第27話 村中先生の日常
朝8時、まだ数名しかきていない職員室に入り、インスタンコーヒーを入れるところから村中葵の一日は始まる。
朝の職員会議は8時半からなので、登校指導の当番の先生以外はまだほとんど着ていない。
朝早めに来て、コーヒーを飲みながらその日の授業する内容を復習する。教師を始めた時からの習慣だ。
2年生の数学は先週から微分が始まった。難解な概念と数式が続くことから、脱落する生徒が多い単元なので教える方も気を使う。
教師になって7年目だが、毎年試行錯誤を繰り返している。
「村中先生、ちょっといいですか?」
同じ2年生の数学を担当する岡崎先生が話しかけてきた。
「微分ってどうやったら生徒に興味持ってもらえます?数学的な意味は解るんですけど、それだけだと生徒に興味持ってもらなくて」
まだ2年目の岡崎先生も同じ悩みを抱えているようだ。
「そうね、理系クラスだと単純にパズル感覚で難しければ難しいほど良いって、勝手に興味しめてくれるけど、文系は苦労するね」
「そうなんですよ。『微分なんて何の役に立つんですか?』って聞いてくるから、電気回路とか衛星の軌道計算に使われているって言ってもいまいちピンときてもらなくて」
「そうね、文系だとそっちの分野には就職しない子が多いから、興味持たないかもね。文系の子たちに興味持ってもらえそうなところだと、株価の変動とかもあるけどSNSのトレンドにも使われているからそっちの方が興味持つかも?」
「アドバイスありがとうございます。それでやってみます。ところで村中先生、こんな寒い日でもスカートなんですね?」
確かに今日の朝は今年一番の冷え込みだった。白のボウタイブラウスに深緑のスカートのコーデはすんなり決まったが、黒タイツの厚さで悩んでしまった。寒いので80デニールにしようかと迷ったが、あまり厚いとおしゃれ感がなくなるので結局60デニールにした。
一方、岡崎先生はグレーのパンツスーツを着ている。岡崎先生はインナーを変えたりパンツかタイトスカートの違いはあるものの、学生の制服のように同じようなスーツを毎日着ている。
教師としては正しいのかもしれないが、若いんだからもう少しおしゃれした方が良いのにと思ってしまう。
「せっかくスカート履けるようになったからね。仕事に着ていけるパンツ持ってないのもあるけど、スカート履かないともったいない気がして、結局毎日スカートになっちゃう」
クローゼットの中はほとんどスカートで、パンツは夏用と冬用2着あるだけだ。
「偉いですね。私も頑張らないと、女性として駄目ですね」
「そうよ、岡崎先生も若いんだから。こんなこと言いだしたら、オジサンね」
「そんなことないですよ。そうだ、今度一緒に買い物行ってくれませんか?私一人だと、何買っていいか分からないです」
「いいよ。もうすぐバーゲン始まるし、ボーナスも出るから丁度いいね」
岡崎先生は嬉しそうに自分のデスクへと帰っていった。頑張っていないと女性になれない自分、一方で何の努力もせずに女性として見てもらえる岡崎先生。
子供のころからずっと不公平だと思っていた。スカートを履かない女性をみると、スカートを履ける権利を頂戴と思っていた。
割り切れるように考えられるようになったのは、最近のことだ。
昼休み、中庭をのぞいてみると今日も秋月さんの姿はなかった。先月までなら、毎日のように斎藤君と一緒に中庭のベンチに座って仲良く話していたのに、最近はその姿を見ない。ちょっと心配だ。
1年生のころは勉強について行けず友達もあまりおらず辛そうで心配していたが、2年生になって女子高生生活を楽しんでいるようで安心してた。
斎藤君とは別れたのかな?それで落ち込むようなら、またフォローが必要なので秋月さんの様子はよく見ておくことにしよう。
秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、仕事を終えて学校を出ることには夕方というより夜になってしまった。
帰る途中に夕ご飯の材料を買うためにスーパーに寄った。冷え込んだので鍋もいいかなと思いながら、白菜を手に取る。
そのほか、鶏肉や豆腐など鍋の材料、牛乳にパンなど朝食の分も合わせて買った。
「うっ、重い。特売だから牛乳2本買ったのがまずかったかな」
スーパーを出ると家まで10分だが、途中に坂道がある。重量感のあるエコバックを抱えて、坂道を上る。
「女性なら無理だな」
坂道を登り切ったとき、周りに誰もいないことあり独り言が漏れた。たまには男の体も役に立つ。
家に帰りつくと、部屋着に着替えて夕ご飯づくりに取り掛かる。白菜をざく切りして、鶏ミンチをこねて鶏団子をつくる。
鶏団子を茹でて灰汁をとり、白菜の芯の部分、人参、大根などを先に煮始める。ある程度火が通ったところ、シイタケや白菜の葉の部分も入れ、最後に春雨を入れ、ごま油を一回りかけ風味をつける。
そこまで準備できたところで、玄関のドアが開く音がした。一緒に暮らしている健太郎が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり、今日は寒かったから鍋にしたけど良かった?」
「いいね、今年最初の鍋だね、ちょっと着替えてくるね」
一連のやり取りが夫婦みたいで、なんとなく心が弾む。付き合い始めたのは2年前だが、一緒に暮らし始めて3か月。戸籍上男性同士なので籍は入れられないが、それでも幸せを感じている。
「美味しい」
「そう、良かった」
美味しそうに食べる健太郎を見て、こちらも幸せな気持ちになる。
「そうそう、今度の日曜日、買い物に行ってきていい?同僚の先生が全然おしゃれしないの。もったいないでしょ」
「それはもったいないね。あっ、僕も一緒に行っていい?ちょうど、バーゲンでスカート買いたかったんだ」
健太郎は私のようなトランスジェンダーではなく性自認も男だが、休みの日は女装している。いわゆる、女装男子だ。
一度試しに女装したら、はまってしまったらしい。
就職してお金がたまったら性適合手術を受ける予定だったが、ちょうどそのころ健太郎と付き合い始めた。
手術して戸籍も女性に変更することを健太郎に伝えると、「手術したいなら止めないけど、戸籍を変更するために手術するならしなくてもいいじゃない」と言われた。
トランスジェンダーの中には自分の体をみて嫌悪感を抱く人もいるが、自分はそうは思わない。それに性適合手術を受けると、その後のメンテナンスも大変だと聞く。
「葵のことが好きだから、戸籍とか体の事とかは気にしないから」
「結婚できなくなるけど、それでもいいの?」
「別にいいんじゃない?籍入れるとか、入れないとか」
手術しないと決めた時、健太郎はそう言って優しく抱きしめてくれた。
隣で眠る健太郎を見ながら、ふと昔のことを思い出した。私は健太郎と出会えてありのままの自分をようやく受け入れることができた。
ありがとう。そう思いながら、寝ている健太郎の唇に自分の唇を重ねた。
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