第五章 雨上がり、君を想う

第25話 地面の匂い

 雨上がりの世界。それは、俺にとって見たことのない世界。

 地面がまだ濡れている。

 雨粒が木々の枝を伝って、落ちてくる。大自然が夏海の死を悼んでいるかのように。

 空気には濃厚な匂いが漂っている。これがいわゆる雨後臭ペトリコールなのだろうか?

 夏海がもういないせいか、雨がやんだせいか、周りがいつもより空しく見えた。一人で外を歩いていると、まるで俺だけが生き残ったかのようだった。

 俺は深呼吸をして、変な臭いを帯びている空気を吸い込む。

 前庭で立ち尽くしたまま、空を見上げた。

 もう雨がやんだとはいえ、たくさんの雲が流れている。しかし、それは灰色の雲ではなく、白雲だった。雲を見ていると、俺はなぜか安心感を覚えた。

 ややあって、母は俺に声をかけた。

「雄己……」

 俺はその弱々しい声に振り返った。

 母はまだ寝間着を着ている。今朝家を訪ねた警官はそれをどう思ったのだろうか。

 母が俺を家に入るように手招きしたので、俺はきびすを返して玄関に近づいていった。しかし、家に入ろうとした矢先に俺は母に強く抱きしめられた。

 母が泣いている。俺に雨病に罹ってほしくないと言わんばかりに。

 その涙が雨粒のように俺の服に落ち、染み込んだ。

「雄己が生きていてよかったの」

 それだけ言って、母はおもむろに顔を上げた。すると、まだ流れている涙が重力に従って庭の芝に落ちていく。

「ああ」

 頷いて、俺はそう答えた。なぜなら、何を言えばいいのかさっぱりわからなかったから。

 俺はまだ、夏海が亡くなったことも受け入れていない。

 これから学校に行くと、俺は一人、あるいは小泉さんと二人で通学路を歩く。そしてホームルームが始まると、夏海はその教室にいない。まるで他校に転校したかのように。

 天国に学校があるとしたら、夏海はきっとあの学校に転校するのだろう。そう考えると、俺は少しだけ嬉しくなった。

 それでも、俺の人生はこれから大きく変わるに違いない。

 俺は一歩踏み出して、家に上がった。

 ――今日は学校をサボろうか。サボってもいいんだろうね。


⯁  ⯁  ⯁


 結局、俺は一日中家で過ごした。目覚まし時計を見ると、『18:05』と表示されている。そろそろ晩ごはんを食べる時間だ。

 そういや、小泉さんは無事に雨を凌げたのかな……?

 俺は携帯を手に取り、メッセージを送った。

『今日は学校をサボってごめん。いろいろあってさ』

 そして、返事が間もなく来た。

『大丈夫です。実は、私も学校をサボったんですよ。でも、それを内緒にしてくださいね』

 俺は小さく笑った。優等生かつ学級委員である小泉さんも学校をサボるのか。

『もちろんだ』

 しばらく、俺は夏海が亡くなったことを忘れていた。こうして小泉さんと話していると、何事もなかったようだった。しかし、俺は夏海の死と向き合わなければならない。

 俺はなぜか、あの堤防に行きたくなった。小泉さんと会いたくなったのだ。

『今夜は暇かな?』

『ええ、暇ですよ。何かご用が?』

『20時、あの堤防で待ち合わせないか』

『いいんだけど、なんでですか?』

『言いたいことがあるんだ』

 小泉さんとの会話を終えてから、俺は台所に向かった。

 母も随分心配しているのに、彼女はひたすらに晩ごはんを作っているようだ。

 包丁で魚をさばいている母の姿を見つめていると、俺はふと夏海とクッキーを作った時のことを思い出した。そして、知らないうちに笑みを漏らした。

 俺の存在に気がついたのか、母はこちらに目をやった。

「ね、今日の晩ごはんは焼き魚なのよ!」

 と、母は嬉しそうな口調で言った。

 彼女は料理が好きなのかな。俺にとって、時間がかかりすぎてめんどくさそうなのだけど。とはいえ、夏海と一緒に作ったクッキーは美味しかったな。

 俺はもう一度料理してみたいと思う。だから、自室か居間に向かうより、台所の中に向かうことにした。

「俺も手伝っていいかな」

 俺の言葉に、母は当惑した表情を浮かべた。

「雄己も……料理したいのか?」

「ああ、夏海と一緒にクッキーを作るのは楽しかったから」

 母は口元をほころばせ、目を細めた。

「明日、もう一つのエプロンを買ってあげるよ」

「ありがとう。エプロンはなくてもいいけど」

「エプロンがないと服が汚れちゃうし。まさか、洗濯もしてみたいわけじゃないよね?」

 俺は必死に首を横に振った。料理は楽しいとはいえ、洗濯は一向に楽しくなさそう。

「それなら、服が汚れないように気をつけてね」


 三十分後、いよいよ焼き魚が仕上がった。

 母は焼き魚を二つの皿に盛り、見慣れた食卓に載せた。すると、美味しそうな匂いが漂い、俺は急に食べたくなった。

 母が配膳している間に、俺は席について目の前の割り箸を手に取った。箸を割ってから、俺は焼き魚を口に運んだ。

 ――美味い。

 もちろん、母の料理が美味いのは当然だけど、今回は俺も活躍したのだ。つまり、俺の料理力が少しでも上がったらしい。

 やっぱり、自分で作った料理が一番美味しい。そう思いながら、俺は焼き魚を食べ続けた。

 しばらくの間、食器の音だけが聞こえた。なぜか、厳粛な雰囲気が漂っているように感じた。

 結局、沈黙を破ったのは食べるのを中断した母だった。

「あのね雄己。食事中なんだけど、大事な話があるのね」

 俺は箸を皿に置いて、母に視線を向けた。

 一体どんな話がしたいのかな。おそらく、夏海の死についてだろう。それなら別にいいけど、かなり暗い話になるだろうし、正直食べたあとに話したほうがいいと思うのだけど。

 母は口を開いたけど、言葉に窮しているようだった。ややあって、彼女はようやくこう切り出した。

「雨之島を、ここを離れようと思ってるんだけど。夏海が亡くなってしまった時から、私はすごく心配している。もし、雄己も雨病で亡くなったら、と。だから、もっと安全な場所に住んだほうがいいんじゃない?」

 今回、言葉に窮したのは俺だった。

 つまり、引っ越ししたいと言っているのだ。それは本土へ? それとも、海外なのか?

 母の言い分は正しいだろうけど、俺はなぜか雨之島を離れるのが嫌だった。ここは俺の居場所だし、小泉さんと時間を過ごしたい。

 俺は悄然とうなだれ、視線をさまよわせた。どう答えればいいのかさっぱりわからなかったから。

 しかし、投げかけたい疑問は一つあったので、俺はそれを訊くことにした。

「いつ離れるつもり? まさか、明日とか?」

「まだ決めていないけど、早く離れたほうがいい気がするの。いつ雨が降るかわからないし」

 雨に濡れたら狂って他界してしまう。それが雨之島の現状なのだ。

 危険だとわかっているのに、俺はなかなか離れたくなかった。引っ越しなんてしたくもなかった。

 それでも、俺は母に抵抗しなかった。母は賢いし、彼女の判断を信じたい。しかも、俺は心配している母にこれ以上ストレスをかけたくない。

「わかった。でも、今日の二十時に友達と会うことになったから、その後はちゃんと考えるよ」

 俺がそう言うと、母は怪訝そうな表情を浮かべた。

「こんな時間に、一体誰と会っているの……?」


 ――しまった。母はまだ小泉さんのことを知らないんだ。

 

 適当に誤魔化してみるか、素直に言うか。賢い母のことだから、誤魔化してみても効かないのだろう。だから、俺は無難な選択を選んだ。

「学校の……知り合いなんだ」

「そうか。でも、結構遅いんじゃないか? 明日にでも会ったほうがいいと思う」

 俺はこんな時間に友達と会ったことがないので、母が心配するのは当然。

 しかも、急に柄にもないことをし始めるのは雨病の症状の一つなのだ。雨病に罹ってしまったなんて母に思わせたくない。俺は雨が降り注ぐ前に家に逃げ込んだし、雨病に罹ったはずがない。

 もちろん、母は『雨日記』を読んだことがないから知らないのだけど、夏海が雨病に罹った日は昨日ではなかったのだ。本当は、滑走路で夏海を見かけたときはもう手遅れだった。

 俺は家族とスペインに行ったので、端から夏海を救うのは無理だった。

 俺はそれを一生後悔するだろう。取り返しのつかないことなのに。

 小泉さんとの出会いを妨げようとしている母。でも大事なことを小泉さんに言わなければならない俺。

 俺は返事に窮して、最初に思いついた言い訳が口を衝いて出てしまった。

「俺たちは天体観測する予定なんだから、夜じゃないとダメだね」

 もちろんそれは真っ赤な嘘だったけど、母は全然気づかなかった。俺は内心で安堵の溜息を吐き、携帯をポケットから取り出した。

 時間はもう十九時過ぎだ。そろそろ食べ終えて出かけなければ、間に合わないかもしれない。

 俺は再び箸を取り、頭を空っぽにしたまま焼き魚を食べる。

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