第2話 戻って来た日常
退院明けの一日を自堕落に過ごしてから迎えた水曜日。俺は通学路を走っていた。自由に動かせるなった体で走りたくなった……というのが建前。本音は遅刻しそうだから急いでる、である。
以前の俺なら余裕で間に合う時間帯だからって油断した。どうやら体力だけは戻っていないらしい。走っても走っても前に同じ制服の学生は見当たらず、先に足が止まった。
バクバクとやけに働く心臓と、頬や首筋を流れる汗。特に背中に引っ付く制服がウザったい。病院は常に涼しかったから忘れていたが、今は梅雨明けの七月である。この暑さなら授業なんてせずに夏休みにしてほしい。……どっちみち期末を受けてない俺は夏期補習だけど。
考えるだけで憂鬱になる。しかし立ち止まっていられない。せめてもの抵抗として早歩きで高校に向かった。
「くそったれ」
「朝からそんな言葉使うんじゃありません」
後ろからフェイとはまた違う、聞きなれた声がして振り返る。
「やっほ、久しぶり」
そこに
我ながらよく関係が続いていると思う。どちらかが切ろうと思えば切れただろうし、中学か高校が違っていたら途切れていただろう。それでも今は繋がっている。テストも世界も結局は結果主義なのだ。
「そんなことより走らないと遅刻するぞ」
「えー、感動の再会をそんなことって言う?」
「たかが数週間だ」
「三週間ちょっとです~。半月は会ってないんだからね」
「それより、アメリカの短期留学はどうだった?」
「最高だったぞ」
「にしては帰ってくるの早くない?」
「それがなぁ、言語の壁を感じて」
「その為の留学なのに」
くしゃっとした笑顔で
……嘘を吐くのは胸が痛いが。
俺は病気のことを
こうやって人と話し、笑いあえて。やっと日常に戻ってきたことを実感する。
「もう大丈夫なの?」
「何が?」
「またどこかに行ったりしない?」
「あー、えーと……」
悩む。悩んでしまう。ここに残るには人を殺さないといけないわけで。それを実行できるかどうかは俺には分からない。けど、できれば……。
「もう行く予定はないよ」
「そっか。なら安心だ」
ここを離れたくない。この生活を終わりにしたくない。その気持ちは変わらない。
「あ、ちょっと耳貸して」
「どうした?」
よく分からず
「告白の返事も待ってるから」
ドキリとしてしまう。すぐに振り向くと
「あはは、耳真っ赤」
「うっさい」
「今日の部活は来てよ」
「気が向いたらな」
からかわれて、冷たい言葉を返してしまう。どうせなら快く承諾したいが素直になれない。前を向くとようやく何人かの生徒が確認できた。だが、明らかに走っている。この時間帯に走っている生徒が導く答えは一つのみ。
「遅刻じゃね?」
「遅刻だねぇ」
八時四十七分。本鈴まで残り三分。
「走るぞ」
「どうせ遅刻なら、評価は九時五分まで同じだよ」
「……それもそうか」
走ろうとした足を止めて
***
「
終礼後、カバンを持ったところで
「嫁が来たぞ」
「嫁じゃねぇ」
前の席にいた
「また明日」と言葉を投げて
「最近は
「うちの文芸部過疎ってるからな。俺が休んでる間に新入部員来たか?」
「ゼロだよ。来年もいなかったら私たち卒業して廃部だね」
「まぁ仕方ないんじゃねえの」
なんでもない話。話さなくてもいい話題。だけど、そういった無駄なものが大事だと気付いたから、もう手放したくない。その為なら、人殺しも悪くないと考えてしまう。
「……何考えてるの?」
数秒続いた無言に耐えられなかったのか、
「なんか真剣というか、辛そうな顔してたから」
「実は小説の内容考えてて」
「そんな嘘吐かなくていいのに」
あっさりと嘘がバレてしまった。だけど毎度のことすぎて焦りは湧いてこない。昔から
……まぁ、本命の嘘が見抜かれなければ問題ないが。他だったらいくらでも見破られようじゃないか。
「けど、その内容は書かないほうがいいかもね」
嘘は見抜いても、あくまで小説の話で続けてくれるらしい。これも優しさか、はたまた呆れか。俺では見定めることはできない。
「何で?」
「そんな顔してまで実行することないよ。きっと後悔する」
何もかもお見通しだと言わんばかりの、透き通った碧い瞳が俺を捉える。なぜだか罪悪感が湧き出てしまい目を逸らした。
「そんな見つめられたら照れるだろ」
「こっちは心配してるのに」
むわっとした暑苦しい空気も扇風機に当たることで相殺された。俺は扇風機近くの席に座り、対面に
文芸部にはやることがあるわけじゃない。先輩たちがいた頃は人数がそこそこいたので、ボードゲームをする機会が多かった。けれど大学受験の影響で先輩たちが引退したら、残ったのは俺と
何か話したいことがあれば話し、話題がなければ本を読む。面白い本があれば共有して感想を言い合ったり、俺の小説を読んでくれたり。朗読された時は恥ずかしくて死にそうになった。
今日は久々の再会だから雑談で終わるだろう。そう思っていたのに。
……気まずい。
なぜか
こうしてみれば
「あのー、
「何?」
「何読んでるの?」
「恋愛小説」
「どんな話?」
「失恋した主人公が過去に戻って、今度こそ恋を成就させようとする話」
「へー」
「今はヒロインと夏祭り行ってるんだ」
「なるほど」
話してる最中は
……やべー。全然話が盛り上がらん。多分怒ってるよな。ていうか、なんで今日の
話せない以上、何もできないので俺も小説を読み進める。ぶわぁと扇風機が回る音と紙の擦れる音だけで世界を構築し、部室が世界から確立されたような錯覚に陥る。
せっかく
「なぁ」
「……何?」
「怒ってることがあるなら言ってくれないか?」
「…………」
「俺、馬鹿だから分からねぇけどよ。言われねぇと分からねぇわ」
「ふふ、何それ。ホントに馬鹿なだけじゃない。それは名言を言う為に使うセリフよ」
やっと強張っていた空気が柔らかくなった。よく
「なんだか私も馬鹿になってたみたい」
「だから、何があったんだって」
「それはその……催促ってわけじゃないんだけどさ」
「うん」
「…………告白の返事聞かせてほしい」
やっと全てが繋がった。寿命のことに必死過ぎて、いつ返事するかだなんて決めていなかった。
「あ、えっと、絶対今言えってわけでもなくて。別に答えるにしても断ってもらってもいいし、私は
「
「は、はい」
暴走していた
けれど、この答えはとっくに決まっていた。
「
「……それっていつまで?」
「今週中には伝えるから」
「前みたいに保留したままどこか行かないでよ」
「分かってる」
「絶対?」
「任せろ」
「なら、待ってる」
少し拗ね気味に、それでもくしゃっと
今はまだ告白の返事はできない。このままだと俺は世界から消えてしまうから。せめて生きるか死ぬか。それを決めてからでないと告白は受け入れられないと思った。
だからごめん。もう少しだけ待っていてくれ。
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