忘れていた方が…

みどり

離婚するべきか、しないべきか

「頼む、このまま俺と暮らそう! な!」


目の前で土下座する男は、私の夫らしい。だけど、もうすぐ夫ではなくなる予定だ。


全く記憶にないが、私はこの男と結婚して……別れるつもりだったようだ。目の前には記入済みの離婚届がある。


「今更悪あがきするな! 娘は連れて帰る! 貴様は可愛い後輩と再婚すれば良いだろう!」


「俺、分かったんです! 俺にとってどれだけ紗良が大切な存在か! お願いです! もう二度と不倫なんてしません! 俺にやり直すチャンスを下さい!」


はーい、みなさん。ここ大事。


私は、記憶を失ってる。けど、両親の事は覚えてるわ。どうやら、ここ二年間の記憶だけがすっぽりと抜けてしまったようだ。


この男と出会ってからの記憶が、全てない。


どうやら、私はこの男に口説かれて、出会って半年で結婚したらしい。恋愛に奥手だった筈の私は、どこにいったのだろう。


確かに、この男の見た目はものすごく好みだ。いや、見た目だけじゃない。声も好きだ。


……けどねー、不倫したんでしょ。ナイナイ。


不倫オッケーな人も存在するだろう。だが、私は不倫が大嫌いだ。父の話によると、結婚する時に不倫したら即離婚すると話し合っていたらしい。


その事は、目の前で土下座している男も認めている。


なら別れたら良いじゃないかと思うけど、父が来るまで彼はずっと優しくて、ちょっぴり絆されてしまっている。不倫した理由も、私が喧嘩して不倫でもすれば良いってけしかけたせいみたいだし、一回だけって言ってたし……。


「……すこし、時間をちょうだい」


ものすごく好みな顔をした男が破顔する。不覚にも胸がときめいた。


「はぁ……どうしよう」


とにかく一人にしてくれと言い残し自分の部屋をウロウロする。けど、記憶がないせいで、自分の部屋とは思えない。本棚に並んでいる本は好みの本だし、読んだ事がない本もタイトルが気になる本ばかりだし、多分私の部屋なんだろう。


「あれ? この本だけタイトルがない……」


気になって手に取ると、中は日記帳だった。


「うわ、詩が惚気じゃん!」


幼い頃から、詩を書くのが趣味だった。日記の最後に短い詩を書く時は、良い事があった時か悪い事があった時。


月に一回のペースで書かれる詩は、全て夫への愛情に溢れていた。


「……こんなに……好きなら……」


やっぱり別れるのはやめよう。そう思って日記を読み進めると詩ばかり書かれた日記に切り替わった。


書かれた詩は、全て悲しみに溢れている。

言葉はぼかしてあるが、何に悲しんでいたのか手に取るように分かる。


「……思い出さない方が、幸せなのかな」


詩を書く時は、良い事があった時か悪い事があった時。


この詩は、悲しみに溢れてる。毎日詩を書かないと自分を保てなかったんだろう。


「紗良、入っても良い?」


「……いいよ」


「ごめん、ごめんな。俺が馬鹿なことをしたせいで紗良を悲しませてしまって……」


日記を読む前なら、ボロボロ泣く夫に絆されていたかもしれない。


けど、今は夫の泣き顔がものすごくうざったい。


「ねぇ、どうして不倫したの?」


「……それは……ごめん……俺が悪いんだ。紗良にけしかけられて……つい……後輩の誘いに……」


「私さ、その後輩ちゃんに会いたい」


そんな言い訳聞きたくねぇよ。心の中で悪態を吐き、夫を追いつめる。


「え……それは無理だよ……」


「なんで?」


「だって……迷惑だし」


「迷惑かけてんのはそっちだろ。言っとくけど、慰謝料の請求だって出来るんだからね」


「……そんな事言うなよ。記憶のない紗良じゃ、この先大変だろ? 俺、ずっと紗良を守るから。もう二度と悲しませない」


はい、アウト。

そうじゃねぇよ。開き直り男。


記憶はないが、私はこの男を愛していたんだ。そして、今はとてつもなく嫌いなんだろう。


「よし。決めた」


「そっか! ありがとう!」


何を勘違いしてるか分からないけど、アンタとの未来はお断り。記入済みの離婚届を持って、優しい父と部屋を出て行く。


「なんで……! 記憶が戻ったら後悔するよ!」


「そうね。貴方がどれだけひどい事をしたのか、思い出したくないから記憶がないのかも。後輩ちゃんだけじゃなく、先輩にもよろしくね。浮気男さん。ああそうだ、しっかり慰謝料は貰うから。さよなら」


詩を読む限り、あの男は浮気の常習犯だ。

記憶が無くなったおかげで、悲しまずに済んだ。


最後に書かれていた詩は、こんな内容だった。


『雷』

意味は

いかづち カミナリ 魔物


辞書を引くとそう書かれていた


魔物という言葉に引っかかりを覚える


私の中にあった魔物はすっかりおとなしくなってしまった

あんなに嫌悪していた事も仕方ないと諦めはじめている


あんなに激しい感情が存在していたのに


このままで良いのか

それとも このままじゃいけないのか

結論を出せないまま日々が過ぎていく


いっそ全てを忘れられたら良いのに

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘れていた方が… みどり @Midori-novel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ