第25話 深海

(あのお人形さんが燃えちゃうわ!)


 私は大急ぎで家の中に入ろうとした。

 私には命に変え難いほど大切でたったひとつの人形があった。

 今でもその輪郭、その柔らかさ、その匂い、全てを容易かつ鮮明に思い出すことができるほどそのときまで一緒に過ごしてきた人形である。


「死にたくなけりゃここで待ってろ!」


 あの時にその近所のお爺さんが居なければ私は死んでいたのかもしれない。


「でも!」

「あのお人形さんが——!」


 私は今にも泣き出してしまいそうなその悲しみを抑えながら人形を救い出そうとした。


「人形よりも自分の命だろ!」


 私はその悲劇的な状況をただぼうっとみている他に何もできなかった。

 何もかもが不明瞭だった。

 私のお父さんは?

 私のお母さんは?

 どうしてこんなことになってんの?


 私のお人形さんは?


 ふと後ろの方から声が聞こえる


(大変だわねぇ…あの子どうなっちゃうのかしら?)


(さぁ?でも…あんな家族だからどこか施設に引き取られるんじゃないかしら?)


 完全に余計なお世話だった。放っといてくれ。私だけの悲劇なんだから。


 それからの日々はほとんど覚えていない。

 深海のようにただひたすらと漂う世界を生きていた。


 文字通りいろんな親戚の家を盥回しにされた。


 —ここの家はこれから遠くに引っ越すから別のところに行ったほうがいい

 —仕事が忙しくて一緒にいてられないから別のところに行ったほうがいい


 まったく、嘘をつくにしてももう少し難しい嘘をついてほしいものだ。

 大人なんだからもう少しお互いにとって気持ちの良い嘘と言うものがあるだろう?

 そんなことを考えながら親戚の家を転々としていたある日、そこの家も何らかの適当な理由をつけて私を追い出した。

 荷物と次の盥回し先の住所を手渡され1人で駅に向かった。


 まだ暑い日々が続く8月の末だった。

 日陰にいながらもその太陽の矢が私の体に突き刺さっていた。

 駅のホームには年配の夫婦が2人、これからどこかへ行くのであろう。荷物を持って、ついたら何をしようとか、何を食べようとかといった話をしていた。


 いつか私にもそんなふう内側から厳重に閉ざされてしまっている心の扉を開くことのできる運命の相手が見つかるのだろうか?


 その仲睦まじい夫婦をみているとふとそんな風に考えてしまった。

 今は少し先の未来ですら分からないのに…なんて素敵な夫婦なのだろう。


 そんな理想を掴み取るためにできることはたった一つしかない。

『今』を変えるのみだ。

 私は唇をきゅっと結んで電車が来るのを待つ。


 ○


 列車で1時間ほど乗って主要駅についた。

 昔家族旅行の時に使ったきりでここに来るのはほぼ1度目のようなものだ。

 さて、私が次に乗る列車は2時間後に来るらしい。それまで何にをして時間を潰そうか?こんなに大きい駅なんだから少し歩くだけでも時間は十分に潰せそうだ。

 そう考えた時だった。ふと誰かに引き止められた。


 ○


 物事には一つ『運』と言うものが存在する。

 夏休みの終盤に、たった1人で、それも大荷物を持って、さらに少し見窄らしい格好をしていれば警察も怪しく思って引き止めるわけだ。


「貴方、名前はなんていうの?」


 年齢不詳のその婦警は私にそう尋ねてきた。顔には簾がかかっているようでまったく感情が読み取れない。


「…………。」


 この時にはもうある程度の覚悟はしていたし、偽名を言うシミュレーションを頭の中で何回もしていた。

 でもそのシミュレーションは実行には移すことができなかった。

 まだ心の底では決別しきれない自分が存在するから。


「はぁ…」

「じゃあさ、名前が言えないならせめてどこから来たか教えてくれない?」


「……」


 私はただ小さく申し訳なさそうに被りをふるのみであった。


「うーん……」

「困ったわねぇ…」

「とりあえず、駅構内の防犯カメラの解析と、似ている容姿で捜索願が出されてるか確認しておいてもらえる?」


 その婦警は部屋の隅にいる若い警官にそう指示した。


 さてこれからどううまくこの女を巻こうかと思案していた時、ふとお腹の音が部屋中に響き渡ってしまった。


 ふっとその婦警は笑みを浮かべる。初めて浮かべた笑みは私をも惚れさせるようなほどとても可愛らしい笑みだった。


「何か買ってきてあげるわね」


数分後、婦警はペットボトルの飲み物と少しの菓子パンを手に抱えて中に入ってきた。


「その…あんまり貴方のようなお年頃の子供たちが何を食べるのか分からないけど…こんなのでよければ…食べてくれる?」


 腹の減っていた私は別に出された食べ物に文句は言わず食べた。

 久しぶりにまともな食事にありつけた気がする。

 いや、今までもある程度の暖かいご飯は親戚の家で出してもらってはいた。

 けれども、その暖かさとはまったくベクトルの違う、当時の私にはまったく感じたことのなかった『暖かさ』をその無機質で不恰好なな食事からは感じられた。

 その婦警は婦警なりにおもてなしを、心の扉を開いてもらおうと一生懸命に試みていたのだ。


 私はポロリと涙を流して少しだけ語った。

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