏み入る者は、女神からの加護を失うという話がいつの間にか発生し、定着した。単に、天高く聳える山の頂上から離れることにより神の加護から遠ざかる、という意味合いもあるだろうけれど、地下に降りていくということへの嫌悪感やラクシャスコ・ガルブで豊かになった人へのやっかみもあってのことだと、ぼくは思っている。


 人の数が少しずつ減っていき、ようやく六層担当の順番がやってきた。

 荷物を背負い、ナビンのところに行くとニーリアスもいた。ニーリアスはぼくを見ると笑顔になり「いい顔をしてるな」と言った。多分、良い意味なのだと思う。ナビンはいつもと変わらぬ落ち着いた様子で、今から六層に行くという気負いは、ふたりからは全く感じられなかった。

 ぼくのリュマは冒険者がふたり、学者がひとり、歩荷が三人という組み合わせで、歩荷は、ぼくの他はニーリアスとカリヤという女性だった。ぼく以外は全員チャムキリだと知り、不安のような、逆に安心していいような、なんともいえない気分になった。

 地元の人間は魔窟に飲まれにくいといわれている。であるから、リュマには最低ひとり、地元の人間を入れるといいとされている。そのお守り的な存在に自分がなってしまうことに驚きと不安を覚え、仮にリュマが襲われた場合に自分だけは逃れられるかもしれないという微かな希望がチラついてしまった。

 先頭に冒険者、次にぼく、研究者、カリヤ、ニーリアス、殿に冒険者という並びで魔窟に足を踏み入れた。

 魔窟の中は独特な臭いがする。一層はグムナーガ・バガールの裏路地に似ている。カビと汗と腐臭が混ざったような臭いだ。慣れないとこれでも気分が悪くなるだろうが、慣れてしまえば気にならなくなり、深層から戻れば安堵の匂いに感じるようになる。

 一層から三層へはフルグロを使う計画だ。地上から階段を降りてすぐの右側にフルグロはある。フルグロは三層に通じる竪穴で、簡素なエレベーターのような仕組みになっている。上から下に瘤のあるロープが伸びていて、瘤に足につけた魔導具を引っ掛けるという具合だ。魔導具は安定して降下するだけなので、手でロープを持って姿勢を保持しなくてはならない。地面に衝突する少し手前で反発するようになっているので、落下の勢いで激突することはないが、慣れていないと怖いかもしれない。

 先頭の冒険者が難なく降りていき、ぼくの順番となった。冒険者は靴に仕込みがされているものを使っていたが、ぼくはフルグロの隣に置いてある貸出用を手にした。すると、後ろの学者も貸出用の道具を手に取り、ぼくの様子を見ながら左足に装着した。初めてなのだとしたら、ちょっと苦労するかもしれない。ぼくは学者にわかりやすいように瘤に道具を引っ掛けて見せ、肩上ぐらいの瘤の上をしっかり握って見せると、左足に体重を乗せた。瞬間、落下するような勢いで落ちていき、激突する直前でグンッと浮き上がる感覚に耐える。バネを開いて道具をロープから外し、返却箱に道具を投げ入れた。

 大きく息を吐き出すと、冒険者はちらりと視線を寄越し「ドゥケ」と言った。労いの意味合いだろう。何にでも使える便利な言葉だ。ぼくも笑顔で言葉を返し、フルグロから少し距離を取って上を見上げた。学者が無事に降りて来られるのか、ちょっと心配だった。冒険者が貧乏ゆすりを始めた頃、叫び声とともに学者が降りてきた。上体を支えきれなかったのか、右側面がドロドロになっている。こうなることを見越してか、烏帽子ごと頭にぐるぐると布が巻かれていた。ふらふらになった学者を冒険者が支え、ぼくは道具から足を外してやった。ついでに道具も外して返却箱に入れる。学者をフルグロから離れさせると、すぐにカリヤが降りてきて、ニーリアス、冒険者と続いた。

 憔悴している学者からカリヤが布を外す。どうやらカリヤのスカーフだったらしい。烏帽子を脱ぐのは全裸になるより恥ずかしいことだそうで、落ちないようにできないかと相談されたそうだ。

 文化が違えば恥も大分違うのだなぁと思っていると、ニーリアスが胸元から小瓶を取り出した。一瞬それが酒瓶に見えたぼくはヒヤリとしたが、どうやら気付け用の嗅ぎ薬のようだ。ひと嗅ぎした学者は少し冷静を取り戻した様子でニーリアスに礼を言い、カリヤにも感謝の言葉を述べた。冒険者のふたりも笑顔を見せ、学者の肩を勇気づけるように優しく叩いている。

 少々先が思いやられるものの、この一件で全員の緊張が少しほぐれたのは明るい兆しだった。

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