第26話 あの堤防の思い出

 結局、俺は小泉さんと会うほうを選んだ。なぜなら、この期に及んでドタキャンするのはアレだし、絶対に言わなければならないことがいくつもあるから。

 待ち合わせ場所は以前俺が夏海を見つけた、あの堤防だった。

 月光に照らされた地面が青く染まり、水面みなもが光り輝いている。

 俺はこんなに遅い時間に堤防に行ったことがない。

 目の前の光景を見つめていると、一人の姿が浮かび上がった。その人影はこちらを振り返ってから視線を前方に戻した。

 黒いはずのスーパーロングの髪の毛が月明かりに照らされて青黒く見えた。

 俺は彼女のほうに一歩踏み出す。彼女はきっと、俺が今夜会いたかった小泉さんなのだ。

 小泉さんならではのスーパーロングの髪がそっと夜風になびく。それを見つめながら、俺は湖を眺めている彼女に近づく。

「小泉さんだね。こんばんは」

 俺が挨拶すると、彼女は再びこちらを振り返った。

 夏海が亡くなったことに気づいたのか、小泉さんは意外と落ち込んでいるようだ。まるで俺に会っても嬉しくないと言わんばかりに。

「こんばんは」

 言いながらも、小泉さんは絶対に湖から視線を外さない。

 俺は彼女の隣に立って水面に視線を向けたけど、面白いものは一つもなかった。俺からすると、ただの湖のように見えた。しかも、周りが薄暗くなったせいで波がよく見えない。

 とにかく、俺は言いたいことを言うために来たのだ。しかし、小泉さんが夏海の死をすでに知っていたら、耳を貸してくれないだろう。

 無言で潮の干満を眺めていると、俺は気まずい沈黙を破ろうとこう切り出した。

「割と綺麗だね」

「そうですね。見ているだけで落ち着く気がします」

 言って、小泉さんは数本の髪の毛を耳にかけた。それでも、耳にかかったばかりの髪の毛はすぐに夜風に吹かれ、元の位置に戻った。風が強い時はポニーテールのほうがいいのかな。

 少なくとも、これで会話が始まったようだ。再び沈黙に包まれてしまう前に、言いたいことを言ったほうがいいだろう。

「じゃあ、今夜会いたかったと言ったんだけど。……それは、言いたいことがあるからだよ」

 気のせいかもしれないけど、俺がそう言うと、小泉さんは怪訝そうな表情を浮かべたようだった。

「そうですか。それなら、なんでも言ってください」

 果たして、小泉さんは夏海が亡くなったことを知らないのだろうか? 知っていたら、もっと悲しんでいるはずなのに。それなのに、彼女はただ淡々と目の前の湖を眺めているだけ。

 俺の言いたいことは言いにくいこの上ない。そもそも友達が亡くなったのは初めてなので、俺は何を言えばいいのかさっぱりわからない。

 俺はもう一歩進む。なぜか、小泉さんにもっと近いほうがいい気がしたから。

「あのさ。昨日、雨が降ったな」

 一応昨日のことを確かめたかった。もしも、あの日がただの悪夢だったら。俺は今もうなされているかもしれない。夏海は本当に生きているかもしれない。

 しかし、小泉さんの答えが俺の期待を裏切った。

「はい」

 言って、小泉さんは頷いた。

「もう一度言いますけど、本当にすみませんでした。せっかくレインコートを買っておいたのに、ですね」

 俺はレインコートの件をすっかり忘れていた。もしかして、小泉さんは手伝えなかったことを悔やんでいるのか?

「大丈夫だよ。それはしかたないだろ」

 と俺は言ったものの、小泉さんが俺の言いたいことを聞くと、更に自責してしまうのではないか?

 それでも、俺は言うしかない。


「夏海のことなんだけど。彼女は、雨病患者だったらしい」


 俺の言葉に、小泉さんはようやく水面から視線を剥がした。

 彼女は目を見開き、口をぽかんと開ける。

「山口さんは昨日、雨に濡れたんですか!?」

「いや、もっと前のことなんだ。俺が雨之島に戻ってきた、あの日の前日に雨が降ったよね」

「はい、確かに降ったんですけど」

 小泉さんは、何が言いたいのか、と言わんばかりに眉をひそめた。

「夏海はあの日、雨に濡れてしまったんだろ。そしてあの日から昨日まで、夏海の症状が悪化していたかもしれない」

「そう……ですか」

 小泉さんは明らかに涙を抑えようとしている。話しながら、言葉が途切れ途切れになった。

「それで……今朝は……また入院されたんですか?」

 俺は返事もせず、ただ首を左右に振った。

 言うべきことはわかるけど言えない。小泉さんを更に泣かせたくないし、傷つけたくないし、そもそも俺は雄己ゆうきと母に名付けられたのにあんまり勇気を持っていない。

 そんな貧弱な俺なんだけど、それでも俺は小泉さんにこれをちゃんと言わなければならない。

 俺が深呼吸したのが、小泉さんに聞こえたのかな?

 深呼吸してから、俺は目を瞑って悲しいこの上ない言葉を口に出した。


「今朝、いや、昨夜かもしれない。夏海は亡くなってしまったんだ」


 それは良い言い方ではなかっただろう。言いながらも、俺は素っ気なさすぎるなと思った。でも、そういうことはもういい。なぜなら俺は結果がどうであれ、ようやく言いたいことを言えたから。

 その後、小泉さんは何も返事をしなかった。ただうなだれたまま、無言で嗚咽を漏らした。

 夏海は亡くなってしまい、小泉さんは何もできなかった。そもそも、小泉さんは夏海が雨病患者であることを知らなかったのだろう。

 それがどれだけ悔しいのか、俺には想像もつけない。俺はただ、泣きじゃくっている小泉さんの姿をじっと見つめた。

 そして、小泉さんに釣られて、俺も泣き始めた。

 俺たちの涙は月光を反射して落ちていく。まるで涙が光り輝いているかのようだった。

 これはきっと二度と見れない、一期一会の情景なのだろう。

「泣かせてごめんね。でも、どうしても言いたかったんだ」

 と、俺は小泉さんの歪んだ顔を見つめながら言った。

 小泉さんは一筋の涙を手で拭い、こちらに視線を向けた。

「いいえ。言ってくれて、よかったです」

 小泉さんがそう言うと、残りの涙が溢れ出した。

 俺はきびすを返し、帰り道に視線を移す。

「俺も、やっと言えてよかったなぁ」

 それだけ言って、俺は両手をポケットに突っ込み、小泉さんを振り向いた。

 なぜか、俺は肩の荷が下りた感覚がした。ようやく過去の後悔を吹っ切ったかのように。


⯁  ⯁  ⯁


 それから、俺たちはいろんなことについて語り合った。夏海と過ごした時間とか、子供の頃からの思い出。

 こうして喋っているのは楽しいのだけど、あまりに長い間出かけると母に心配をかけてしまいかねない。だから、会話がきりがいいところで、俺は小泉さんに別れを告げた。

「じゃあね、小泉さん。明日は一緒に学校に行こう」

 小泉さんは何時間ぶりかに笑顔を見せて、美しい髪を風になびかせた。

「楽しみですね」

 小泉さんはまだ泣いていたけど、本当に楽しみにしているようだった。

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