ドラゴン・カー・セックス・アフター・フォーティーン・イヤーズ

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 食卓の上に並べられた料理が湯気を上げている。

 その料理を前に、母親は息子の帰りを待っている。時折、ぶふう、と疲れたような鼻息をつくと、その息で食卓の皿がカタカタと震えて音を立てる。

 燭台のろうそくの炎が揺れ、辛うじて消える直前で踏みとどまると、しばらくして元の通りになる。

「ああ、嫌だ嫌だ」と、母親は少し食卓の端へと寄った皿たちを、手前に戻す。

 壁に掛けられた柱時計が、ごーん・ごーん・ごーん・ごーん・ごーん・ごーん・ごーん・ごーん・ごーん・ごーん……。

 すると、ぶぶぶぶっ、という駆動音が近づいてくる。息子が帰ってきた音だ。

 母親は立ち上がり、玄関の扉を開ける。

「ああ、やっと帰ってきたのかい……」

 息子はエンジンを切りスピードを緩めると、そのままの惰性で、のろのろとタイヤを廻しながら家の中へ入ってくる。

「まったく、こんな時間まで何処をほっつき歩いてたんだい……」

 息子は答えない。

「黙りんぼかい」と母親は小言をひとつ、更に何か言おうとしてから、

「……あんた、その、頬の傷、どうしたんだい?!」

 目ざとく息子の頬、バンパーの凹みに気づく。

 ああ、と面倒くさそうにしてから、「別に、ちょっと擦っただけさ……」と息子が答える。

「嘘おっしゃい! 擦ったからってこんな凹む訳、ないだろに! 誰にやられたんだい?! 町の連中か?! 相手は、クルマかい? それとも、ドラゴンかい?! どっちだって! 今からお母さん飛んでって、嚙み殺してやる……」

「だから、違うって!」

「じゃあ、一体だれに……」

 息子は押し黙る。柱時計がコチ・コチと時を刻む。ぶふーっ・ぶふーっ、と母親の鼻息。

 やがて観念したように息子が口を開く。

「峠で……」

 ああ! と母親が思わず顔を覆う。

「峠だって……峠だって?! あんた、峠に行ってたのかい?! あれほど、峠には近づくなって、お母さん口酸っぱく言ってきたのにねえ?! あんた、あんたって子は……!」

 ぐおるるるるるるるるる。

 母親が咆哮を上げる。家全体がみしみしと軋む。母親の「轟ッ、応ッ」と吐く息が、ぼおっと真っ赤に燃え上がる。吐き出された炎が家の壁や柱や天井を、そして息子のボンネットを軽く舐める。息子は思わずシフトレバーをリバースに入れて後ろにバックし、壁でお尻のリヤバンパーのあたりを擦ってしまう。

 母親は怒りが収まらないといった様子で、ふーっ、ふーっ、と荒い鼻息を洩らす。その鼻息が、鼻の両穴から漏れる先からちりちりと空気を焦がしている。

 息子が、次に炎が吐かれても対処できるよう、リバースと1速を細かく切り替えタイヤを右に左に振り、玄関からバックで抜け出せる体勢を整える。

 ふーっ、と長い一息を吐いて、母親はようやく落ち着く。

「……もう、いいさ……ほら、晩御飯できてるから……手を洗ってきなさい……」

 そういうと、ひとり背中を丸めて居間へと戻る。

 息子は暫く、四本のタイヤでその場にじっと立ち尽くす。それからゆっくり洗面所へと向かう。


 こち・こち・こちと柱時計の音。食卓の上で蠟燭の火が揺れている。

 冷めちまったじゃあないかい、と母親がごちる。

 息子はそれには答えずに皿の上の、牛のまるまる一頭、それが丸焼きになったもの、それに少し手を付ける。

「中まで、火が通っているかい? 赤いところあったら母さん焼いてやるから……」

 ああ、と息子は気のない返事で答える。それから、ガソリンのスープを一口、二口ほど啜る。スプーンが皿に当たり、かちゃかちゃと音を立てる。

 息子のそのような態度に母親はふんと鼻を鳴らしてから、自分の皿に乗った牛の丸焼きを頭からかぶり嚙み千切るとばりぼりと骨を砕いて嚥下する。

 こち・こち、ばりぼりばりぼり、かちゃかちゃ、ふーっ。

 やがて息子はスプーンを食卓の上に置く。それを母親が見とがめる。

「おや、どうしたんだい? ぜんぜん、食べてないじゃないか」

「もういいよ。お腹いっぱいだし……」

「嘘おっしゃい。牛だって、腹のところをちょちょと、食べただけじゃあないかい、育ち盛りなんだから、ほら」

「だから、もういいって……」

 母親はふん、と鼻を鳴らす。

「モデルでもあるまいし、何気取ってるんだい。ほら、いいから」

「……食べてきたんだよ、外で……」

 息子がぼそりと言う。母親は眉間と鼻筋に皴を寄せて、怪訝な顔をする。

「食べてきたって……あんたいったい……」

「だから、お腹いっぱいだから!」

 息子が席を立ち、そのまま居間から出ていこうとする。母親も立ち上がり、慌てて息子の手を掴む。

「ちょっと、待ちなさい!」

「なんだよ……」

「いいから、テーブルに戻りなさい」

 母親は食卓のほうを指さし、息子をキッと睨みつける。

 息子は何も言わず、黙って目を逸らす。

「あんたが食べられるようなものを出してる店が、いったい何処にあるって言うんだい?! だいたい、あんたの身体は……」

「プップー!」

 刹那、息子は大きなクラクションを鳴らし激昂する。母親は思わず驚いて仰け反る。

「……ああそうだよ! こんな身体、いったい何処行きゃ飯が食えるんだよ! 誰のせいだと思ってるんだ!」

「なんだって……あんた、いま何て……」

 母親はわなわなと震えながら、ふらついて後ずさりする。巨体が壁にぶつかると、その部分がめこっと凹む。

 息子は更に言葉を続ける。

「だいたい、なんなんだよ! クルマとドラゴンのハーフって! 見ろよ、これ!」

 そういうと、息子は自身の両側についているドアのような分厚い翼を、息子自身のループ部位に取り付けられたヒンジを軸にして大きく開いてみせる。息子はそのドア・翼で、ばさりばさりと二、三、不格好に羽ばたいてみせる。だが、いくら羽ばたこうとも、息子の角ばった車体が上下に軋むばかりで宙を浮くような様子は見られない。翼をはためかせた反動で、床がギシギシあえぐ。天井からは埃がちりちりと降ってきて息子のボンネットに積もる。

「こんな、何の役にも立たないような翼! それに、これだ!」

 息子は次に前タイヤと後ろタイヤを床に切りつけ、その場で器用にターンする。その遠心力で息子のバックドアが勢いよく開くと、恐竜を思わせるような太い尻尾がぼろんと飛び出て、床に叩きつけられる。旋回の勢いで尻尾はそのまま壁に柱に激突、めこりとしたような厭な音が出る。

 息子は、それを気にする様子もなくエンジンをぶるん、ぶるるんと力任せにふかせ、もう二周ほど、ぎゅる・ぎゅるとその場で旋回する。それは息子自身のイメージとは程遠い、そしてドラゴンに相応しい、重みのある、鈍い旋回だ。床に黒いタイヤ痕がつき、幾らかの床板がその威力に耐えきれずに砕け、剥がされる。尾の先が棚へぶつかって凄い音を立てる。棚のうえに載せられていた様々な小物が床に落ちて砕け散る。更には食卓の脚を折る。傾いた天板からスープや丸焼きが載せられた皿が滑り落ち、床に当たって砕け散る。倒れた燭台が床を焦がす。

 先ほどまで綺麗に整えられていた居間は、あっという間にぐちゃぐちゃに荒れ果てる。

「あ、あんた……」

 母親は言葉を喪う。それから、棚の上から床に落ちたものを認めると、よろよろと、それらのこわれものの中から、ひび割れた写真立を拾い上げる。

「あっ……」

 息子が思わず声を洩らす。

 それは家族写真だった。翼を大きく広げ、若さと、幸福に満ち溢れた母親。その横にシュッとした流線形のスポーツカー、これは父親だ。そして二人に挟まれるようにして、まだ幼い、床をハイハイしている息子の姿。

 母親はひび割れた写真立をぎゅっと抱きしめる。巨木のように発達した後ろ足に比べ、枯れ木のような細さの短い両の腕と、発達した分厚い胸筋に挟まれ、写真立がピキピキと音を立て、やがてバキバキに砕け散る。

「……ぐおおおおおおおるるるるるるるる!」

 母親は天井に向かって咆哮を上げてから息子を平手打ちにする。息子がおもちゃのミニカーのように吹き飛んで、壁を突き破って家の外へと横転しながらはじけ飛んでいく。息子はごろんごろんと横転を繰り返したのちに、自身のルーフを下に、腹が天に向いた状態でようやく停止する。そして暫くのあいだ前タイヤ・後ろタイヤ計四本をきゅいっ、きゅいっと左右に振って身を捩り、何とか元の姿勢に戻ろうとする。そのうちに両のドア・翼をヒンジが折れんばかりの勢いで地面にばたっばたっと叩きつける。狂ったようにその動作を繰り返す。車体が左右に揺れてルーフが地面に擦れる。

 母親は怒り故に荒い鼻息を噴き出しながら息子を睥睨していたが、ドア・翼を地面に叩きつけ、身体を左右に捩り、それでも元の姿勢に戻れない息子の姿を、今はじっと見つめている。その眼が涙で、うっすらと潤む。

 やがてドア・翼を全開にしたままで、息子が完全に静止する。虫の鳴く声ばかりが夜の森に響いて溶ける。雲が切れると月明りが漏れ出て、ひっくり返った息子の姿を照らしだす。

「……ッッせよ……もッッせよ……!」

 息子が消え入りそうな声で絞り出すようにして言う。

 母親は黙って近づいていき、鼻先を息子のルーフの下に突っ込んで持ち上げてやる。くるり半回転して、ドンッ。息子の両の前タイヤ、後ろタイヤが地面に着地する。

 息子のフロントガラスには大きなひびが入り、そこから血がにじんでいる。左側のサイドミラーが根元からべろりと折れて垂れさがっている。くるくると、ドア・翼のウィンドウが下がると、中からほっそりとした腕が出てきて、そのミラーを掴んでぐいと引っ張る。ぶちっと、ミラーが千切れる。

「あんた……」

「……あんたたち……あんたたちのせいだ……!」

 息子はそういうと、ぶるるん、ぶるるんとエンジンを唸らせ、踵を返し夜の闇へゆっくりと消えていく。


 夜の山に獣の唸るような轟音が響き渡る。ドラゴン・カー、いやあるいはカー・ドラゴンの彼が奔る音だ。フレームラインこそ父親譲りのほっそりとした見た目だが、でっぷりと分厚いドア・翼が空気の抵抗を余計に受けて速度を殺す。そして普段は車内にぎちぎちと仕舞われた、ぶっとい尻尾の重量が彼の両前タイヤ・後ろタイヤに過重な負荷を掛けている。それでも彼は自身の出せる最高の速度で、夜の峠をがむしゃらに攻める。

「畜生ッッ……畜生ッッ!」

 ひび割れたフロントガラスが涙で曇る。彼はハンドル横のレバーを下げる。先ほどの親子喧嘩でひしゃげたワイパーが涙を拭おうとし、かかっと引っ掛かり途中で止まる。畜生、畜生!

 峠の急カーブを彼の持てる最大の、しかしその全身の重みから、結果としては地を這うような速度で疾走しつつ、彼の頭の中は幼い日の記憶を辿っている。彼は父親の後部座席に座り、シートベルトをぎゅっと握りしめている。父親はそんな息子の様子をバックミラーについた眼で見て笑うと、くるくると手回しウィンドウを下げてやる。びゅーっとした鋭い風が吹き込んできて、幼い彼の頬を撫でる。父親は峠の急カーブを、こんなものはいつもの散歩と変わらないとでも言いたげに、車載のカーステレオから鼻歌を流し、右へ左へ切り抜けていく。彼はおっかなびっくり目をあける。周りの景色が猛スピードで走り去る。風が、父親の開けたウィンドウから車内へ流れ込み、幼い彼の全身を包む。彼もまた、父親と同じようにくるくると手回しウィンドウを下げ、その風を体内へと呼び入れる。その時、彼は確かに風そのものになったのだ。彼の父親と同じように……。

 ぶるるるるるるるるる……。

 夜の闇に、重苦しい獣の叫び声が響き渡る。


 壁に大きな穴の開いた家で独り、母親は床に散乱した破片やら夕食やらをひとしきり掃除し終える。

 彼女は和室へ入ると、仏壇の前に座り込む。リンを鳴らし、線香を一本立てる。

「あんなに小さかったあの子が、峠なんか走って……あたしの言うことなんか聞きやしない………ほんと、あんたにそっくりだよ……」

 彼女は静かに手を合わせ、今は亡き夫の遺影に語りかける。

「……愛し合うのが、あんたを愛したのが、あたしの罪なのかねえ……だとしたらあの子は、いったい何なのさ……」

 そうして、まだ若かりし頃、彼女が今よりもすらりと痩せていて、彼の夫もまた健在だったころに思いを馳せる。青く燃え上がる春の時代。夜な夜な峠を攻める彼。それに寄り添うように空を飛ぶ彼女。やがて山頂にたどり着き、遂に固く結ばれる二人。義父母にも、実の両親にも反対され、駆け落ち同然でこの土地にやってきたころ。貧しくとも、幸福だった時代。そして二人の愛の結晶、ドラゴン・カー・ジュニア……。

 やがて彼女はすすり泣く。

「アンタがいけないんだよ……あんな嵐の夜に走りに行くなんてさ……」

 彼女の脳裏に浮かぶ、彼の最期の姿。谷底から引き上げられる、泥にまみれ、無残にひしゃげたフレーム。粉々に割れたウィンドウ……。まだ若い彼女の横には、何が起きたのかまだ理解できていない、幼いドラゴン・カー・ジュニアの姿。

 彼女はぎゅっと彼の手を握る。この子は、せめて、この子だけは……。

「轟っ、暴っ、応っ」と彼女がえづくたび、古びた畳の上に、滂沱の涙と鼻水がとめどなく降り注いで大きな水たまりになる。

 ぐおるるるるるるるる……。

 彼女の雄たけびが夜の森に響き渡り、鳥や獣たちがぐわっぐわっと散り散りになる気配がして、やがて元のように静まり返る。


 草木も眠る丑三つ時を少し過ぎたころ、めりめりとタイヤが静かに地面を押しつぶすような音が近づいてくる。家のそばまで来ると息子はエンジンを切って、更に静かに、玄関を開けて中へ入る。

 そっと居間を覗くと、ぶおーっ、ぶおーっ、と母親が食卓に突っ伏して大きな鼾をかいている。息子は暗い居間を慎重に進んで母親へ近づく。壁の大穴から差し込んでくる月明りに照らされた横顔には、歳不相応に見える深い皴が刻まれている。やや乱れた髪にはちらほらと白い毛が混じる。

「母さん……母さん……」

 息子は小さな声でそういいつつ、母親の肩を軽くゆする。母親は「ぶおーっ、ぼ、ごふっ」とした鼾を返すばかりで起きようとしない。

 息子は暗がりで暫し目を凝らしてから、ソファに置いてあった毛布をそっと母親の肩に掛ける。

 ふと、机に置かれた写真立に気づく。若かりし頃の父と母、そして間に挟まれ、無邪気に笑っている自分。

 息子はその写真立を手に取り、しばし眺める。それからまた居間を静かに出ると、みしみしと軋む階段を慎重に上り、自分の部屋へ行きベットに潜り込む。

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