第20話 『9月9日20時』
「じゃあ、始めようか?」
うずうずしている緑色のエプロンをつけた夏海。彼女はエプロンの紐に挟んだ後ろ髪を引っ張り出さず、ポニーテールに結んだところ。
「具体的に何が作りたいかまだわからないけど」
そして、台所の一角に
普段は母が料理してくれるので、エプロンを一つしか持っていない。だから、俺は気をつけて服を汚さないようにしなければならない。
「んー、選択肢が多すぎるし、決めにくいなぁ」
「それなら、夏海の好きなやつを作ればいいじゃん」
おやつが作りたいと言い出す前に考えておいたほうがよかったのに。夏海はいつも頭より先に口を使ってしまうタイプなのだけど。
まあ、雨がまだ降っているし、とりあえず外に出られそうにない。時間は問題ないから、じっくりと考えて美味しいおやつを作ればいいと思う。
しばらく、夏海は考え込むように手を
ややあって、夏海は視線を前方に戻して、唐突にこちらを微笑みかけた。
「決めた! クッキーを作ってみたい!」
「クッキーは作りやすいんだから?」
俺は首を傾げて、夏海に疑問を投げかけた。
おそらく、俺の推測が当たっているのだろう。なぜなら、夏海は難しいものを作る気力はなさそうだから。しかも、俺は夏海の幼馴染だからこそ、彼女が料理に詳しくないということを知っているのだ。
「あの、多分作りやすいよね? 形が完璧じゃなくても、美味しいなら構わないし」
「じゃ、クッキーを作ってみようか」
俺がそう言うと、夏海は目を輝かせた。思った以上にクッキーを作りたがっているのだな。
俺は携帯を取り出し、初心者向けのレシピをググってみた。すると、何件かのレシピも出てきて、俺は少し戸惑った。
――クッキーを作りたい人はこんなにいるのか。
そう思いながら、俺はスクロールして最低の時間がかかるレシピを探した。ややあって、三十分以内に作れそうなレシピを見つけた。
【初心者向け チョコチップクッキー】
俺はそれをタップしてから、画面を夏海に見せた。
「これでいい? 三十分に作れるんだって」
「本当? チョコチップも美味しそうよね。作ってみようよ」
「わかった。じゃ、俺はレシピを読み上げるから」
夏海は台所のあちらこちらから粉やバターを取り出しては、カウンターに置いておいた。
「準備できているよ」
夏海は必要な食材を全部集めたようだ。彼女はずれたエプロンの紐を結び直してから、俺に視線を向けた。
それを合図に、俺はレシピを読み上げ始めた。
夏海がボウルで食材を混ぜている間に、俺はオーブンを加熱しておいた。料理のことはほとんどわからないけど、それくらいはできると思ったのだ。
どうやら、夏海はクッキーを作るのに頑張っているらしい。
勉強も同じくらい頑張ればいいのにな、と俺は彼女の姿を見つめながらふと思った。
オーブンを用意してから、俺は手持ち無沙汰になってしまった。だから、夏海の様子を見に行くことにした。
「結局、クッキーは作りやすいの?」
俺がそう尋ねると、夏海は食材を混ぜている手を止めた。
「まあ、別に難しくはないけど……」
「つまり、俺にもできることなんだ?」
「多分雄己でもできるよ」
――料理下手の俺でさえもクッキーを作れるとは!
「それなら、俺は一個だけでもいいから、自分のクッキーを作ってみたい!」
「もちろん!」
夏海は俺を応援するかのように笑みを浮かべてくれる。それが俺の原動力となり、無敵になった気もした。
俺は夏海と入れ替わり、目の前のボウルに視線を落とした。中に入っているのは、肌色のビスケット生地。
このままでも美味しそうで、俺は食べたくてたまらなかった。
しかし、まだ食べてはいけないとよくわかっているから、俺はできるだけその衝動に堪えようとした。更に夏海を怒らせたらアレだし。
「じゃあ、手を使ってもいいから、こうしてから、こうしたら……そしてこうすると一枚のクッキーが出来上がった!」
夏海の曖昧な説明に耳を澄ませながら、俺は彼女の手をじっと見つめた。
そして、いよいよ俺の出番が来た。
俺は手をボウルに突っ込んで、一部のビスケット生地を手に取った。それから、それをボール状に形作ってみて、夏海が敷いておいてくれたパーチメントペーパーに載せた。
「これでいい?」
出来がよさそうだったけど、俺は念のため夏海に直接訊いた。
彼女はこちらを振り返り、俺の作ったクッキーをちらっと見た。
「えー、いいわよ! 本当に作ったことはないの?」
「ないよ。でも、俺はもう一個作りたくなったな」
夏海はあははと笑って、「いいよ」と許可を出してくれた。
俺は意を決して、再び手をボウルに突っ込んだ。
作っては載せる、作っては載せる。俺はそれを何回も繰り返した。
そして、いよいよオーブンに入れる時が来た。
台所の床にしゃがみ込んだまま、俺は徐々に金色になっていくクッキーを見守っている。
結局、夏海も俺も六個作った。最初は十二個が多すぎるんじゃないかと思ったけど、母も食べてみたいだろうし、雨が長く続くかもしれない。
黙々とクッキーを見ていると、今まで俺たちの声に掻き消された雨音がまた聞こえてきた。
⯁ ⯁ ⯁
クッキーを焼き終えたところで、俺は一個一個お盆に載せて、居間に運んだ。
そこに入ると、真っ先に視線に入ったのはソファで
彼女はクッキーを見かけると目を輝かせて、ソファから立ち上がった。
「うわー、美味しそう!」
俺がまだお盆をちゃぶ台に置いていなかったのに、夏海はもう一個のクッキーを手に取ろうとしている。
俺はその手を振り払って、ようやくお盆を無事に置いた。
「それじゃ、食べてみようか」
夏海が一番食べたがっているので、俺は最初のクッキーを彼女に譲ってあげた。そして、俺は一個を手に取り、口に運んだ。
――サクサクで美味しい。
クッキーは俺に
どうやら、俺たちの作ったクッキーは大成功のようだ。俺は誇らしげな声で母を呼び、彼女が来るのを待つ。
ややあって、母は階段を下りて、居間に入ってきた。お盆を見ると彼女はかなり驚いたようだ。
「全部自分で作ったの?」
「俺は六個も使ったよ。夏海がすごく上手だから手伝ってくれたんだ」
俺がそう言うと、母は夏海に視線を向けた。
「そうですか? 夏海はもっと来ればいいのね」
言って、母はあははと笑い出した。
注目されるのが嫌なのか、夏海は顔を背けてしまう。
「そ、その。いいんだけど、そんなに上手じゃなくて……」
まだエプロンをつけており、髪をポニーテールに結んだままの夏海。彼女がいつか嫁に行く家は、いかにもラッキーだな。
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