終章 雨之島の回顧録

エピローグ 居酒屋での巡り合い

 それがもう何年前の話だったのか、俺は覚えていない。おそらく、十年くらい前だっただろう。

 誰かと出会って、なんだかんだ言って、家に戻ったあと、母はすでに上京する準備をし始めた。そして、翌日は飛行機に乗り込み、生まれ育った雨之島に別れを告げた。それくらいしか覚えていないのだ。

 正直、当時の俺は複雑な気持ちになった。

 母と一緒に離島した時から、時の流れが早くなったように感じた。

 無論、俺は東京の高校に通い、たくさんの試験を受けた。しかし、成績が良くなかったから、俺は卒業したものの大学に進学することができなかった。

 かわりに、俺はバイトを探し、料理に興味があったからレストランで働いてみたけど、思ったより大変で辞める間もなくクビになった。理由は早く料理できないからだった。

 その後、俺は再びバイトを探し、コンビニで働いてみた。なんにせよ簡単な仕事だろうな、と思ったから。

 しかし、俺は社会人の世界を舐めていた。

 毎日帰りが遅くなってしまい、寝る前に身体からだがいつも疲れ果てた。おかげで眠れない夜はなかったけど、正直俺はもっと簡単な仕事をやりたかった。

 母はとある事務所で働き始めて、情けない俺を養ってくれる。母がいなければ、俺はとっくに死んでいただろう。だから、俺は毎日欠かさず礼を言った。特に食事の時に。

 仕事のない俺は三食を食べられるはずがない。それなのに、母の美味しいこの上ない料理のおかげで、お腹が空くことはなかった。

 結局、俺は働こうとするのを完全に諦めて、NEETになってしまった。

 俺は母に余計な心配をかけたのだろう。

 夏海が亡くなったときから、俺は俺ではなくなった。今にもあの日の件を思い出してしまう。変えられないのに、俺はまだ後悔している。

 しかし、自殺だけは絶対にしない。最後まで生きていきたいし、母を悲しませたくないのだ。

 ずっとNEETでいるわけにはいかないとわかっているので、俺は人生を変えようとした。まずは心理療法セラピーに通い始めた。そして、俺はセラピストと協力して、徐々に夏海の死を後悔しなくなってきた。

 何をしようとしても、後悔は全部消えないのだろう。しかし、俺の後悔の度合いが天之島の降水確率(つまりゼロ)に近いなら、それでいいと思う。

 俺のセラピーが一段落したところで、俺はもっと自信を持てるようになり、就職を再開した。今回は事務所で働いてみたいと思ったので、俺はソフトウェア開発の会社に応募した。

 案外、俺はそつなく面接に合格して、ようやく本格的な社会人になった。

 毎日残業せずに帰ったおかげで、母と過ごせる時間が増えた。

 それに、俺は同僚と仲良くなり、よく飲み会に参加していた。

 俺はお酒が好き。なぜなら、嫌なことを忘れさせてくれるし、どんな問題も解決できるから。特にIPAビールの後味が気に入っていて、居酒屋に行くたびに俺はいつも飲むのだ。

 そういえば、今日は仕事後に居酒屋に行くことになった。

 事務所の窓を見つめている俺は我に返って、画面に視線を戻した。

 外は雨が降っている。それを見ると俺は夏海のことを思い出さずにはいられない。少なくとも、セラピーのおかげで俺は前より苦しまなかった。

 ちなみに、東京の雨はそんなに危険ではないらしい。皆がレインコートと傘を使って、濡れても構わないと言わんばかりに淡々と外を歩く。

 同僚が雨の中を外出しようとするのを見て、俺は慌てて必死に引き留めようとした。すると、皆が俺に眉をひそめて、「一体何をしてるんだ?」と戸惑いながら訊いてきた。

 俺は雨病のことを説明しても、彼らは全くわからなかった。

 

 ――ばかばかしい迷信だな……。

 

 ――そんなの東京にはないわよ!


 ――ったく、なんでそんなことを信じてるんだ?


 同僚の反応は大体そんな感じだった。

 正直、信じてもらえるとは思わなかった。夏海だって、最初は雨病に信じていなかったし。

 俺は頭を下げながら「すみません」と言って、席に戻った。

 今は午後五時だ。飲み会まではあと少し。

 ――頑張れ、俺。

 

⯁  ⯁  ⯁


 幸いなことに、飲み会が始まる前に雨が止んでくれた。

 俺は早めに事務所を出て、行きつけの居酒屋に向かった。いつものようにIPAビールを注文して、椅子パブ・シートに腰を下ろすと、隣の席に座っている女性がこちらに挨拶した。

「こんばんは」

 今まで、居酒屋で赤の他人に話しかけられたことはなかった。俺はびっくりして、唐突に彼女に目をやった。

 整った顔を添える髪は肩にかかるような長さで、切ったばかりなのかサラサラだった。

 服から高級な香水の香りが漂っており、俺の鼻腔をくすぐる。

 知らない人なのに、彼女といると俺はなぜか安心感を覚えた。

「あ、こんばんは」

「何を飲んでいますか?」

 と、彼女は首を傾げて訊いた。

「これ、IPAビールなんですよ。後味が一番口に合います」

「私、カクテルのほうが好きだと思います」

 ――カクテル、か。贅沢だな。

「じゃ、好きなカクテルとかあるかな?」

「んー、難しい。多分、ピニャコラーダですね」

 ピニャコラーダ。俺が初めてスペインに行ったとき、ホテルのレストランで何回も見かけたカクテルだった。人気があるようだったから俺は飲んでみたかったけど、その時はまだ未成年だったので飲めなかった。

 しかし、今は違う。俺はようやくピニャコラーダを飲むことができる。

 せっかくだから、IPAビールを飲み終えてから頼んでみようかな。

「美味しそうですね。俺も飲んでみたいなぁ」

「そうですか。飲んでみたら、感想を聞きたいですわね」

 俺はIPAビールを飲み干し、あははと笑った。

 そして、杯を磨いているマスターにピニャコラーダを頼んで、大人しく待った。

「うわー! すごいですね」

 いよいよピニャコラーダが出来上がると、隣の女性は身を乗り出してグラスをじっと見つめる。

 グラスは細長く、店内の照明を反射すると輝くように見えた。

 中の黄白色の液体をじっと見つめながら、俺はグラスを口に運んで、一口飲んでみた。甘酸っぱい味が口の中に広がり、その後にココナッツミルクとパイナップルジュースの後味が残った。

 まだ一口しか飲んでいないのに、俺はもうすっきりした気分になった。

「どうですか?」

 ピニャコラーダ好きの彼女は身を乗り出したまま、俺の感想を訊いた。

「思ったより美味しいなぁ。頼んでよかったです」

 言って、俺は再びグラスを口に運んで、飲み続けた。

 女性はもう酔っぱらっているのか、大袈裟に笑顔を見せて、あははと笑った。

「よかったよかった。私もピニャコラーダが大好きですからね」

「ああ」

 俺は同僚の飲み会をふと思い出した。この見知らぬ女性と話していると、時間の流れを感じなくなった。もう飲み会が始まったのか、と俺は思いながら必死に携帯をつけて画面を見たけど、時間は午後5時57分だった。

 事務所を早めに出てよかった。そうしなければ、この女性に出会えなかっただろう。これは運命というやつなのか?

 あと三分で、同僚たちがきっと居酒屋に入ってくる。そして、俺はこの女性と別れを告げて、二度と会えないだろう。

 そう考えると、俺は少し悲しくなった。なぜか、彼女といると妙な感情がこみ上げる。

 それでも、いつもこんな風に雑談しているわけにはいかないとわかっている。

 なら、俺が先に失礼したほうがいいのだろう。

 ピニャコラーダを飲み終えると、俺は席を立ち、入口のほうに視線を向けた。

「帰るつもりですか?」

 後ろから、名残惜しそうにその女性はそう言った。

 その声に、俺は振り返らずにはいられなかった。

「いや、同僚と飲み会の予定です。話してくれて、ありがとうございました」

 俺がそう言うと、居酒屋のドアがからりと開いた。もちろん、入ってきたのは俺の同僚だった。

「おい、雄己。ナンパでもしてるのか?」

 俺が再びドアのほうに目をやると、同僚の一人が俺をからかうようにそう言った。

「ったく、ナンパじゃないんだよ。彼女はしばらく、俺の飲み仲間になってくれただけ」

 そして、残りの同僚たちは次第に居酒屋に入ってくる。

 俺と飲んでくれた女性は立ち上がり、背伸びをした。

 彼女が立ち去る前に、俺は一つだけ疑問を投げかけた。

「あの、ちょっと気になっていたことがあるんですけど。ここの雨って、危険ですか? 濡れたら、狂ったりはしないんですよね……?」

 彼女が俺の言うことをわかるはずがない。首を傾げたり、眉をひそめたりするのは当然だ。それなのに、彼女は怪訝な顔もせず、俺が「今は何時間ですか?」のようなありきたりな質問を訊いたかのようにあっさりと答えてくれた。


「あはは。東京の雨なら、きっと大丈夫ですよ」


 ドアに向かうなり、彼女は着かけた黄色のレインコートに腕を通し、フードを頭に被った。


「また、雨が降りそうですよね。……

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【完結】雨上がり、後悔を抱く 私雨 @dogtopius

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