第27話 雨祭り ①

 あれから一週間が経った。俺は約束通りに毎日小泉さんと登校したり、学食で一緒に昼ごはんを食べたりして、どこかつまらない日々を過ごした。

 そして、今日は待ちに待った週末の始まりなのだ。

 今朝目覚めると、俺の自室はベッド以外空っぽになっていた。

 どうやら、母はそろそろ東京に引っ越すつもりらしい。

 しかし、その前にはちゃんと小泉さんに別れを告げたい。昨日そうしなかったのは、いつ離島するかわからなかったから。

 自室を出て階段を降りると、母が荷物を詰めているところだった。

 俺の存在に気がつくと、彼女は立ち上がり、こちらに目を向けた。

「おはよう、雄己」

「おはよう。そろそろ引っ越すの?」

「そう。明日、東京に行くよ」

 明日、か。俺はその突然すぎる言葉に戸惑った表情を浮かべた。

 東京に行きたくないわけではない。ただ、今まで島に暮らしていた俺にとって、都市に住み始めるのは想像もつかないことだったのだ。

「そうなんだ。じゃあ、俺も手伝うよ」

 俺がそう言うと、母は目を細めた。

 母と一緒に料理をした時から、俺はもっと母を手伝うようになった。なぜなら、料理をしてみたとき、俺は彼女の負担を初めて実感して、できればそれを減らしたいと思ったから。

 しかし、荷物を詰めるのを手伝う前に、俺は朝ごはんを食べなければいけない。というか、食べないとやる気が湧いてこないのだ。

「もう朝ごはんを食べたの?」

 と、俺は母に直接訊いてみた。

「ええ、いっぱい食べたよ。雄己がいつ起きるのかわからなくてさ」

「じゃ、俺は朝ごはんを食べにいく」

 言って、俺はきびすを返し、台所に向かった。


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 朝食を摂ったあと、俺は居間に戻って母の手伝いをし始めた。

 俺は重い物を預かり、母は形見などを集めている。

 数分後、俺のスーツケースが埋まった。

 母は全ての形見を拾い集め、自分のスーツケースに入れているところ。

 それをぼうっと見つめながら、俺は疑問に思ったことを考えた。

 

 ――本当に、この家を離れるのか?


 こうして埋まったスーツケースを見ると、俺はようやく実感した。今まで非現実的に感じた東京への引っ越しは、明日実行するんだ、と。

 正直、俺は覚悟も準備もできていない。とはいえ、事情が事情で、母の理由に納得がいく。

 また雨が降ったら、誰かが雨病で亡くなってしまうに違いない。だからこそ、もうここにいるのは危険すぎる。

 母からすると、彼女は俺を夏海と同じように失いたくないのだろう。きっと、俺に苦しんだり狂ったりしてほしくない。

 だから、俺たちは東京に引っ越すのだ。

 母の考えは全部理にかなっている。

「よいっしょ!」

 母は立ち上がるなり、ポニーテールに結んだ髪の毛を下ろした。

 こうして、俺たちはようやく荷物を詰め終えた。あとは空港に行って、飛行機に乗るだけ。

 ――それに、小泉さんにさようならを言う。

 俺が上京したら、小泉さんはひとりぼっちになってしまうだろう。俺の知る限りでは、なぜか他の友達はいない。

 正直、それは変なことだ。彼女は美人だし、モテないほうがおかしい。だから、俺と夏海以外の友達がいなかったとは……。

 もしかして、その余所余所よそよそしい程度のせいで友達がなかなかできないのか。彼女は同級生にも敬語を使っているし。

 俺は気にしなかったけど、他の人ならもっとタメ語で話してほしいかもしれない。

 とはいえ、最初は皆が敬語で話すのではないか。初めて夏海に出会ったとき、俺もそうだったし。

 最初に何を言ったのか、もう覚えていないけど。

「あのね、雄己。雨祭りって祭りを聞いたことがあるの?」

 俺は母の問いかけで我に返った。

「いや、聞いたことないなぁ」

「雨上がりに執り行われる祭りなのよ。雨病で亡くなった人たちの葬式みたいらしい」

 ――葬式みたい、か。

 それなら学校の皆も来るはずだ。

 この『雨祭り』に行ったら、俺は小泉さんにも、夏海にも別れを告げられる。そうしたら、俺にまとわりつく後悔は全部消えてしまうかもしれない。

 そういえば、夏海の場合は『愛しているよ』と言い足したほうがいいかな……?

 短すぎて呆気あっけなく終わってしまったとはいえ、夏海は俺の初恋だった。しかも、夏海からもらったキスは、俺のファーストキスだった。

 しかし、小泉さんはまだそれを知らない。彼女が知ったら、どんな反応をするのかな。おそらく、頭を下げて「おめでとう」と言うだろう。

「じゃあ、俺は雨祭りに行きたい」

 俺が母にそう言うと、彼女は無言で頷いた。

「夏海に、ちゃんと冥福を祈らないとね」

 夏海なら、彼女はきっと天国にいるはずだ。

 逆に、俺は地獄に堕ちてもおかしくない。

 心に残っている後悔は未だに俺をさいなんでおり、そういうネガティブな感情を抱かせてしまう。

 しかし、一生後悔し続けてはいけない。俺は誰よりもそれをわかっている。

「そうだな。引っ越す前に、さようならを言わないと」

 言って、俺は壁掛けの時計に視線を向けた。時間は午前九時。

「ちなみに、雨祭りはいつ始まる?」

「んー、五時だっけ」

「なら、ゆっくりと準備できるね」

 とにかく、俺たちは長い間荷物を詰めていたし、一息ついたほうがいい。

 俺は居間のソファに寝転んで少しくつろいだ。

 しかし、俺とは対照的に、母は休憩もせずに次のやるべきことに取り掛かっている。頑張り屋でありすぎるじゃないか。数分くらい休憩したら、次のやるべきことがもっと上手くできるだろうに。

「母さんも休憩しないか?」

 開けっ放しのドアを覗きながら、俺はそう尋ねた。

 母は立ち止まり、数歩こちらに戻ってきた。ドアの前に着くと、彼女はソファに横たわっている俺にこう言う。

「休憩したら、私は事態の残酷さに気がついてしまうかもしれない。だから、家事で気を紛らしているの」

「そうなんだ……」

 夏海の死は俺にだけではなく、母にも影響を与えているのか。母は夏海のことをよく知らなかったけど、一緒に過ごした短い時間からすると、かなり仲良くなったようだ。しかも、家で誰かが亡くなったら、相当複雑な気持ちになるのは当然。

 しかし、俺はどう母を支えてあげたらいいのかわからない。俺だってまだ悲しんでいるし。

 夏海のいない居間で寛いでいると、何か違うような気がせざるを得ない。夏海の存在感はそれだけ大きかった。

 雨が絶え間なく降り続けたあの夜に、俺は夏海に我が家に泊まってほしいなぁと思った。もう家出したし、実家に帰らなくてもいいかな、とも思った。

 しかし、それは俺のわがままな思いにすぎなかった。

 そんなことを考えていると、俺はふと夏海のお母さん――杏子あんずのことを思い出した。俺は夏海の幼馴染であるとはいえ、彼女の家族にあんまり接しなかったし、だいたい夏海の家を訪ねるより、外で遊ぶことが多かった。

 俺が小泉さんと一緒に夏海の家を訪ねて杏子と話した日、人懐っこいお母さんだなと実感した。夏海にこんなお母さんがいてよかった。

 だから、夏海が杏子の助言に逆らって雨に濡れたとき、彼女は一体何を考えていたのか。

 俺にも人懐っこい母がいるからこそ、決して助言に逆らう理由も必要もないと断言できる。

「それじゃ、俺も手伝おうかと思う。お母さんがこんなに頑張っていると、俺はじっとしていられないな」

 言って、俺はソファから立ち上がった。

「最近もっと手伝ってくれるようになったのね。ありがとう、雄己」

 言いながら、母は台所に向かっていく。その声は次第に小さくなっていった。

 その後、俺は母と昼ごはんを食べ、雨祭りが始まるまで母の手伝いをした。

 家は家具以外空っぽになり、まるで住宅展示場のように見える。

 俺は開放感のすごい廊下を進み、最後に自室の様子をうかがった。

 太陽の陽射しが窓に差し込んできて、ベッドを照らしている。床板が陽光に温められ、心地よかった。

 窓を覗いて外を眺めると、濡れた地面がもう乾いていることに気づいた。

 目の前に、雲一つない空が広がっている。

 鮮やかな青空を眺めながら、俺はしばらく窓際で突っ立ったまま、雨之島に帰った日から今日まで起こってきたことを回想した。

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