奇跡の代償

西影

第1話 これが本物の奇跡

 白く光る照明に、目覚めたばかりの視界が霞む。


 ここ数週間で見慣れた病院の天井だった。なんとか首だけを動かして近くにある時計を見つめる。


 七月八日(土)二十時十分。


 今日は半日以上寝ていたらしい。最近は特に睡眠時間が長い。この調子で寝ていたら一日経っていた、なんて日が来てもおかしくないかもしれない。


 次は何時間眠るだろうか。あと何度起きられるだろうか。


 ……いや、次が最期だな。


 諦めとはまた違う。自分の体だから分かるというのは、本当にあるらしい。


 思考はぼやけるし、起きたばかりの瞼が重い。体を動かす気にもならないほど、全身が徒労感に満ちてきた。


 あぁ……死にたくないな。


 いくら死を受け入れようとしても、怖いものは怖い。


 修学旅行にバイト、高校卒業したら大学生活を楽しんで、彼女作ってデートして。この世界に生きていた証とか言って書き始めた小説も完結してない。


 それに――こんな俺を好きだと言ってくれた彼女の告白に応えたかった。


 まだまだやり残したことがいっぱいある。思考を巡らせるほど、次々にしたいことが湧いてきた。


 だけど、叶わない。ここで俺の一生は幕を閉じるんだ。


 脳裏によぎった言葉で視界が滲む。死の恐怖が全身を蝕み、頬に涙が伝ってきた。


 思えば入院してから親以外と話していない。


 これが心配されない為に言った嘘の結果。


 別れの挨拶は一応したんだけどな。貰った返事は『またね』だったけど。俺も『またな』って言いたかった。


 どうして俺ばかり。なんで死なないといけないんだよ。


 何も特別なことなんていらなかった。物語の主人公が送るような輝かしい人生や、好きを極めた先のプロの世界にも興味はない。ただ、普通に過ごすだけの人生でよかったのに。


 ただ、生きたい。まだまだ生きて、生きて、無理にでも生き続けていたい。


 別れ際の彼女の顔が浮かんでくる。


 あと一日。たった一日だけあれば別れを告げられるのに。会えるのに。また話せるのに。


 死に際でこんなことに気付くなんて、俺は本当に……



 ***


『起きよ』


 パッと瞼が開いた。何事かと体を起こす。


 あれ、なんで体が動いて……。


『お主、まだ生きたいか?』


 目の前に小柄な少女が座っていた。幼いながらも整った見目に、宝石のように輝く真紅の瞳。清楚な雰囲気を漂わせる茶色のロングヘア―。黄金の帯で結ばれた淡い紫が基調の和服。襟から覗く肌色や細い手足は病院生活を彷彿とさせるほど白い。


 そして何より――浮いていた。比喩ではなく物理的に。


 あまりに異常な光景で寝起きの脳が追いつかない。いや、この状況はきっと寝起きでなくても理解できない。誰か説明してくれ。


『二度も言わせるでない。生きたいか、と聞いておるのだ』


 本当にどういうことだ。死が確定している俺に話すような冗談じゃないぞ。あまりにも性格が悪すぎる。ドッキリとか言われたら一発手が出るかもしれない。


 しかし、普通とかけ離れた少女の様子からは、戯言を発しているように思えない。神様と言われても信じられるほどの威厳が、語られる全てを真実として脳に自然と定着させてくる。


「夢オチじゃないよな」

『アホな質問には答えぬ』


 退屈そうに足を交差させ、手の甲を頬に付ける少女。まさに玉座に座る女王の振舞い。見た目とのギャップに目が奪われた。


『お主には奇跡を受ける権利がある。それ相応の代償付きじゃが』

「だ、代償?」


 何やら不穏な単語が聞こえて眉根を寄せる。


 フィクション染みた光景に悪魔へ魂を売る物語を思い出す。


『その為に慈悲として一週間分の命を授けたのじゃ』

「そりゃ生きたいとは願ったけど……代償は聞いてないぞ」

『仕方ないじゃろ。死人に口なしと聞かぬか?』


 袖で口元を隠し目を細める。その口は見えないが、絶対に笑ってる。こいつニヤついてやがる!


 それでもコイツから命を貰った事実は変わらない。手を握り、力が入ることを確認する。自由に動かせることが、まるで他人事のように思えた。


 しかし、生きるからには知らないといけないことがある。


「それで、今から払わなければいけない代償は?」


 これだけのことを成し遂げた、奇跡の力。どれだけの見返りが要求されるのだろうか。覚悟を決めて少女を見つめる。


 ……が、俺の覚悟を嘲笑うように何故か小首を傾げられた。


『なんの話じゃ?』

「だから、一週間分の命の代償だよ」

『それはないぞ』

「は?」


 先程から会話が成り立たず頭を抱える。さっき代償の話をしてたじゃないか。


「どういうことだよ」

『慈悲と言ったろう。死人に奇跡を使わって代償を頂くほど悪魔ではない。サービスみたいなものじゃ』

「そ、そうなのか?」


 じゃあ一体、何が奇跡なんだ。


『そして、これから話すのがお主に与える奇跡。人類の力では決して起こりえない現象。”余命の増加”』

「もうしてるじゃないか」

『何度も話の腰を折るでない』

「すいません」


 呆れたように肩をすくめられる。いや、だって実際に存命されたし。ツッコみたくなるよ。


『お主には一度だけ『同種族から余命を奪える奇跡の力』を与える。お主があやめた者が送るはずだった人生の時間を丸ごと頂けるのじゃ。最高じゃろう?』

「いや、それ犯罪……」

『安心せい。あやめた者はこの世から退場してもらう。存在した事実も、記憶も、何もかもが世界から消える。残るのはお主の記憶にだけじゃ。殺した事実がなければお主らが人類が定めた罪にはならん』


 人殺しの話題を出されても意外に驚かなかった。というか、今までに比べて、やっと現実的な話で安心してる自分がいる。


 寿命を奪うとか、事実や記憶が消える……は、よく分からないが。こいつなら何でもできるのだろう。


 それよりも、だ。


「その奇跡の代償は?」


 奇跡には代償が付き物。慈悲云々の話は置いておくとして、それ相応の犠牲を払えと言っていた。人を殺そうが殺さまいが、俺には何かしらの代償が与えられるはずだ。


 俺の言葉に少女は、袖で口元を隠さないまま怪しげに口角を上げた。


『死後、お主があやめるであろう者と同じ末路を辿るだけじゃ』

「それって……」

『お主も死後、世界から退場してもらう。これが代償じゃ』


 ***


 結局、あの夜見たものはただの夢じゃなかったらしい。


 翌朝。ベッドから降りた俺に母さんが驚き、病室を勢いよく飛び出した。すぐに担当医が駆けつけてくれて診断が開始。担当医の驚いた顔が印象的だった。


 どうやら不治の病だった俺の病気がキレイに治っていたらしい。しかも入院前ほどの元気が付いてくるおまけ付き。まさに奇跡の所業だった。


 そこから二日間検査入院をさせられたが、特に何もなく無事に退院。我が家に戻って来た俺は真っ先に浴室へ向かった。


 やっと湯船に浸かれる! 病院だとシャワーしか浴びれず、しかも最近は濡れタオルで体を拭かれるだけだった。やっぱり浴槽がないと風呂に入った気がしない。


 体を丁寧に洗ってから湯船に浸かる。足を思い切り伸ばしても壁にぶつからず、全身が温もりに包まれて心地よい。子供心が蘇り、湯船を潜ってみる。息が吸えない圧迫感。トクトクと響いてくる音。


 これ、心臓か。水中ってこんなに鼓動が聞こえてくるんだ。


 俺、生きてるんだな。また笑いあえるのか。なんでもない雑談に花を咲かせられるんだ。告白の返事も俺はでき……。


「ぷはっ」


 息が続かなくなって水中から顔を出す。


 心臓が早鐘を打ち、瞼の裏で頬を赤らめた海鈴みすずの顔が浮かび上がる。艶のある黒のボブに、潤んだ碧い二重の瞳。入院中は何度も脳裏をよぎったし、忘れたことがない。今でもあの時の返事で良かったのか悩んでしまう。


 目元の水を拭きとって瞼を開ける。これまでに何度も入ったことがある浴室。もう二度と訪れることはないはずだった場所。


 まさかまたここに来れるなんて思ってもみなかった。昨日は生きたいって願ってばかりだったのに。


「ほんと夢みたいな時間だな」

『同種をあやめねばひと時の夢で終わるがな』

「うおっ!?」


 急に少女の声が風呂場に響き、変な声を出してしまう。少し上を視線を向けると以前のように浮いた状態で少女が俺を見ていた。


「……風呂にまで付いてくる必要はないだろ」

「奇跡の契約者は監視せねばいかんのじゃ。許せ」


 許すも何もないが、口調の割に可愛らしい見た目なのは困る。こいつが男なら一片たりとも意識しないのに。


「お前が男だったらな」

『お前? 人類ごときが我にお前と呼ぶか』


 少女が今までにない苛立ちを見せる。変なところを突いてくるな。呼び名一つでここまで態度に出るのか。


「名前知らねぇから仕方ねえだろ」

『我はフェイじゃ。二度とお前と呼ぶでない』

「はいはい……あ、俺は」

『いらん。既に知っとる』

「言わせろよ」


 こういうところは好きになれない。俺は立ち上がろうとし、もう一度湯船に浸かった。


「風呂上がるから出ていってくれ」

『なぜじゃ』

「思春期の男子は大変なんだよ」

『ほお……お主、我を見て欲情しておるのか』

「してねぇわ!」

『まだまだ青いのぉ』

「うるせえ」


 素数を数えながら浴室を出ると、バスタオルで体を拭いていく。本来死ぬはずだった体。未だに死ぬ予定の体。生き続けるには……。


 頭を横に振る。どうせ世界から消えるんだと、殺しを正当化する自分が嫌いだ。俺の記憶には残るんだぞ。その罪を俺は背負い続けられるか?


 ……今はまだ無理だ。それでも生きたくて。人生を楽しみたいと願ってしまって。


 矛盾する思考に俺はため息を吐いた。

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